解離について:
問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かということである。内海氏の立場は以下の通り。
ASDでは他者から影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある(直観的な共鳴、体験の地続き性)。ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来するが、ASDでそれが不十分、ないしは不在であるという事は、「自分がない」状態とも言える。
このように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。ドナ・ウィリアムズの、他者の視線に飲み込まれるという体験も同じであろう(内海、147))。
例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それが「いい子」の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親の考えが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。
それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて自己と衝突するが、質量をもっている自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは同じ玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。