2025年12月31日水曜日

大晦日に思う

 今日はなんと大晦日である。

色々忙しい年であった。いろいろな講演やレクチャー、学会発表のお誘いがあり、特に9月以降は目の回る忙しさだった。しかしそれも12月の半ばで終わり、今はとりあえず3本の書評と一つの依頼論文が残った状態にまでなった。やっと「自由時間」が持てるようになり、それがうれしい。今年は5月で70歳となる。若い頃はこの歳になって人がまだ生きている、という実感がなかった。しかし老いを生きるという事は、ある意味では全く新しい体験となる。何しろ年寄り扱いされるようになってからまだ間がないのだ。その意味での好奇心もそれなりにある。あとはもう少し体力があれば、と思うことがある。しかしその一方で自分がまだ力がみなぎっていた20代に戻りたいかと言えば・‥‥とんでもない話だ。二度と戻ってあの不可解で未来の予想が出来ず、義務感での勉強や仕事に拘束された年代には戻りたくないとも思うのである。

2025年12月30日火曜日

PDの精神療法 書き直し 8

 見立てにおいて必要な指針

ともかくも患者のヒストリーを追うことで必要な情報が得られ、その「認知、感情、対人関係、衝動の制御」(DSM-5)に基づくPDの診断を考慮する際に、従来の臨床家なら、DSMの10のカテゴリーが頭に浮かぶかもしれない。しかし現代の精神科医はもう一つの考える指針を手にしている。それは上述のディメンショナルモデルに掲げられたいくつかの「特性」を手掛かりにするという方針である。その際患者がDSMに掲げられているうちの「どの」PDに当てはまるかを特定する必要はない。その代りPDの深刻さの程度(軽度、中等度、重度)と顕著な特性をいくつか挙げるだけでいいことになっている。
 特性 trait としては、DSMとICDで多少の差はあるが、ここではICD-11 に従うと、否定的感情(鬱・不安などのネガティブな感情が支配的である)、離隔(他者との対人的・情緒的距離を保つ)、非社会性(他者の権利や感情を無視する)、脱抑制(唐突に行動する)、制縛性(強迫的な思考、行動パターン)の5つである。さらにはそれらに並んでボーダーラインパターン(不安定な対人パターンや衝動性、見捨てられ不安)が加えられる。つまり患者の話を聞きながら、これらの特性のどれがどのくらい強いかを考える事になる。
 ただしここに二つの大きな要素が加わる可能性がある。それは最近精神科医や心理士の間で急速に関心が高まっているASD傾向、そしてCPTSD(複雑性PTSD)に見られるパーソナリティ傾向である。もちろんこれらはカテゴリカルモデルにも、ディメンショナルにもみられないものである。ディメンショナルモデルの5つは Goldberg のいわゆる big five factor に由来し、それは最近では生まれつきの気質と環境の相互作用によって形成されるとされている。そしてそこには生来の神経発達障害としてのASDやトラウマ的な環境によるCPTSDに関連したパーソナリティ傾向も入ってきておかしくないことになる。ただし現在ではそれらに関する考察も見られるものの、これらはまだPDの議論には組み込まれていない。 むろんASDにおいては、否定的感情、離隔、制縛性などが関与し、CPTSDにおいては否定的感情、離隔などが顕著な特徴として表れている可能性があるが、臨床的な見地からはBPD傾向に加えてこれらのファクター(BPDかASDかCPTSDかの視点)を念頭に置いて見立てを行うことが勧められよう。  BPDかASDかCPTSDかを判断するという方針は治療を見据えたPDを知る上での一つの指標であると考えたい。それは何よりもこれらが昔で言う第一軸診断に関与しているからである。例えばある否定的感情や離隔、制縛性などが特徴な人に関して、その人がASDの診断基準を(少なくともある程度は)満たすことに気づかれた場合、その治療指針はより支持的で心理教育的な要素を持つことになるだろう。また過去のトラウマが存在し、否定的感情、離隔などが顕著な特徴とされる人の場合、その人がCPTSDを満たすことでよりトラウマに焦点づけられた治療が求められることになるだろう。


2025年12月29日月曜日

PDの精神療法 書き直し 7

 本号(●●の特集号)の中で、本章は「Ⅲ さまざまな精神疾患に対する精神療法」の第13番目として位置づけられる。扱う対象はパーソナリティ障害であるが、他章の統合失調症やパニック症、摂食症などと比較して、DSM-5に従っただけでも10の障害を含む大所帯であり、とても網羅的な解説をする余裕はない。そこでまずPDの精神療法についての概説を述べ、その後に境界パーソナリティ症、自己愛パーソナリティ症、発達障害および複雑性PTSDに限定して各論を論じることにしたい。(発達症および複雑性PTSDはパーソナリティ障害としては分類されないが、これらが本章で特筆すべき価値はあるものと考える。)

パーソナリティ障害の精神療法:概論 

見立てと診断

パーソナリティ障害(personality disorder, 以下PD)の分類に関しては、現在DSM-5(2013)の第Ⅰ部(本体部分)に示されたいわゆるカテゴリカルモデルと、DSM-5の第Ⅲ部及びICD-11(2022)に示されたディメンショナルモデルが並立して存在する。それぞれのモデルで提示されているPDの分類にはかなりの相違があるが、そのことが示すのはPDに関する概念上の混乱というよりは、そもそもPDの臨床的な表れが極めて多様性や流動性を帯び、その分類が容易ではないという現実を示していると言えよう。またPDを有すると考えられる患者の多くは併存症を有しているため、その治療目的や改善の表れを論じる事の難しさが加わる。 インテークでは、医師はその抱えている問題の全体像の把握を試みる。患者はそのPDにより自ら苦痛や社会的、職業的な困難さを抱えていることになる(DSM-5)。しかし実際に訪れる患者は「私には〇〇などのパーソナリティの問題がありまして・・・・」と訴えるわけではない。大抵は具体的な対人関係に悩まされているという事情や、周囲(主治医や家族)から受診を薦められた経緯を話すことから始まるが、自分が有している可能性のあるパーソナリティの問題には比較的無自覚である。そしてPDの全貌はこれまでのヒストリーで繰り返されているパターンから推察されたり、治療関係の中で再現されたり、家族や同僚などからの副次的な情報により初めて明らかになったりする。

2025年12月28日日曜日

PDの精神療法 書き直し 6

 CPTSD

CPTSDにおいてはいわゆる自己組織化の障害(Disturbance of Self-Organization、以下DSO)すなわち感情のコントロール困難、否定的な自己概念、対人関係の困難が診断基準として謡われている。これは患者の自己イメージ、感情、他者との関係性に関する障害を意味する。CPTSD自体はパーソナリティ障害とは分類されないが、患者はそれに近い傾向を備えているとみなすことが出来、またこれらのDSOの傾向はトラウマを経験した患者の多くが多かれ少なかれ示すものと考えられるために我が国に紹介されたものを二つ紹介しておく。
ピート・ウォーカーPete Walker は自身がCPTSDの体験を持ち、治療者としても長年このテーマに取り組んできた立場から、CPTSDは単なる「反応」ではなく、持続的な対人侵害や見捨てられ体験を反映した習慣性の反応として理解されるべきだとする。そしてCPTSDの典型的な特徴として、感情調整困難・自己価値の低下・対人関係での不安・羞恥・怒りの爆発などを挙げる。これはPTSDの標準的症状(再体験・回避・過覚醒)を超えて、人格や相互関係のあり方全体を変える影響を持つとする。ウォーカーは、CPTSDの回復において次のような要素を重視している。それは安全な治療関係(安全基地の提供), 感情フラッシュバックの理解と管理などである。またCPTSD特有の emotional flashbacks(感情的フラッシュバック)は、過去の関係パターンに侵されるように現在の生活に現れる。これを理解し、自覚→距離化→対応スキルへとつなげることが治療の中心となる。
ウォーカーはCPTSDの多くの問題を「アタッチメントの不全」と関連づけている。これは、幼少期の不安定なケア経験が人間関係の学習機会そのものを奪った影響として説明される。身体面や情動面への介入 ただ認知を変えるだけでなく、身体感覚・情動体験を統合し、自分自身を取り戻すプロセスが中核にある(実際のスキルとしてはジャーナリング、呼吸や緩和技法、情動ラベリング等が用いられる)。
Walker, P (2013) Complex PTSD: From Surviving to Thriving: A GUIDE AND MAP FOR RECOVERING FROM CHILDHOOD TRAUMA. CreateSpace Independent Publishing Platform. 牧野 有可里,池島良子訳 複雑性PTSD(2023) 生き残ることから生き抜くことへ 星和書店.

アリエル・シュワルツ(Arielle Schwartz)はCPTSDに対する統合的・身体と心をつなぐ治療モデルを提示している。彼女は複数の治療技法を組み合わせた マインドボディアプローチを提案する。 シュワルツのアプローチは、CPTSDをただ認知の問題としてではなく、身体の反応と精神の連動として治療することに重きを置く点が特徴的である。トラウマは単に思考や感情の問題ではなく、自律神経や身体感覚に刻まれているという立場から、マインドフルネス、ポリヴェーガル理論の応用、身体介入などを統合する。
Schwartz,A (2021)  The Complex PTSD Treatment Manual: An Integrative, Mind-Body Approach to Trauma Recovery, Pesi. (野坂 祐子訳(2022)複雑性PTSDの理解と回復ー子ども時代のトラウマを癒すコンパッションとセルフケア 金剛出版)


2025年12月27日土曜日

PDの精神療法 書き直し 5

 自己愛性PD

NPDの患者は自発的に精神療法を求めることは多くはなく、しばしば他の精神疾患に伴って治療場面を訪れる。しかし自己愛の問題を抱える患者は多く、その治療論の歴史的経緯を知っておくことは重要であろう。自己愛性PDに対する精神療法的アプローチはBPDの治療理論と共に発展した。1970年代よりHeinz Kohut (1971) Kernberg (1975) がそれぞれかなり異なる治療論を提出して論争となったという経緯がある。Kohut は自己愛を本質的に健全なものと考え、患者が幼少時に親から十分な共感を得られなかったことによる「自己の断片化」がその病理につながると考えた。そして治療においては患者の体験の肯定的な側面により多くの注意を払い、共感的なアプローチの重要さを強調した。また治療の目標は適切な「自己対象」を見出す助けとなることであると考えた。
 それに対してKernberg は患者の示す理想化をスプリッティングを伴う防衛とみなし、患者が有する貪欲さと要求がましさに注目し、それらに対する直面化の重要性を説いた。Kernberg はむしろ患者の示す否定的な側面への直面化を重視することになる。しかし現実の治療ではこれらの治療論のいずれかに偏ることなく、患者の言葉に耳を傾け、転移と逆転移の発展を観察し、試みの介入による患者の反応に注目しながら治療を進めていくべきであろう(Gabbard, 2014)。なおNPの治療に関してもメンタライゼーションの見地からの治療の有効性が示されている。(Ritter K, Dziobek I, Preibler S, et al 2011, Choi-Kain, LW. Sebastian Simonsen,S et al: 2022)

Ritter K, Dziobek I, Preibler S, et al:(2011)  Lack of empathy in patients with narcissistic personality disorder. Psychiatry Res 187:241-24.
Choi-Kain, LW. Sebastian Simonsen,S et al: (2022) A Mentalizing Approach for Narcissistic Personality Disorder: Moving From “Me-Mode” to “We-Mode” American Journal of Psychotherapy. 75:38-43.


2025年12月26日金曜日

PDの精神療法 書き直し 4

  BPDの精神療法

BPDの精神療法的アプローチは、以下に示すものも含めたさまざまなものが提案され、その効果についてのエビデンスも示されている。それらは一貫して前頭前野の活動の低下と扁桃核の亢進というBPDの神経学的な特徴を緩和する方向に働ているとみることもできる。しかし一貫して言えるのは、そこでの治療関係のあり方が最も重要なファクターであるという事である。ただしBPDの精神療法の効果について論じることの難しさは、患者の多くがうつ病などの併存症を有していることにある。Fonagy, 206)

 現在BPDの治療として無作為化対照比較試験 (RCT)による有効性が確かめられているのは以下の7つである。

メンタライゼーションに基づく治療 (MBT, Bateman and Fonagy, 2009)、転移焦点づけ療法 (TFP, Clarkin et al. 2007)、弁証法的行動療法 (DBT, Linehan 2006)、スキーマ焦点づけ療法(Giesen-Bloo et al. 2006)、情緒予見性と問題解決のためのシステムトレーニング (STEPPS, Blum et al. 2008)、一般精神科マネジメント(GPM, McMain et al. 2012)、力動的脱構築精神療法 (DDP, Gregory et al. 2010)

 このうちのいくつかについて、以下に述べる。
MBT(メンタライゼーションに基づく治療)の治療の要は、患者のメンタライゼーション機能の強化である。治療者は患者の子供時代の安全な愛着体験が相対的に欠如していたことへの認識を持ち、明確で首尾一貫した役割イメージを保持し、自分自身と他者の行動が内面の状態により動機付けされることについての患者の体験的な理解を促進する。それにより可能な限り自己及び他者に関する多様な視点の可能性を示すのである。そのために治療者は患者の現在あるいは直前の感情状態を、それに付随する内的表象とともに示すことを試みる(Bateman and Fonagy, 2004)。フォナギーはMBTにおいて患者が自分の姿を治療者の心に見出す能力を高めると表現する(Fonagy, 1999)

Fonagy P (1999) The process of change, and the change of processes: what can change in a "good" analysis? Keynote address at the spring meeting of Division 39 of the American Psychological Association,NewYork, Apri,1999.

TFP(転移焦点付け療法)Otto Kernberg (1984) BPDの精神分析的な治療概念に基づき発展した(Clarkin et al 2007) 。心的表象は内在化された養育者との愛着関係に由来し、治療者との間で再体験されるという理解に基づく治療を行う点はMBTの類似する。主たる治療技法は、患者と治療者との間で展開する転移関係の明確化、直面化、および解釈である。しかも治療早期から、転移の中でも特に陰性転移が扱われるとのことである。2回行われるセッションは、治療契約と明確な治療の優先順位に基づいて構造化された枠組みを持つ。なおこのTFPは境界パーソナリティ障害の治療を目的として始まったが、他の障害を持つ患者についてもその対象を広げている。

Clarkin, J.F., Levy K.N., Lenzenweger M.F. et al .: Evaluating three treatments with borderline personality disorder: a preliminary mu1ti-wave study of behavioral change. Am J Psychiatry 164(6);922-92. 2007
Kernberg, O.:Severe Personality Disorders: Psychotherapeutic Strategies. Yale Univ Press 1984(西園昌久: 重症パーソナリティ障害―精神療法的方略. 岩崎学術出版社, 東京, 1997)

DBT(弁証法的行動療法)は米国のMarsha Linehan (2006) により自殺傾向の強いDBTの患者を対象に開発された認知行動療法の一種である。米国精神医学会によりBPDの治療として推奨されているが我が国での普及は十分とは言えない。DBTにおいては患者は問題解決のための感情調節のスキルを学ぶとともに、自身に対する妥当性を承認される環境を与えられる。治療は個人療法とグループスキルトレーニングなどの複合的な構造を有し、このうちグループスキルトレーニングでは、マインドフルネス・スキル、対人関係保持スキル、感情抑制スキル、苦悩耐性スキルを高めることを目指す。

Linehan M.M., Comtois, K.A., Murray, A.M. et al. :Two-year randomized controlled trial and follow-up of dialectical behavior therapy vs. therapy by experts for suicidal behaviors and borderline personality disorder. Arch Gen Psychiatry 63(7);757-766. 2006

遊佐安一郎、 宮城整ほか (2019) 感情調節困難の家族心理教育―境界性パーソナリティ障害,神経発達障害,摂食障害,物質関連障害,双極性障害などで感情調節が困難な人の家族のために― 精神経誌 第121巻第2号 pp131ー138

DDP(Dynamic Deconstructive Psychotherapy 力動的脱構築精神療法)は、ボーダーライン・パーソナリティ障害(BPD)や自殺傾向のある患者のために開発された精神療法である。この治療法は、対象関係理論や神経科学、脱構築哲学などを盛り込んだ治療指針を有し、リカバリーを目的としたものである。それは問題解決やアドバイスではなく問題の背後にある脆弱さに注目し変革的な癒し transformative healing を提供するものとされる。
Gregory RJ,De lucia-Deranja E, MogleJA (2010) Dynamic deconstructive psychotherapy versus optimized community care for borderline personality disorder co-occurring with alcohol use disorders: 30 months follow-up. J Nerv Ment Dis 198:292-298.


2025年12月25日木曜日

PDの精神療法 書き直し 3

 BPDかASDかCPTSDかを判断するという方針は治療を見据えたPDを知る上での一つの指標であると考えたい。それは何よりもこれらが昔で言う第一軸診断に関与しているからである。例えばある否定的感情や離隔、制縛性などが特徴な人に関して、その人がASDの診断基準を(少なくともある程度は)満たすことに気づかれた場合、その治療指針はより支持的で心理教育的な要素を持つことになるだろう。また過去のトラウマが存在し、否定的感情、離隔などが顕著な特徴とされる人の場合、その人がCPTSDを満たすことでよりトラウマに焦点づけられた治療が求められることになるだろう。

Gabbard によるPDの心理療法の9か条 

PDに対する心理療法を行うにあたり心がけておくべきことをGabbard2017)は実証的な研究と脳科学的な研究から以下の項目について必要性を語っている。これらはこれは主としてBPDの治療に向けられたものであるが、広くPD一般に通じるものと考えられる。これに加えて筆者が必要と感じる項目を以下に述べる。

1.柔軟性を保持すること治療者は患者のニーズに合わせ、治療者のそれまでの訓練に基づく治療技法やアプローチを柔軟に用いるべきであろう。理論にとらわれず、探索的なアプローチと支持的なアプローチはその時々で柔軟に使い分けられるべきであろう。特にBPDの治療に際しては治療者が情緒的に揺さぶられることも多く、治療構造を守ることの重要性は言うまでもないが、初心の治療者がそのために防衛的になることは、患者にとっては冷淡で反応に乏しいと思われがちになることに気を付けなくてはならない。治療はいわば患者との「ダンス」であり、そこで患者が持ち込む様々な関係性のパターンを体験することになるが、そこでの治療者の自発性もまた大きな意味を有する。
2. 精神療法を実行するための条件を確立すること特に確かな治療構造と治療契約を結ぶことが重要となる。そしてその治療構造は患者にとっても治療者にとっても安全が確保されるようなものである必要がある。そして治療者は差し迫った自殺の危険性に対しては入院も必要となる可能性があること、治療者に何が出来て何が出来ないかを伝えることも推奨される。セッション間の電話などによる通信に関しては治療スタイルにより異なる対応がなされるが、危機的状況では連絡がつくようにすることは患者が理解され抱えられる感覚を得るためには必要であろうとされる。

 3.受け身的なスタンスを回避すること。治療者は受け身的なままにとどまらず、患者が見ようとしていないものにも目を向けることを促すべきである。治療者は患者に、変化を起こすためには努力が必要であるということを伝え、よりよい刺激を与えるために治療者は積極的であるべきことを強調する。そして患者が自分のことを考えること、として他者の気持ちを考えることの努力がBPDの治療のためには必要である点を強調する。
4.「悪い対象」となるという役目も引き受ける用意を持つこと。患者の多くはわずかなトリガーに反応し、治療者に怒りを向けることがある。それは半ば生物学的に定められている。治療者は客観的、中立的な存在のままでいたいという願望を放棄し、言わば「程悪い対象 bad-enough object」となることをいとわないことも重要である。患者から怒りや攻撃性を向けらた時に「程よく悪い対象」になることを引き受けることで、無反応な治療者を力ずくで動かしたいという患者の試みを回避することが出来るかもしれない。
5.怒りの背後にある痛みに共感すること。患者からの挑発に怒りで返すことは、BPDの患者の過去において繰り返された対象関係に加担することになる。むしろその背後にある患者の傷付きに注目すべきである。従来の考え方では、患者が本来有する攻撃性の解釈が有効であるとされるが、これには例外がある。特にトラウマを受けた患者の場合はその傷が十分に癒えることが第一の目標となろう。
6.メンタライゼーションを促進すること。後に述べるようにBPDの治療において中核的となるのが、患者が自分自身の思考や行動が他者の心にどのように映るかについての理解を深めることである。例えば患者の挑発的な言動について、それを咎めたり早計な解釈を行ったりするのではなく、詳しく尋ね、それが外界の他者ないしは治療室における治療者にはどのように映るかについて率直に話し合うという方向性が重要となる。
7.必要な時に限界設定を行うことこれは上述の治療構造とも連動して強調される。治療構造を設けることは、治療者が恣意的ないしは懲罰的に患者に対する限界設定を行っているという誤解を防ぐ意味でも重要である。
8.治療同盟を確立し、維持すること。 PDの心理療法においては治療関係やラポールの成立や維持が極めて重要であり、治療の成否を占うものであるともいえる。そしてそのために必要なのが、最後の項目である。
9.逆転移感情をモニターすること治療者が自分が治療場面でどのような感情状態にあるかについて知ることは、力動的な治療を超えて恐らくあらゆる治療のモダリティにおいて必須である。そのために治療者は適切なスーパービジョンやケース検討の機会を利用する用意がなくてはならない。

10.トラウマの視点を忘れないこと。今の患者のあり方が過去に経験したトラウマを反映している可能性があるという視点を保ち続けることで、患者に向ける共感の質や度合いが変わることがある。もちろんそれはすべてをトラウマで説明しようとする試みとは異なることは言うまでもない。

11.患者を変えようと思わないこと。治療者が治療的なヒロイズムに陥り、患者の不適応的な側面を改善しようと試みることは、時には患者に多大なストレスとなる。患者が発達障害傾向を有する際には、特的のものの見方や行動パターンを変えることは自分の感覚を失うことに匹敵するような意味を持つ。


2025年12月24日水曜日

PDの精神療法 書き直し 2

見立てにおいて必要な指針(BPDかASDかCPTSDかの視点)

患者のヒストリーを追い、その「認知、感情、対人関係、衝動の制御」(DSM-5)に基づくPDの診断を考慮する際に、従来の臨床家なら、DSMの10のカテゴリーの中のどれに一番当てはまるかを考えるかもしれない。しかし現代の精神科医はもう一つの考える指針を手にしている。それはDSM-5の第三部の代替案やICD-11のディメンショナルモデルに掲げられた「特性」を手掛かりにするという方針である。そしてその際患者がどのようなPDを有するのかを特定する必要はない。それはPDの程度(軽度、中等度、重度)と顕著な特性をいくつか挙げるだけでいいことになっている。

 特性 trait としては、DSMとICDで多少の差はあるものの、以下の5つが提示されている。ここではICD-11 に従うと、否定的感情(鬱・不安などのネガティブな感情が支配的である)、離隔(他者との対人的・情緒的距離を保つ)、非社会性(他者の権利や感情を無視する)、脱抑制(唐突に行動する)、制縛性(強迫的な思考、行動パターン)の5つであるが、そこに並んでボーダーラインパターン(不安定な対人パターンや衝動性、見捨てられ不安)が加えられる。つまり患者の話を聞きながら、これらの特性のどれがどのくらい強いかを考える事になる。
 ただしここに二つの大きな要素が加わることを忘れてはならない。それは最近精神科医や心理士の間で急速に関心が高まっているASD傾向、そしてCPTSD(複雑性PTSD)に見られるパーソナリティ傾向である。
 ちなみにこれらは実はカテゴリカルモデルにも、ディメンショナルにもみられないものである。要するにディメンショナルモデルの5つは Goldberg のいわゆる big five factor に由来し、少なくとも半分は遺伝的に支配されるものと想定していたというところがある。つまりこれらが定められた過程で発達障害や幼少時のトラウマという観点は薄かったということである。ところが臨床的には多くの患者が多かれ少なかれASD的な特性を併せ持ち、また幼少時の愛着に関連するトラウマを抱えているという事実がある。
 このように考えると、ASDにおいては、否定的感情、離隔、制縛性などが関与し、CPTSDにおいては否定的感情、離隔などが顕著な特徴として表れている可能性がある。そしてPDの傾向としてはBPD傾向に加えてこれらのファクター(BPDかASDかCPTSDかの視点)を念頭に置いて見立てを行うことを私は臨床家に勧めたい。 


2025年12月23日火曜日

JASDの2025年年次大会について

 JASD(日本解離研究会)の年次大会が12月14日にあったのでそのことについて忘れないうちに書いておきたい。今年は市ヶ谷のアルカディアでの開催であった。特別講演に内海健先生をお招きし、また学術講演は野間俊一先生、ケース報告は松井浩子先生が担当し、最後はシンポジウムで盛り上がった。全体としていい会であったと思う。参加者もオンラインを含めて200名近くあったと聞く。
私としては身近に感じていながら一度も学会での発表を聞いたことがなかった内海先生の講演が聞けたことが一番の収穫であった。今、精神病理学会ではASD(自閉症スペクトラム症)の研究が盛んであるというが、内海先生の「自閉症スペクトラムの精神病理」(医学書院、2015年)をこの大会を前にして読み、初めて精緻なASD論の存在を知ったという経緯がある。そしてこれが英訳されて海外に知られていないことを非常に残念に思った。柴山理論にせよ、野間理論にせよ、日本には世界に知られていない研究業績が山のようにある。近い将来日本語で発表されたものがすぐさまAIにより英訳され発表されるという時代が来ると思うが、それを待ち遠しく感じる。
しかしそれにしても、柴山先生、野間先生、そして私のグループがもう20年近くこの会を12月の第2日曜日に開き、徐々に年齢を重ねていくことに不安を感じる。柴山先生も後の懇親会で言っていたが、今後解離に興味を持つ若手にぜひ参加して欲しいと願う。 

2025年12月22日月曜日

PDの精神療法 書き直し 1

 見立て

PDを有すると目される患者とのインテークでは、面接者はその抱えている問題の全体像の把握を試みる。患者はそのPDにより自ら困り、あるいは周囲が困っていることになる。DSM-5の表現を借りるならば、「臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こす』とあり、ちょっとスマートな書き方になっているが、実際は同じ意味である。そしてPDについて考える際に、それが「その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った、内的体験および行動の持続的様式でこの様式は以下のうち二つの領域に表れる。認知、感情性、対人関係機能、衝動の制御」というわけだが、実際に患者は「自分は〇〇というパーソナリティの問題がありまして・・・・」と言って訪れるわけではない。大抵は「~という事で困っています」だったり「周囲から受診を薦められました」だったりする。あるいは何らかの症状(鬱、不安など)で受診をしていて主治医からカウンセリングを勧められたと言って来談なさり、その場合には自分が有しているかもしれないパーソナリティ症には比較的無自覚だったりする。それはヒストリーを追っていった面接者が「ああ、ここにはPDが絡んでいるのではないか?」と始めに気がつく、という形をとるかもしれない。いずれにせよ主訴を同定して、見立てをし、治療方針を決める、という段取りでスムーズには進んでは行かない可能性がある。


2025年12月21日日曜日

JASD 終わったけれど 3

解離について:

問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かということである。内海氏の立場は以下の通り。
ASDでは他者から影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある(直観的な共鳴、体験の地続き性)。ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来するが、ASDでそれが不十分、ないしは不在であるという事は、「自分がない」状態とも言える。

このように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。ドナ・ウィリアムズの、他者の視線に飲み込まれるという体験も同じであろう(内海、147))。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それが「いい子」の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親の考えが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。

それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて自己と衝突するが、質量をもっている自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは同じ玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。


2025年12月20日土曜日

JASDに向けて もう終わったけれど 2

 文脈が読めない:Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。


mind reading の有無:Φが成立しているということは他者のまなざしに触発され(ハッとして)、羞恥心を持つという体験につながる。まなざしが私たちの心を揺さぶるのは、そこから無限の共鳴状態(岡野)が始まるからだ。相手の視線を通じて対象化される自分。それは自分を対象化する(すなわち自分がある)視点と重なる。自意識を持つ人は、たとえば「自分はこんな恥ずかしいことをしていて、人には言えないな」と感じるだろうが、それを丸ごと目にするかもしれない人の存在に驚愕するのである。それゆえに他者の視線は怖いが、その自分が実は他者に対して同じことをしている。そのことを向こうも知っている。つまりそこには無限の交互性がある。例の対人関係における「無限地獄」である。
この無限交互の世界に入ることは、他者と会うという行為がそのままその他者の自分に対する経験のモニターの成立を意味する。世界は他者体験が「込み」になり、対象は「もの」(視線触発をしてこない)と他者(してくる)に分かれる。またそこで自分が存在していないと、この無限交互的な体験は「自分を失う」という恐怖を伴う体験となる。


2025年12月19日金曜日

JASDにむけて もう終わったけれど 1

 「ASDと解離」覚書 (内海健「自閉症スペクトラムの精神病理」(2015、医学書院 を基本テキストとして) 

彼の理論における中心的な概念はΦ(ファイ)であり、他者の視線(志向性)のレセプターと表現される。他者に心があるということを直感的に知ることが出来る条件。そしてそれが不足している(欠けている?)のがASD。

🔴ASDは  直観的な共鳴 sympathy 

他者(の視線)により自己は飛び散る(質量が不足しているから)。ジル・ボルト・テイラーという脳科学者の体験記が参考になる。
🔴定型者は 心を介する共感 empathy
他者(の視線)によりもともと存在している自己は背後に下がる(質量が十分だから)

ASDにおける地続きの心の例:ある15歳のASD者。持っている茶碗を落として割ってしまったが、「茶碗がかわいそう」泣き叫んだという(内海、p130)。これは茶碗に心を見ていなくても生じることであろうか?あるいは茶碗だったら心を投影できるのか。3つの表情のみのロボットや動物なら共感できるという例も知られている。つまりASDでもかりそめのΦの存在を示している可能性はあろう。しかしそれはおそらく二次元的な心なら受け入れるのであろう。つまりそこから mind reading による無間地獄に発展しないような関係性なら持てるわけである。

共同注視が出来ない:ASDにおいて欠ける傾向にある共同注視は、「他者の心を直感する際の一つの様式。もっとも基礎にあるのは視線触発だが、それは異質性に対する直観を生むことになり、彼らには脅威である。それに比べて共同注視は相互理解の礎となる、寄り添うような認識である。(内海,p 68) つまりは他者はもう一人の自分であるという認識を支えてくれる体験を生む。ちなみにワンちゃんはある意味では常にこちらの顔色をうかがうという意味では共同注視をしているかもしれない。ASDでは「他者と地続き」でこれをすることが出来ない。

文脈が読めない:Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。

2025年12月18日木曜日

JASDに向けて 4

ちなみにJASDはもう無事終わってしまったのだが・・・・・。

ASDは機能性離断症候群ではないかという説を以前紹介したことがあった(Melillo R, Leisman G. (2009) Autistic spectrum disorders as functional disconnection syndrome. Rev Neurosci. 2009;20(2):111-31.)。要するに右脳不全と左脳の過剰な代償がASDの問題の本質という説がある。こうなってくるとΦの不成立と左脳の過剰機能とは相補的ということが出来るであろう。

ところで根本的な問題。いかにして別人格が生まれるのか。やはり一つの心から「別れる」と考えてしまうところが誤解が生じる理由であると思う。ジャネの第二法則(解離性障害と他者性、p34)で言うように、パーソナリティは本体とは別個に生まれるというのが現実なのだ。(ちなみにジャネの第一原則は、「催眠において表れるのは無意識ではなく、第2の意識である」というものであった)。要するに人間の脳はいくつものダイナミックコアを生み出す能力があり、実際にできては消えているのではないか?丁度真空の中を素粒子が生まれては消える様に。そしてそのうちどれかが選択されて結晶化する。一種のダーウィニズムだ。そしてそれは体験的には一つの人格が「助けて」と叫び、それに反応する形で突然現れるのだ。そのような形で初めてDIDに見られる独特で、創造的な人格のあり方も説明できるのではないだろうか?


2025年12月17日水曜日

JASDに向けて 3

 女性にDIDが多いのはどうしてか、男性にASDが多いのはどうしてか?この問題について再考する。私は「続解離性障害」(p87)でバロンコーエンのE的(共感的)とS的(システム化が旺盛)E的という考え方を援用し、女性的なEが行き過ぎるとDID、男性的なSが旺盛だとASDになるという仮説を立てた。これは柴山のいうDIDに過剰同調性(解離の構造 p138)が見られるという見解とも通じる。しかし女性のDIDにはASD的な傾向も強い。なぜか?柴山はこれを「アスペルガーの解離群と関連している」とも言っている。一つのヒントとなるのは、ASDもまた非常に共感的だという内海の説である。つまり両者は別の意味で共感的だということである。

ASDは  直観的な共鳴 sympathy 自分は 他者により飛び散る(質量が不足しているから)。
定型者は 心を介する共感 empathy 自分は存在しているが後ろに下がる(質量が十分だから)

ところで Φの生成場所はおそらく右脳か(Alan Schore)。動物でもこれは生じる。(特にワンちゃん)しかし人間のASDの場合は、左脳による過剰な代償が伴うことが問題ではないか。動物はそれがないから、まだましであろう。

2025年12月16日火曜日

JASDに向けて 2

さて話題は解離にうつるが、問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かと言う問題である。これはASDとDIDの合併に関して考える際に重要になる。これについての内海氏の立場は以下の通りだ。
ASDでは影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある。それは昨日述べた直観的な共鳴という問題にも関連した、体験の地続き性に関係する。内海によれば、ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来する。それが不十分、ないしは不在であるという事は、おそらくどっしりした主人格的な存在が出来にくいという事を意味する。言い換えれば「自分がない」状態と言える。Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。
 さてこのように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それがいい子の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親に由来することは分かっていたとしても、それが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。(DWは人の目をのぞき込むと自分がなくなってしまい、その人になるという。(内海、147))
 それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて、そこでいったん質量をもった自分と衝突をし、しかし自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。
もっといい例はないか。絶対に「AはBだ」と言い張る母親に異論を唱えられないとする。ASDならごく自然にAはBだ、という自分になる。もともと自分がないから。定型だと自分は大抵自分の考えAはCを持っているから、「AはCだ」という自分は解離されることになる。
DIDにおいては他者への共感性が高いことが解離の原因ではないかと考えたことがある。
 どちらも同一化過剰ということが出来る。しかしASDの場合には直観的な共鳴sympathy で定型者は心を介する共感 empathy だというのが内海の説だ。(P24)

2025年12月15日月曜日

JASDに向けて 1

JASD(日本解離研究会)の12月の大会(すでに昨日、無事に終わったが)に向けて、講演者内海健先生の「自閉症スペクトラムの精神病理」(2015、医学書院) を読んでいるが、いろいろ刺激を受けている。というよりか揺さぶられている。どうしてこんなに大事な本を読んでこなかったのか。この本の中心的な概念はΦ(ファイ、と読むのだろう)であり、非常にわかり易い表現として、他者の視線(志向性)のレセプターと表現される。もちろんこれだけでは何のことか分からない。しかしこれが成立しているということは、他者に心があるということを直感的に知ることが出来る条件であるというのだ。そしてそれが欠けているのがASD者ということである。ただし内海氏はASD者は「心」を介さずに直観的な共鳴(sympathy)の能力を持つ、というところが複雑である。つまりASDは他者のことが分からないというわけではない。ただしわかり方が定型者 typical person とは違うと言っているのである。それが他との同一化である。あるASDの人が、持っている茶碗を落として割ってしまって泣き叫ぶという例が本書に出てくる。自分が割れたと感じるからだ。でもそれは茶碗に心を見ていなくても生じることだ。
Φが成立しているということは他者のまなざしに反応をし、羞恥心を持つというのが内海説だが、全くその通りであろう。まなざしが私たちの心を揺さぶるのは、そこから無限の共鳴状態が始まるからだ。相手の視線を通じて対象化される自分。それは自分を対象化する視点と重なる。自意識を持つ人は、たとえば「自分はこんな恥ずかしいことをしていて、人には言えないな」と感じるだろうが、それを丸ごと目にしかねない人がいることに驚愕するのである。それゆえに他者の視線は怖い。そしてその自分が実は他者に対して同じことをしている。「どんな奴だろう?」と見ている。そのことを向こうも知っている。つまりそこには無限の交互性がある。例の対人関係における「無限地獄」である。
この無限交互の世界に入ることは、他者と会うという行為がそのままその他者の自分に対する経験のモニターの成立を意味する。世界は他者体験が込みになり、対象は「もの」と他者に分かれる。 ところでこのASDにおいても成立している(というかASDがその段階にとどまっている)直観的な共鳴(sympathy)は、右脳のみの世界という事も出来る。これについてはジル・ボルト・テイラーという脳科学者の体験記が参考になる。

2025年12月14日日曜日

分析的精神療法センターでのレクチャー

大変光栄なことに、私は12月6日に日本分析協会の分析的心理療法家センターで話をする機会をいただいた。
日本精神分析協会には、分析家になる道と分析的療法家になる道があり、後者が「センター」と呼ばれる組織である。そこでオンラインで50分の持ち時間でいわゆる支持的療法に関する持論を述べたのである。ある意味ではフロイト的な分析観にかなり挑戦する内容になったが、同時に旧来の精神分析的な考えを凌駕するような見方を示したつもりである。
しかし100年以上たってもまだ威力を発揮するフロイトはその意味では偉大な人物であったと言えるであろう。
お世話をいただいた高野晶先生、関真粧美先生、討論をいただいた縄田秀幸先生、そして若手ホープの山崎孝明先生に感謝申し上げたい。

2025年12月13日土曜日

青山学院大学での講演

 昨日は青山学院大学での講演。「AIで心理療法はどう変わるか?」といったテーマ。学生さんたちの反応もまあまあであった。青山通りの同大学のキャンパスに初めて入ったが、別世界という感じ。さすがMARCHの一角を占める大学だ。学生立ちは広いスペースを伸び伸びと行き来し、キャンパスの建物内のベンチに寝そべっていたり。点灯されたばかりのクリスマスツリーのあたりにたむろしていたり。こんな都会の喧騒、というよりはとびっきりハイソな街の真ん中にゆったりとした空間(これでも昔はもっとゆったりしていたが、その後建物がどんどん立ってきたという様子だが)があるのが少し驚きである。もちろん表面的な印象ではあるが、こんなところでのキャンパスライフは楽しそうだな、という感じ。

講演はおやじギャグや自虐ネタを交えた何時もの話。これで今年の講演や発表がようやく終わった。本当にいくつものハードルを越えてようやく迎えた年末である。

2025年12月12日金曜日

WDについて 推敲の推敲 5

 私の試みー「輪番制フォーマット」

 さてここからは私が現在行っている試みについて書いてみる。と言っても何も特別なことではなく、おそらく多くの方が実行なさっているのかもしれない。私が用いるのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に一人一人順番に発言してもらうという構造を最初に設けてしまうというものである。ただし実際に行う際は最大限の柔軟性を発揮するのだ。それをここでは「輪番制フォーマット」と名づけよう。
 例えばある課題論文や課題図書を指定して、それに関するディスカッションを行うという授業の形式を考える。私はあらかじめ参加者にそれらに目を通してもらい、気になった点、よくわかったりそれに感銘を受けた点、ないしは疑問に思った点をいくつかチェックしてもらい、付箋を貼っておいてもらう。(このチェック項目は数個は用意しておいていただく。)
 実際の授業では、まず私がその課題論文に関するエッセンスについて10~20分かけてレクチャーを行う。そしてその後のディスカッションでは最初から参加者に順番に彼らのチェックした部分を一つずつ発表してもらうのだ。そしてそれについて小ディスカッションを行い、そこでの意見が出なければ私がコメントして終わる。これを時間の許す限り何周も行うのだ。だいたいは3~5周くらいで修了時間 (90分の授業の場合)となる。 
 この輪番制フォーマットの利点は、皆の自発的な発言を待つまでの時間を省くことが出来ることだ。もちろん彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思える場合が圧倒的に多いので最初からこの形式で始めてしまう。また小ディスカッションでは、だれでも意見を言っていいので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。
 さらにこの「輪番制フォーマット」では参加者に「パス」の権限を差し上げる。「私が言いたかったことを今ちょうどAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と臨機応変に対応する。つまり参加者は発言を「強制」されているわけではないのだ。さらには参加者には「この論文のことに限らないでも、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのAさんの発言に関することでも、何でもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」と伝える。
 このフォーマットの長所は、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。参加者はあまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要を感じるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来るという逃げ道を与えることが出来る。
 このやり方に対する一つの疑問としては「では多数の聴衆を対象にした講義ではどうするのですか?」が挙げられるかもしれない。実は大学の教養学部で学生が100人を超える大講堂での授業も多く担当したが、そこでもディスカッションの時間に沈黙に遭遇したことが何度もあった。特に単位取得のためにさほど関心のない授業に出ている学生はほとんど発言する意欲を持っていないことが多い。そこで一計を案じてワイヤレスマイクを使い、輪番制のようなことをしてみた。講義室の一番奥の、授業に身が入りにくそうな学生たちの席に歩み寄り、先ほどまで隣とお喋りに熱中していた学生などにマイクを渡す。そして「パス」ありで質問をしてもらい、次に好きな人にマイクを渡すという方式にしてみた。すると少なくとも一部の学生たちはそれに興味を掻き立てられ、学期末のフィードバックでは「斬新な試みでよかった」と高評価をくれる学生もいたのである。

さいごに 日本型WD(?)にむけて

 私のWDに関する考えをあれこれ述べたが、ここでまとめに入りたい。私はWDが授業や講義の後のディスカッションや実習の事後学習をより実り豊かなものをするためには、とても重要な概念であると考える。ただし英国産のWDの意義を十分に尊重しつつ、日本の文化にあった形で活用することが求められるのではないかとも考える。
 WDにとって必須のグループディスカッションのあり方は、欧米と日本とでかなり異なる可能性があることは、私自身が体験から示した。そして日本においては自由なディスカッションを行うことへの抵抗が、WDを行う際の一つの壁となる可能性がより高いことを指摘した。WDの主たる目的である、参加者の見解の多様性や自己の見解との比較検討が重要なのは国や文化を超えて共通しているであろう。しかし日本人の場合は自由なディスカッションが成立するためには私自身にとっても必要であった人前で自説を披露する練習ないしは訓練が求められることになる。しかしそれらはとても重要な要素ではあっても、お互いの見解の多様性を知る上で本質的な部分とは言えないのではないか。何らかの形で考えをシェアできるのであれば、自由なディスカッション以外の方法を用いてもいいであろう。要は電動アシスト付きでも前に進むことが大事なのである。そこで私が示した「輪番制フォーマット」のような工夫も意味がないわけではないと考えるのだ。
 私は海外生活が長い割には欧米の思想や理論がそのまま輸入される傾向には警戒の念を持つ傾向がある。WDもそのまま輸入する形では使いにくいのであれば、それを日本流にアレンジすることもまた意味がある事のように思うのだ。この特別寄稿がそのための考えの一助になればと願う。


2025年12月11日木曜日

WDについて 推敲の推敲 4

日本での体験

 私はこの海外での十数年間の、学生ないしはディスカッションの参加者としての体験を持った後に帰国し、自分自身が講演や授業をする立場になった。そしてディスカッションの時間になると学生や受講者の沈黙に出会うという体験を頻繁に持つことになったのだ。私の眼には、日本のディスカッションの参加者たちは、欧米よりもかなり受け身的であるように感じられた。そしてどうしたら活発な質問や討論を誘発することが出来るかについていろいろ苦労することとなった。
 その中で一つ気がついたのは次のことだ。日本のグループの場で沈黙を守る参加者たちは、実は口には出さなくてもたくさんの考えを持っているのである。たとえばある講演をした時、その質問のなさにヤキモキし、少し不躾かもしれないと思いつつ、聴衆のうちの誰かを指名して質問や感想を話すことを促すとしよう。すると意に反してかなり内容のある反応が返ってくることが多いのだ。さらに最後に講義の後にアンケートなどで感想を募ると、あれだけ沈黙をしていた受講者から実に様々な、実り多い返事が返ってくる。つまり彼らは決して何も考えていないわけではないのだ。そして私の体験では、アンケートを匿名で書いてもらえば、さらに自由な意見や感想が戻ってくるようなのだ。そしてそこには参加者たちの「本当は意見を言いたかった」という気持ちが透けて見えることもあるのだ。
 そしてこれはおそらくWDの日本でのあり方を考える場合に、かなり大きな問題を提示している気がする。この問題については後ほど述べるが、日本のグループは何かの触媒 catalyser のような装置ないしは工夫が必要なのだ。と言っても大げさなものを私が考えているわけではない。
 たとえば極端な話、グラスに一杯のワインでもいいだろう。アルコールで少しほろ酔い気分になった日本人が途端に饒舌になる様子は数多く経験しているからだ。もちろん学術講演でアルコールを振舞ったりしたら大変な問題になるだろう。それにアルコールを飲めない人たちは取り残されたと感じるかもしれない。しかしカクテルパーティと講演を合体させることが出来たらどうなるだろうか、などと夢想することもあったのだ。このようにあれこれ思案はしてきたのである。

一つだけ「断り書き」

 ここから私が現在自分が行う講演や授業で採用している私なりの工夫について書いてみたいが、その前に一つの断り書きが必要だと思った。先ほど「日本人はグループでは沈黙がちだ」などと偉そうなことを書いたが、すでに触れたように、私自身ははグループで真っ先に沈黙するタイプであることを告白しなくてはならない。だから私の講義がひと段落したところで「では質問のある方?」と呼びかけてシーンとされても、少しがっかりはするが、その気持ちはとてもよくわかるのだ。
 私がグループでの発言が苦手なのは生来の引っ込み思案が関係していると思う。思春期以降の私はかなりの恥ずかしがり屋で気弱である。パリ時代も、アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかくグループ状況では喋れなかった。もともと日本でもそうだったのに、外国で下手なフランス語や英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(そもそもディスカッションの理解がついていけないということもあったが。)
 しかし他方では私は毎回授業のたびに「何とか発言が出来ないものか」ともがいていたことも確かである。言いたいことを紙に書いて用意していたりもしていた。しかし手を挙げる勇気が出ず、その度に不甲斐なさを感じていた。実は授業が終わった後の帰り道に「あー、また発言できなかった!悔しい!」と空を見上げることを何度も体験していたのである。このような思いがあるからこそ、私はこのWDの議論にことさら興味を覚えるのかもしれない。
 ところでこのグループで発言できないという問題に関しては、ひとつ面白い体験があった。それは米国での留学先のメニンガー・クリニックで持った力動的なグループでの体験だった。グループ療法にも力を入れるメニンガーでは、一般市民にも開かれたさまざまなワークショップが企画され、年に何度か体験グループのセッションが持たれた。それもかなり本格的なもので、二日、ないしは三日連続で朝から力動的なグループの体験学習が何セッションも行われたりしたのである。私もおっかなびっくりでそのような体験グループに出てみたのであるが、そこでとても不思議な体験をした。20人、30人というほとんどが米国人で占められるグループに参加しても、発言することに不思議と抵抗がなかったのだ。
 今から考えると、私は体験グループの状況を、精神分析の自由連想と同じにとらえていたからではないかと思う。私は当時個人セラピーや週4回の精神分析を受けていたが、そのような状況ではただ一人の相手である治療者に対して喋れないということは特になかった。聴衆がたった一人なら緊張のしようがないではないか。私にとっての喋れない苦しさはグループ状況に限られていたのである。
 そして基本的には「何を言ってもいい」という力動的なグループ状況でも、私は分析の自由連想を行う時と同じ心持になれたようである。何か言葉に詰まったら、そのことを言えばいいのである。「ええと・・・・、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困っています・・・・」と、なんでも包み隠さず実況中継すればいいのだと思えば、発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに体験グループは私が素(す)であることを許される場と感じられたのである。この点はWDのあり方を考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるからである。