2016年11月7日月曜日

退行 再推敲 Balint の部分

バリントの退行概念 
Winnicott と同様に退行を治療論の文脈で扱った分析家としては、Balint,M. の名を欠かすことはできない。彼の「治療論から見た退行(中井久夫訳)」に沿って以下に検討したい。
 Balint の退行理論は、Ferenzci,S. の臨床経験についての詳細な考察に基づいたものである。そして治療状況における退行を良性と悪性に分類する。Balint によれば、良性の退行とは、相互信頼的な、気のおけない、気を回さない関係の成立が難しくないものであるという。その退行は心の「新しい始まり new beginning 」を導くものであり、現実への開眼とともに、退行は終わる、とする。退行は患者の内的な問題を認識してもらうためのものであり、その際の要求、期待、ニードの強度は中等度である。さらには臨床症状中に重傷ヒステリー兆候はなく、退行状態の転移に性器的オーガスムの要素がない、とされる。
他方悪性の退行では、相互信頼関係の平衡はきわめて危うく、気のおけない、気を回さない雰囲気は何度も壊れ、しばしば、またもや壊れるのではないかと恐れるあまり、それに対する予防線、補償として絶望的に相手に纏りつくという症状が現れる。悪性の退行は、新しい始まりに到達しようとして何度も失敗する。要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険と嗜癖類似状態発生の危険が絶えずある。
この悪性の退行は、外面的行動をしてもらうことによる欲求充足を目的としている。要求、期待、ニードが猛烈に激しく、また臨床像に重傷ヒステリー兆候が存在し、平衡状態の転移にも退行状態の転移にも性器的オーガスムの要素が加わる。(以上同著p.193より抜粋。)
 Balint がさらに強調すのは、退行の関係論的な側面である。「退行とは単なる内界の現象ではなく対人関係現象でもある」(p.193)。そしてFreud およびそれ以後の分析家のほとんど全員が対象関係における退行の役割に目をくれなかったと批判する。そのおそらく唯一の例外は先に見た Winnicott ということになろう。
その Balint の退行理論にあり、Winicott になかったのは、この悪性の退行の記述である。そしてこれが貴重なのは、臨床家は常にこの悪性の退行を起こしかねないクライエントと直面しているからである。
しかしWinnicott, Balint のいずれもが示しているのは、患者が持つある種の治療者への依存関係が、治療にとって大きな意味を持つという視点である。ただしWinnicott が適切な環境が与えられることにより、過去のいわばトラウマ状況の記憶の解凍につながるというやや楽観的な見方を提供するのに対し、Balint はそこにある種の嗜癖状態に陥るという意味での釘を刺したといえるであろう。
ちなみにこの良性の退行、悪性の退行という分類についてBalint は「分析家の技法と振る舞いが万能的であるほど、悪性退行に陥る危険は高まる。逆に分析家が患者との間の不平等を残らせるほど、分析家が患者にとって押しつけがましくない普通の人に見え、退行が良性になりやすくなる。」(ibid, p. 226)と主張している点に注目すべきであろう。要するに治療者の扱いにより、良性にも悪性にもなるという理屈である。これは前出の Winnicott と対比的といえる。彼にとっては、「分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来する」のだからだ。この両者の対比は極めて重要な論点をはらんでいる。
この点について述べれば、結局は退行の性質を決めるのは、素質と環境因の双方である、という比較的素朴な結論に落ち着く。ただし比率としてはやはり素質の方におかれるべきであろう。というのも人間関係には様々なものがありえ、退行促進的であるものからの誘惑も私たちは常に体験していることになる。Balint の言う万能感の強い対象に対してそれに誘い込まれることなく、むしろそこに怪しさや危険を感じ取り、接近しないことも重要な能力であり、それはおそらく生育環境により育まれていることであろう。その意味ではやはり「患者にすべて由来する」というWinnicott の考えが近いように私は思う。


2016年11月6日日曜日

退行 再推敲 Winnicott の部分

対象関係論における退行

Winnicott の退行理論

Winnicott の退行の理論は、それを治療の根幹に据えたという点で特筆すべきであろう。彼の理論の骨子は比較的明快である。幼少時に親からの侵害を受けることで偽りの自己が生じる。患者の病理の理解や治療は多かれ少なかれ、この偽りの自己の程度やその社会生活に及ぼす影響に関係する。そして分析的な治療は治療関係において、その侵害が起こった時期までさかのぼることと不可分であると考える。Winnicott は分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来すると考える。治療において治療者は必然的に何らかの失敗を含むことになるが、それ自体が患者の無意識の希望を刺激し、過去の侵襲の状況が転移的に再現される。その際患者は解釈という分析の言語的な介入を利用できないので、抱えるというマネージメントが必要になる。
 このように治療と退行とは不可分であるものの、Winnicott は同時に、最初から退行を促すような治療態度を是とはしない。「分析家が患者に退行してほしいと望むべき理由などない。あるとしたら、それは酷く病的な理由である(1955)とも述べる。すなわち治療者が意図的に「患者を退行させよう」というのは結局はそれ自体が侵害になってしまうことを示唆する。
らに詳しく見てみよう。Winnicott の退行の理論は「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)」(北山修(監訳)「小児医学から精神分析へウィニコット臨床論文集―」岩崎学術出版社 pp335-357)に詳しく論じられているが、その論旨は必ずしも明快ではない。その中で彼は症例を3つのグループに分けている。第1は、Freud が治療したような神経症グループ、第2のグループは、人格の統合性がようやく成立した段階の人たちである。そして第3のグループ、すなわち「単一体としての人格が確立される以前ないしそこに至るまでの情緒発達の初期段階を、つまり時空間の統一状態が達成される以前のものを分析が扱わなくてはならないようなすべての患者たち」に当てはまるという。そしてこれらの症例については「通常の分析作業を中断し、取り扱い management  がそのすべてとならざるを得ない」(p336)とする。その場合は退行が十分に促進されることが治療に必要とされる。
 Winnicott の退行理論の特徴は、患者が退行できることを一つの能力として捉えている点である。そしてそれは「初期の失敗の修正の可能性を信じること」であることと言い表される。
Winnicott はさらに二種の退行についても論じている。ひとつは環境の失敗状況への退行であり、その際は個人的な防衛がそこで行われたことを意味し、分析の対象になる。しかしより正常な、早期の成功した状況の場合は、個人が後の段階で困難が生じたときに、よい前性器期の状況に戻る。そこでは個人の防衛の組織ではなく、依存の記憶、環境の状況に出会うのだという(P341)。そしてFreud が扱い記述した症例は乳児期の最早期に適切に介護された症例なのだとする。
分析作業において「依存への退行」が生じる際に備わるべき条件は以下の通りとされる。
1.信頼をもたらす設定の提供。
2.患者の依存への退行。
3.患者は新しい自己感覚を持つ。
4.環境の失敗状況の解凍。
5.想起の環境の失敗に関連した怒り。それが現在において感じられ、表現される。
6.退行から依存に回帰し、自立に向かって順序正しく前進する。
7.本能的なニーズや願望が、正真正銘の生気と活力を持って実現可能になる。これが何度も繰り返される。
この解凍ということについては少し説明がいる。ある特定の環境の失敗に対して、個人がその失敗状況を凍結することによって自己を防衛することができるのは、正常で健康なことであるという。改められた体験の機会が後日生じるだろう、という無意識的過程がそのことには伴っているという。
この凍結、および解凍という言葉の使い方、実は解離性障害の文脈からは特別の響きを感じる。つまりそれは過去の外傷記憶は治療における再固定化を減ることで解毒化に向かうという方向性を示唆しているのである(岡野、2014)
ちなみに筆者にとって一つ気になるのは、Winnicott はのちに紹介するBalint, 土居と異なり、「愛」について強調していないというところがある。愛というそれ自体曖昧な概念の代わりに母親の原初的な没頭や世話、マネージメントなどのタームで治療を論じているのが彼の理論の特徴といえる。


2016年11月5日土曜日

新無意識 推敲後

昨日の朝書いたものを推敲したら、長くなった。


新・無意識の性質

  •      フロイトの無意識には欲動が詰まっていて、それが人を突き動かすと考えられた。
  •     「新・無意識」においては欲動に相当するものは存在しない。その代わり報酬系と本能を備えている。
  •     新・無意識は、フロイトの自我、超自我、エスのほとんどを包含してしまう。他方では「意識」はワーキングメモリー程度でしかない。
  •    「新・無意識」の実体は巨大なニューラルネットワークであり、そこでは予測誤差を基にした強化学習(ディープラーニング、深層学習)が常に自動的に行われる。
  •     意識の次の内容は新・無意識でダーウィニズムに従って創り出され、それが主体性、自立性の感覚を伴って意識野に押し出される。(新無意識が意識内容を決める「サイコロを振って」いる。従って・・・
  •      言動、ファンタジー、夢などは、その背後に明確な動因が存在しない場合が多い。(細かい複数の動因はたくさん存在し、それらが重層決定(フロイト)する)
  •      一貫性、プライオリティ、排他性を満たした言動、ファンタジー、夢が「生き残」る場合が多い。
  •      意識内容や行動の決定(サイコロ振り)には尾状核の関与か?

新・無意識の理解に基づく治療論
 

  •     「新・無意識」の取扱説明書は(まだ)存在しないため、治療上の基本原則(レシピ)は存在しない。そのため経験則はやはり意味を持ってくる。(「来談者中心療法」の再評価?)
  •       患者の言葉が重層決定されている以上、それを深読みして解釈する意義はそれだけ少ない。
  •       患者の自由連想も、それに対する治療者の解釈もエナクトメントと言うニュアンスが付きまとうのである。
  •       精神療法も結局は二つの新・無意識の間のディープラーニングである。そのためのよりよい刺激の供与が重要となる。(治療者も自分の新・無意識が治療に用いられていることの自覚が必要となる。)
  •       治療者に要求されるのは主体性の発揮と同時に患者へのインパクトの様子の精査である。
  •     主体関係論(Subject-relations theory) に基づく治療: 治療の基本は患者の話に共感し、そのための明確化を進めていくことが基本となる。その差異に常に治療者の側の現実との照合が問題になってくる。患者の話を聞きつつ、それが治療者と言う他者からどう見えるかについての情報を提供すること。 

2016年11月4日金曜日

新・無意識

このままじゃ全然わからないだろうね。

新・無意識の性質

  • l        フロイトの無意識には欲動が詰まっていて、それが人を突き動かすと考えられた。
  • l        「新・無意識」においては欲動に相当するものは存在しない。その代わり報酬系を備えた巨大なニューラルネットワークである。
  • l        「新・無意識」の構造は巨大なニューラルネットワークであり、そこでは予測誤差を基にした強化学習が行われる。
  • l        意識の次の内容は新・無意識でダーウィニズムに従って創り出され、それが主体性、自立性の感覚を伴って意識野に押し出される。
  • l        言動、ファンタジー、夢などは、その背後に明確な動因が存在しない場合が多い。
  • l        それらは新・無意識の淵から生み出され、ダーウィニズムに従った選択を受ける。
  • l        一貫性、プライオリティ、排他性を満たした言動、ファンタジー、夢が「生き残」る
  • l        意識内容や行動の決定には尾状核の関与か?




2016年11月3日木曜日

退行 推敲 ④

松木邦裕の見解
ここで松木邦裕の退行に関する論考に触れたい。(松木邦裕(2015) 精神分析の一語 第8回 退行 (精神療法 41.5.p743753) 彼は精神分析の中でも退行概念を無視しているのが、英国クライン派であるという。クライン自身は妄想-分裂ポジションへの退行、前性器段階の退行、などの考え方をしているが、その後継者たちには、明らかに退行を論じない立場をとっている人たちもいるという。そしてBion, Wの次の言葉を引用する。「ウィニコットは、患者には退行する必要があるという。クラインは患者を退行させてはならないという。患者は退行すると私は言う。」(Bion,1960 cogitation, Karnac Book, London)そして松木は自らの退行理論を述べる前に、Menninger, K. Balint, M, Winnicott, D3名の分析家の退行理論をまとめる。この中で松木は Balint の退行理論を比較的単純なものとしてとらえている。Balint にとって退行とは「すべてが原初的愛の状態に近づこうとする試み」であるという。
 ところで松木が退行についての考察を進めた経緯が書かれているが、非常に興味深い。彼は1994年に分析研究誌に掲載された「退行について―その批判的討論」がいかに難産だったかを、当時の分析研究の編集委員会の内情なども示しつつ語る。要するに、彼の論文の最初のタイトル「退行という概念はいまだ精神分析的治療に必要なのだろうか?」がラジカルすぎて、物議をかもしたというのだ。彼の趣旨は、退行は一者心理学的で、しかも過去志向である。だから幼児帰りした母親の面倒を見る、ということになってしまう。しかし転移なら二者心理学的で、未来志向である。そしてそのような視点は、Balint にはあまりなく、彼が退行を重視し過ぎたのに比べて、Winnicott は転移の視点を入れている点で、評価に値する、とする。
その上で松木が問うのは、退行という概念が現代の精神分析においてはたして価値を依然として持ちうるのか、という点である。


治療への応用可能性について-筆者の考え

ここで筆者の考える退行の概念について論じたい。退行の概念は、その意義を認めるのであれば、精神療法への応用において最も重要となろう。松木(2015)の指摘するとおり、退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。
 ただしここで退行が明白な形では生じない転移関係もありうるという点についても指摘しておきたい。極端な例を挙げるならば、治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているだけなので、怖い父親のように思える様になり、治療者はそれを解釈した、という場合はどうだろう? これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、このままの治療関係ではどこにも着地点が見つからないのではないか? なぜなら治療のある時点で患者が「先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるような関係性の成立は必須となるからである。そしてそこで成立しているのはある種の親しみと安心感、リラックスした状態の成立を意味し、それを表現する用語としては結局「退行した状態」が当たらずとも遠からずということになる。ただしそれはBalint の分類では、良性の退行と分類すべきものということが出来る。
治療が促進するときに治療者が漠然と抱いているのは、治療者患者の双方にとって安心感が生まれ、患者にとっては自分の感情やファンタジーの表現が危険ではなく、受容されるという感覚が生まれることである。ところが問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしれそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味で私が提案するのは、新しい「退行」の概念であり、そこでは幾つかのことが行われる。
(特に治療者に対するものを含む)感情やファンタジーの表出が安心して行われる状況の成立すること。実はこれは土居の「甘え」が生じる環境と言い換えてもいい。
 結論として退行の概念は以下の点を留意しつつ注意深く用いることで、治療的意義を保持するというのが筆者の考えである。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、あくまでもそれは関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。退行とはあくまで、臨床的な現象なのだ。
第二には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が実際には体験したことがない状態でありうる。その場合に患者は一種の嗜癖に近い状態を起こし、治療者との依存関係を解消することにきわめて大きな抵抗を示し、治療は膠着状態に陥るであろう。
ここで棚上げにしておいた、Winnicott Balint の争点、すなわち悪性の退行は治療者のせいで起きるのか、それとも患者に内在する傾向なのか、という点について申し述べたい。基本的には患者に依拠すると言いたい。悪性の退行はBPDの病理と深い関連がある。「他人が去ることへの死に物狂いの抵抗」というDSMの診断基準が示す通り、依存がそこからの「新しい出発」に結びつかないという例が、見受けられる。


良性の退行は土居の甘えの理論のように、治療に不可欠といえるが、問題は今後悪性の退行を嗜癖の観点から、力動学的、および生物学的にとらえなおすことと考える。(このままでは終われないな。)

2016年11月2日水曜日

退行 推敲 ③

 論文を一本書くのは楽じゃないなあ。

バリントの退行概念 
(以下の文章は、「治療論から見た退行(中井久夫訳)」(特にp.193~)の文章を下敷きにしているが、中井先生の翻訳はやはり特徴的なので、一部改編を行っている。)
Winnicott と同様に退行を治療理論の文脈で論じた分析家としては、Balint を欠かすことはできない。彼の退行理論は、Ferenzci,S. の臨床経験に対する詳細な考察を介したものである。そしてその体験から私たちが学ぶべきことを模索しつつ、退行を両性と悪性に分ける。
Balint によれば、良性の退行とは、相互信頼的な、気のおけない、気を回さない関係の成立が難しくないものであるという。その退行は心の新しい始まりnew beginning に至るものである。そして現実への開眼とともに、退行は終わる。
退行は認識されるためのもの、それも特に患者の内的な問題を認識してもらうためのものである。またその際の要求、期待、ニードの強度は中等度である。臨床症状中に重傷ヒステリー兆候はなく、退行状態の転移に性器的オーガスムの要素がないとされる。
他方悪性の退行では、相互信頼関係の平衡はきわめて危うく、気のおけない、気を回さない雰囲気は何度も壊れ、しばしば、またもや壊れるのではないかと恐れるあまり、それに対する予防線、補償として絶望的に相手に纏いつくという症状が現れる。悪性の退行は、新たらしい始まりに到達しようとして何度も失敗する。要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険と嗜癖類似状態発生の危険が絶えずある。
退行は外面的行動をしてもらうことによる欲求充足を目的としている。要求、期待、ニードが猛烈に激しいだろう。臨床像に重傷ヒステリー兆候が存在し、平衡状態の転移にも退行状態の転移にも性器的オーガスムの要素が加わる。
 この単純明快な分類がいかに多くの臨床家の役に立ったことか。バリントは次の点を主張することを忘れない。「退行とは一人の人間の内部で起きることでなく、関係性の産物なのだ。」
Balint の退行理論にあり、Winicott になかったのは、この悪性の退行の記述である。そしてこれが貴重なのは、臨床家は常にこの悪性の退行を起こしかねないクライエントと直面しているからである。
しかしWinnicott, Balint のいずれもが指示しているのは、患者が持つある種の治療者への依存関係が治療にとって持つ意味である。ただしWinnicott が適切な環境が与えられることにより、過去のいわばトラウマ状況の記憶の解凍ないし再回答(現在の概念では記憶の再固定化に相当するであろう)につながるというやや楽観的な見方を提供するのに対し、Balint はそこにある種の嗜癖状態に陥るという意味での釘を刺したといえるであろう。

退行概念と甘え
 この論旨の流れて触れておかなくてはならないのが、甘えの問題である。特にその提唱者である土居が甘えを治療論と結びつけているからである。土居はE.Kris
の提唱した「自我に奉仕する退行」に触れ、「精神分析療法自体このような「自我に奉仕する退行」を組織的に一貫して行なうものである、ということができる。」(土居、1961,P43)と述べている。患者が治療者に甘えられることは治療の一つの目標だとする。もしそうであるとしたら、治療場面における退行はむしろ土居にとっては必然ということになる。

「精神療法と精神分析」(金子書房、1961)において、土居は以下のように述べている。「・・・実はここが重要な点であるが、われわれが物心つき始めた幼児について、彼は甘えているという時、この幼児は甘えられない体験を既に知覚しているので、そのために甘えようとしている、と考えられることである。いいかえれば、 日本語でいう場合の甘えの現象は、原始的葛藤と不安の存在を暗示していることになる。その葛藤は受身的対象愛が満足されないことによって生起したのであり、そのために意識的にこれを満足させようとする時に、甘えの現象が観察されると考えられるのである。」言い換えれば患者は甘えという受け身的な対象愛を満たされたかったといういわばトラウマを抱えたままで治療に参入することになる。
実は精神分析では、土居に先んじて古澤平作先生が類似の考えを持っていた。古澤はウィーンで S.Freud から本場の精神分析を学んだが、のちにその技法に則って患者に洞察を求めることから心が離れ、しだいに「自己と患者との融合体験こそが患者の生命の出発点であると考えるようになった。いわゆる「とろかし療法」と呼ばれたものであるが、この考えはおおよそ Winnicott に近いことになる。来日していた Jan Abram はイギリスにおける Winnicott 研究の第一人者であるが、この点を強調し、「土居とウィニコットは同じことを言っている!」「どうしてウィニコットではなく、Balint を引用しているのだ!」と英語で言っている。松木先生は反対なさるかもしれないが、確かに似ていると思う。ついでに言えば、古澤先生もそうか。



2016年11月1日火曜日

退行 推敲 ②


「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)」(北山修(監訳)小児医学から精神分析へ-ウィニコット臨床論文集-” 岩崎学術出版社 pp335-357)には、ウィニコットの退行理論の言わばエッセンスが書かれている。その中でウィニコットは症例を3つのグループに分けている。第1は、フロイトが治療したような神経症グループ、第2のグループは、人格の統合性がようやく成立した段階の人たちである。そして第3のグループ、すなわち「単一体としての人格が確立される以前ないしそこに至るまでの情緒発達の初期段階を、つまり時空間の統一状態が達成される以前のものを分析が扱わなくてはならないようなすべての患者たち」に当てはまるという。そしてこれらの症例については「通常の分析作業を中断し、取り扱い management がそのすべてとならざるを得ない」(p336)とする。そして退行を十分に促すことが治療に必要とされる。また退行が生じるためには、偽りの自己を生じるような環境の側の適応の失敗があり、退行のための潜在的な能力を持つとする。
 ウィニコットの退行理論の特徴は、患者が退行できることを一つの能力として捉えている点だ。そしてそれは「初期の失敗の修正の可能性を信じること」であることと言い表される。
ウィニコットはさらに二種の退行、ということも言っている。ひとつは環境の失敗状況への退行であり、その際は個人的な防衛がそこで行われたことを意味し、分析の対象になる。しかしより正常な、早期の成功した状況の場合は、個人が後の段階で困難が生じたときに、よい前性器期の状況に戻る。そこでは個人の防衛の組織ではなく、依存の記憶、環境の状況に出会うのだという(P341そしてこんなことも言う。フロイトの症例はすべて、乳児期の最早期に適切に介護された症例なのだ。そこで「依存への退行」を起こすのが分析作業ということになるが、そこで備わるべき条件は以下の通りである。
1.信頼をもたらす設定の提供。
2.患者の依存への退行。
3.患者は新しい自己感覚を持つ。
4.環境の失敗状況の解凍。
5.想起の環境の失敗に関連した怒り。それが現在において感じられ、表現される。
6.退行から依存に回帰し、自立に向かって順序正しく前進する。
7.本能的なニーズや願望が、正真正銘の生気と活力を持って実現可能になる。これが何度も繰り返される。
この解凍ということについては少し説明がいる。ある特定の環境の失敗に対して、個人がその失敗状況を凍結することによって自己を防衛することができるのは、正常で健康なことであるという。改められた体験の機会が後日生じるだろう、という無意識的過程がそのことには伴っているという。
この凍結、および解凍という言葉の使い方、実は解離屋にとってはとても意味シンに聞こえることは言うまでもない。