2013年12月7日土曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(6)

 何か私の言いたいことは大体言ってしまった気がする。ちょっと復習しようか。以下に箇条書きにしてみる。
   MP自体は、人間が持つスプリッティングやボーダーライン傾向として、思考、行動パターンの中に備わっている。潜在的に誰でもMPになれるのである。(後は隣の人がやっているかどうか、だ。)
   MPは最近の問題である。一般には20076月の政府の教育再生会議の第二次報告あたりをその明らかな始まりとしている様である。
   学校側の受身性が問題となっている。すなわち「触らぬ神にたたりなし」、親からのクレームに対してはまずは傾聴し、謝罪するという傾向が最近強くなってきていることと関係している可能性がある。
   ③はおそらくMPと二重の意味で関係している。まずはクレームを受ける側(教師)の弱腰とクレームする側(親)の力のバランスが崩れた状態である意味で。もう一つはクレームを受けて理不尽な思いをしている人たちが、親の立場としてクレーマーに変身しているという場合。
   社会全体の様々な場面で起きているモンスター化とMPとは連動しているであろう。例えば日本社会でサービス機関を利用する患者、消費者、利用者、乗客一般がクレーマー化していることとMPとは関係しているであろう。
   おそらく西欧ではあまり見られない現象であろう。
このように箇条書きにしてみると、私自身のスペクレーション(推論)がかなり混じっていることに改めて気が付く。検討して見ると、①はほぼ自信あり。いろいろ症例を考えても、自分自身の経験からも確かだろう。②もMPに関する文献を読んだ限り言えるので問題ないだろう。③これもいいだろう。現象としてそうとしか言いようがない。④は後半がアヤシイ。職場で顧客の対応に四苦八苦し退職したりうつ状態になった人がクレーマー化したという実例をあまり知らない。むしろ顧客に悩まされてうつ状態になった人が精神科の外来を訪れる。自分自身がクレーマー化するならばまだ「救われる」のかもしれない。⑤これもそうだろう。⑥これが一番アヤシイ。私のアメリカ体験は2004年で終わっている。その時息子や息子の友達の通っていた学校での事情を思い出して行っているにすぎない。少なくともアメリカではMPに相当する現象は見られなかった。もちろん個別に大変な親は確かにいるが、それなりに対応が出来ていた。6つのうち2つがアヤシイ。うーん、それほど悪くないか。

ちなみにアメリカという社会は、みながとんでもないクレームをつけるということで訴訟社会になって行ったという歴史がある。

2013年12月6日金曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(5)

わが国の様々な分野でモンスター化が生じていることは同時に、モンスター化する客や生徒に戸惑う従業員や教師が増大していることを意味する。ということは彼らの「サービス心」の向上が連動していることになるだろう。店員のマナーが改善され、より顧客が満足するようになったのだ。しかしこれは日本人のメンタリティが向上し、愛他性や真心の精神が行き届くようになったと考えるのは全然甘いだろう。これは企業の一種の戦略である。サービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかということへの調査研究が進み、各社が顧客がより心地よさを感じるような対応を目指すようになったわけだ。ちょうどコンビニで売っているお弁当がよりおいしくなり(少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じだ。
 昔は人のサービスは今ほどではなかった。JRの前の「国鉄」といわれていた時代の駅員さんは仏頂面で切符をパチパチ切っていた。タクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺った。コンビニで100円のアイスを買っただけで最敬礼されることは予想していなかった。米国に行っている間に店員に愛想よく扱われることは期待しなくなった。でも私にとって「二度目」の日本はサービス向上の努力や民営化の影響で、お店の従業員は皆顧客にとても愛想がいいのである。マナーの良さでは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員はそれだけで目立ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことは鉄則でありさもなければすぐにでも売り上げに直結するという至上命令として刷り込まれ、そのためにそこにモンスターカスタマーからとんでもない要求を突きつけられて絶句し、まず「大変申し訳ありませんでした」から入ると教育された店員は、最初からそれを受け入れる方向性を定められているのではないか。今の時代に「お・も・て・な・し」が流行語になることは興味深いが、本来あれは日本にオリンピックを招致するための戦略でもあったのである。
 モンスターに対して弱気になるもう一つは訴訟問題である。客に訴えられたらどうしよう?このかんがえが脳裏をかすめるとサービス業に従事する人間は硬直し、思考停止状態になる。
 先ほどの「お弁当作って」の母親の対応をした教員も「うちの子だけ遠足に行けなかったじゃないの。どうしてくれるの?訴えるわよ。」というシナリオが脳裏をかすめた可能性がないわけではないだろう。
 もう一つモンスターペアレントに弱腰にならざるを得ない教員の事情として重要なものがある。それはいわば子供が「人質に取られて」いるということだろう。著書の中で尾木氏も指摘しているように、モンスターペアレントは一人で学校にねじ込んでいるわけではない。そこに罪のない子供を巻き込んでいるのである。

2013年12月5日木曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(4)

ウチの神さんは一度だけモンスター化しそうになったのを目撃したことがあるが、それはアメリカで車を買った時、地元のトヨタのカーディーラーに抗議した時のことであった。(彼女の名誉のために言えば、学校で無理難題を先生に持ちかけたり、ということは一切なかった。実に子どもにとっても学校にとってもいい母親ぶりを発揮していたと思う。)その時は慣れない英語でやり合っていることもあり、アメリカ人のディーラーはカミさんが何に怒っているのかよくわからなかったらしい。相手の反応が見えず、またそこに脅しや威嚇がない場合には、歯止めが効かなくなる。カミさんは英語で話している時は自分が何を言っているのか分からなくなる状態になりやすいんだな、と私は横で見ていて思った。ただしカミさんの悪いところは、一定以上にエスカレートすると、「もう、あなた何とか言ってよ」と突然私に下駄を預けるところで、私はいきなり無茶ブリをされて、いかにカミさんの名誉のためにその怒りのテンションを引き継ぎながら、軟着陸先を模索するのに苦労するのである。
今尾木直樹の「馬鹿親って言うな!」(角川One)を読んでいるが、そこにこんな例がある。2007年に放映された番組の中で、小学校教員が、「遠足があった時、ある子の母親が『自分は作れないので、先生もうちの子の弁当を作ってくれないか』「どうせ先生だって自分のを作るんだから、もう一つ作るのは簡単でしょ?」と言われたと話したという。スタジオが驚いたのは、その先生がそれを引きうけたと言った時で、その理由としては「だってその子が遠足に来られなくなるから・・・・」であったという。その時の先生の反応は、そんなバカな、という反応であろうが、それを実際に生徒の母親に言われた際に、どう答えようかという心の準備が出来ていなかったのが問題であったと思う。もちろん「先生にお弁当を作ってもらう」事が突拍子もないことは確かだが、発想としてあり得ないというわけでもないだろう。というか人間、この種の発想は結構起きるものだし、時には口に出すこともある。先生との関係の持ち方によってはこのような話を持ちかけることもあり得るかもしれない。そして先生はふと優しい考えを持ってしまった。「お母さんはとんでもないことを言っているけれど、○○ちゃん(子どもの名前)に罪はないわね。そしてお母さんのせいでお弁当なしになったらかわいそうね。いざという時のために余分に作っていこうかしら。」こうなるとこの教師の反応はさほど極端ともいえなくなってくるのである。
お・も・て・な・し・とも関係している

ところで忘れないうちに言えば、このモンスター化の問題、日本人のおもてなしの心とすごく関係していると思う。おもてなしによる従業員の心のひずみとモンスター化は深く関係していると思えるのだ。

2013年12月4日水曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(3)

ところでモンスター化について、私は自分がそれに行きかけたことも体験し、またカミさんがなりかけたことも記憶にある。自分がモンスター化する感じは不思議だ。私がよくBPDに関して論じる、「ボーダーライン反応」と似たメンタリティなのだろう。そして私がボーダーライン反応は、「人間誰しも持っているボーダーラインの『芽』である」と言っている通り、私たち皆がポテンシャルとして持っていて、状況次第では発芽してしまうという意味では、私が昨日から言っている「モンスター化」は社会現象である、という主張と近い。パーソナリティの未熟さと関係している、というよりは、パーソナリティの未熟な部分が賦活される、という現象なのだ。ここで「パーソナリティの未熟な部分」とはあいまいな表現であり、不正確なのはわかっているが、与えられた「お題」の関係上、PDとは関係ないよ、とも言えないので。
ボーダー化する時って、「ここまで行って(言って)いいんだ、もっと行っちゃおう(言っちゃおう)」という一種の高揚感がある。それと同時に本当の自己がやや過剰に、つまりは非日常的に表れている感じを持つ。普段は思っていても言えないようなことが出されている感じ。その時には普段の歯止めが外れている感じがある。「キレる」という表現がまさにそうだ。そしてその歯止めと言えば、それは普通外部からもたらされる。「この人にこの事は言っていけないな」とか「これをやったら捕まっちゃうな」という感覚。だからモンスター化する際には自分が普段感じているフラストレーションも、相手の態度も両方が変数として必要となる。

ここで本音を言えば、私は「現代人の未熟化」などということをあまり考えない。昔から「近頃の若いもんは...」というセリフはあったと思う。奈良時代の年寄りが、若者を見て「近頃の若いもんは...」とため息をついている姿を想像して欲しい。それから途方もない時間が流れ、また同じことが言われているのだ。今頃は人は赤ちゃんよりも未熟になっていておかしくない。
 私は人によって人間の成熟度はあまり変わらないと思う。もちろん昔は社会における禁制や様々な習わしに従う必要があったことは確かであり、女性が十代で子どもを産んでいた時代と、現在とでは、20歳の女性のあり方は全く違うのであろう。しかしそれがここ1020年間で急に変わることはないだろう。そしてモンスター化はまさにここ1020年の間の変化とされているのである。そんなに急に人間は未熟にならないだろう。問題はいつモンスター化(ボーダーライン反応)を起こすかもしれない人間に対して、社会がどう対応していいかをまだ準備していないことが問題だと思う。モンスター化しそうになった時に、その相手が当惑する。すると歯止めが見えなくなってしまい、最終的に「キレ」てしまう。

2013年12月3日火曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(2)

 先週末は森田療法学会で徳島にいたが、そこである先生がうつの患者さんを集めた病棟の話をなさっていた。そこで印象的だったのは、従来は几帳面で自責的な性格傾向の人々、いわゆる「メランコリー親和型」(テレンバッハ)の人々が示す病棟での予想外の怒りであり、いわばモンスター化であったという。しかしそれは中年を過ぎた患者さんにとっても言えることというのだ。
 思えば60年代、70年代に日本で、あるいは世界で大変なモンスター化現象があったことをご存知だろうか?そう、学生運動である。生徒が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして国会を取り巻くという大変な時代があったことを少し上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。あれは当時からすれば現代の学生の未熟さ、他罰傾向として説明されたであろう。しかし時代は変わり、あの運動はすっかり過去のものになっている。学生たちは学生運動の世代以前よりもっとノンポリになっている傾向すらある。今から思えば時代の産物だったということがわかる。
このブログは例によって書きながら考えることを目的としているが、考える前に私が立てている仮説とは、日本社会において人が権利を主張するという、当然当たり前のことがようやく生じ始め、それに対して主張やクレイムを受ける側がどのように対応していいかわからないために、主張をする側がエスカレートするということが起きているという可能性だ。つまりクレイムを受ける側の態勢が整っていない。そのためにクレイマーからの電話を長々と切れないという現象が生じ、そこで多くのストレスを体験した職員が、一部はうつになり、一部は「新型うつ」の形をとり、そしてまた一部は・・・・・・自身がクレイマーになるのである!!
しばらく前のことだが、勤め先の病院で帰りがけに玄関釘に差し掛かると、病院主催の勉強会に集まった市民の一人が猛烈な勢いで主催者側の事務員に食って掛かっていた。いい年をした親父だ。どうやら勉強会の講師である医師の到着が遅れているらしい。しかし板ばさみにあった事務員は困りきった様子でその男に対応していた。
 このような時、私は2004年まで暮らしていたアメリカでのことが思い出される。米国では誰かが声を荒げた時点で警備員や警察が呼ばれる。怒鳴ることは「verbal aggression 言葉の暴力」であり、帰途を殴ったり物を壊したりする「physical aggression 身体的な暴力」と同等なのだ。だから怒鳴る側にも覚悟がいるし、制服の人々が現れればあっという間におとなしくなる。日本では怒った市民への対応が、非常に甘い。まずなだめようとする。それはそれで悪くはないし、それで大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はモンスター化するのである。


2013年12月2日月曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(1)


ある「大人の事情」から、「難しい親」、いわゆるモンスターペアレントについての考えをまとめる必要が生じた。いきなり締切が数週後、というのはキツいなあ。締切が半年先、というのであれば依頼される側も引き受けやすいし、それだけいいものも書けるだろうと思うのだが。そういえばもう廃刊になった「●マーゴ」はさらにキツかった。「二週間でお願いします」、とか。無理したなあ。でも同時に鍛えられたなあ。まあ、それはさて置き・・・

 モンスターペアレントという言葉は和製英語だということである。そういえばそんな言葉はアメリカにいた頃は聞いたことがなかった。Monster parent と英語で検索をしても、同様の意味では出てくることはなく、むしろ日本の親の事情が英語でも同様にmonster parents と表記されているという感じ。それよりもtiger mom という言葉が思いつく。しかしそれはむしろ教育ままという感じだ。そう、アメリカで親のモンスター化がどうなっているのかも重要なテーマだ。
この現象、もちろん精神科医としては興味を持っている。モンスター化は何も親だけに限ったことではない。モンスター客(カスタマー)、モンスター患者、モンスター学生。日本で葉さまざまな人種たちのモンスター化が見られるようである。いったい日本人の心の状態はどうなっているのか?
私の考察はモンスターペアレントの「パーソナリティ障害」(以下、PD) である。たしかに現代の日本人の親たちが未熟化し、そのためにわがままでありクレイマー化しているのではないか、という可能性は十分ありえる。同様の事情はたとえば「新型うつ病」についてもいえる。日本人が未熟化し、特に若者がわがままで堪え性がなくなり、職場でのちょっとした叱責や注意で落ち込み、すぐ精神科医に診断書を書いて持ってくる、そして休職中は余暇を楽しんでいるというパターンが見られる。これも同様ではないか、そしてその背後にあるのは、現代の日本人の未熟なパーソナリティ傾向ではないか、という議論である。だから「『難しい親たち』とパーソナリティ障害の問題」というテーマは、言い換えれば「『難しい親たち』は本当にパーソナリティ障害の問題なのか?」という疑問形にすべきものである。
これに対する私の姿勢を一言で言えば、次のようになるだろうか?


モンスター化は、むしろ社会現象であろう、と。そこに現れる他罰的、依存的、あるいは未熟なパーソナリティ傾向は、みながそれぞれ潜在的に持っているような部分であり、それが顕在化するような状況が社会で整っているということを意味するのではないか?

 

2013年12月1日日曜日

小此木先生の思い出(9)

さて、そろそろ小此木先生の思い出を終わらせなくてはならない。私にとっての小此木先生はどのような人だったのか?私は弟子とは言えない存在だったし、彼の後継者などの器では全くなかった。それなのにとても可愛がってもらえた。そして私のような体験を持った人は、もちろんたくさんいたのだろうと思う。それぞれが小此木先生に優しい声をかけられ、期待をしているよと言われ、勉強の成果を先生の前で披露した。彼らに対して先生は平等だったのだろうと思う。
ただしもちろん小此木先生の優しさは、彼自身がその弟子から話を聞くことでご自身の引き出しを増やすということの楽しさにも裏打ちされていたと思う。先生は若い頃は特に、手当たり次第読書をなさったという。海外に留学して新しい体験を持つ弟子たちと話すことは、おそらく彼にとっても純粋に好奇心を刺激し、楽しい体験であったらしい。それを弟子の側は「優しくしていただいた」と感じていたという側面がある。一種のギブアンドテイクだったのだ。
 それだけに小此木先生からの教えを一方的に受ける立場の先生方には、先生の少し違った側面を体験した人もいるようだ。かつてのお弟子さんの中には、先生のかなり手厳しい態度を体験したという話もよく聞くのである。それらの人々の中には、おそらく小此木先生から直接精神分析の手ほどきを受け、先生の考えを直接取り入れた先生方もいらしたと思う。そしてそのような立場の先生方は、比較的容易に先生とのエディプス状況に入っていったというニュアンスもある。その意味では先生と私とは適度の距離が存在していたのが良かったのかもしれない。
 もう一つ穿った考えをするならば、先生と私はある共通のテーマを持っていたのではないかと想像してしまう。それは従来の精神分析理論をどのように自分の中で消化し、相対化するかという問題だ。純粋主義vs相対主義という私のスキームは先生に気に入っていただけたようだったが、先生との会見の最後の部分は、フロイトがいかにフロイト理論とは異なり、自由に振舞っていたのか、という事に興味があるという話であった。そしてその頃先生がお読みになったアーノルド・クーパーの論文に触れ、フロイトが実際に患者とのあいだで自分自身についても語り、自由な感情表現をしていたことに関心を示されていた。
小此木先生の思い出についての話はここで終わるが、これを書く事はとても良かったと思う。いろいろ先生のことが思い出せて、その関係を再確認できたと思う。
 私にとって亡くなった方は依然として同じように生きているのである。その意味では先生の死去は彼の存在の近さを損なうことには少しもなっていない。この録音を何度も聞くことで、彼はまさに私の心の何生きて、微笑みかけてくれる存在であり続けることを実感したのである。