2025年12月21日日曜日

JASD 終わったけれど 3

解離について:

問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かということである。内海氏の立場は以下の通り。
ASDでは他者から影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある(直観的な共鳴、体験の地続き性)。ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来するが、ASDでそれが不十分、ないしは不在であるという事は、「自分がない」状態とも言える。

このように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。ドナ・ウィリアムズの、他者の視線に飲み込まれるという体験も同じであろう(内海、147))。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それが「いい子」の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親の考えが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。

それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて自己と衝突するが、質量をもっている自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは同じ玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。


2025年12月20日土曜日

JASDに向けて もう終わったけれど 2

 文脈が読めない:Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。


mind reading の有無:Φが成立しているということは他者のまなざしに触発され(ハッとして)、羞恥心を持つという体験につながる。まなざしが私たちの心を揺さぶるのは、そこから無限の共鳴状態(岡野)が始まるからだ。相手の視線を通じて対象化される自分。それは自分を対象化する(すなわち自分がある)視点と重なる。自意識を持つ人は、たとえば「自分はこんな恥ずかしいことをしていて、人には言えないな」と感じるだろうが、それを丸ごと目にするかもしれない人の存在に驚愕するのである。それゆえに他者の視線は怖いが、その自分が実は他者に対して同じことをしている。そのことを向こうも知っている。つまりそこには無限の交互性がある。例の対人関係における「無限地獄」である。
この無限交互の世界に入ることは、他者と会うという行為がそのままその他者の自分に対する経験のモニターの成立を意味する。世界は他者体験が「込み」になり、対象は「もの」(視線触発をしてこない)と他者(してくる)に分かれる。またそこで自分が存在していないと、この無限交互的な体験は「自分を失う」という恐怖を伴う体験となる。


2025年12月19日金曜日

JASDにむけて もう終わったけれど 1

 「ASDと解離」覚書 (内海健「自閉症スペクトラムの精神病理」(2015、医学書院 を基本テキストとして) 

彼の理論における中心的な概念はΦ(ファイ)であり、他者の視線(志向性)のレセプターと表現される。他者に心があるということを直感的に知ることが出来る条件。そしてそれが不足している(欠けている?)のがASD。

🔴ASDは  直観的な共鳴 sympathy 

他者(の視線)により自己は飛び散る(質量が不足しているから)。ジル・ボルト・テイラーという脳科学者の体験記が参考になる。
🔴定型者は 心を介する共感 empathy
他者(の視線)によりもともと存在している自己は背後に下がる(質量が十分だから)

ASDにおける地続きの心の例:ある15歳のASD者。持っている茶碗を落として割ってしまったが、「茶碗がかわいそう」泣き叫んだという(内海、p130)。これは茶碗に心を見ていなくても生じることであろうか?あるいは茶碗だったら心を投影できるのか。3つの表情のみのロボットや動物なら共感できるという例も知られている。つまりASDでもかりそめのΦの存在を示している可能性はあろう。しかしそれはおそらく二次元的な心なら受け入れるのであろう。つまりそこから mind reading による無間地獄に発展しないような関係性なら持てるわけである。

共同注視が出来ない:ASDにおいて欠ける傾向にある共同注視は、「他者の心を直感する際の一つの様式。もっとも基礎にあるのは視線触発だが、それは異質性に対する直観を生むことになり、彼らには脅威である。それに比べて共同注視は相互理解の礎となる、寄り添うような認識である。(内海,p 68) つまりは他者はもう一人の自分であるという認識を支えてくれる体験を生む。ちなみにワンちゃんはある意味では常にこちらの顔色をうかがうという意味では共同注視をしているかもしれない。ASDでは「他者と地続き」でこれをすることが出来ない。

文脈が読めない:Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。

2025年12月18日木曜日

JASDに向けて 4

ちなみにJASDはもう無事終わってしまったのだが・・・・・。

ASDは機能性離断症候群ではないかという説を以前紹介したことがあった(Melillo R, Leisman G. (2009) Autistic spectrum disorders as functional disconnection syndrome. Rev Neurosci. 2009;20(2):111-31.)。要するに右脳不全と左脳の過剰な代償がASDの問題の本質という説がある。こうなってくるとΦの不成立と左脳の過剰機能とは相補的ということが出来るであろう。

ところで根本的な問題。いかにして別人格が生まれるのか。やはり一つの心から「別れる」と考えてしまうところが誤解が生じる理由であると思う。ジャネの第二法則(解離性障害と他者性、p34)で言うように、パーソナリティは本体とは別個に生まれるというのが現実なのだ。(ちなみにジャネの第一原則は、「催眠において表れるのは無意識ではなく、第2の意識である」というものであった)。要するに人間の脳はいくつものダイナミックコアを生み出す能力があり、実際にできては消えているのではないか?丁度真空の中を素粒子が生まれては消える様に。そしてそのうちどれかが選択されて結晶化する。一種のダーウィニズムだ。そしてそれは体験的には一つの人格が「助けて」と叫び、それに反応する形で突然現れるのだ。そのような形で初めてDIDに見られる独特で、創造的な人格のあり方も説明できるのではないだろうか?


2025年12月17日水曜日

JASDに向けて 3

 女性にDIDが多いのはどうしてか、男性にASDが多いのはどうしてか?この問題について再考する。私は「続解離性障害」(p87)でバロンコーエンのE的(共感的)とS的(システム化が旺盛)E的という考え方を援用し、女性的なEが行き過ぎるとDID、男性的なSが旺盛だとASDになるという仮説を立てた。これは柴山のいうDIDに過剰同調性(解離の構造 p138)が見られるという見解とも通じる。しかし女性のDIDにはASD的な傾向も強い。なぜか?柴山はこれを「アスペルガーの解離群と関連している」とも言っている。一つのヒントとなるのは、ASDもまた非常に共感的だという内海の説である。つまり両者は別の意味で共感的だということである。

ASDは  直観的な共鳴 sympathy 自分は 他者により飛び散る(質量が不足しているから)。
定型者は 心を介する共感 empathy 自分は存在しているが後ろに下がる(質量が十分だから)

ところで Φの生成場所はおそらく右脳か(Alan Schore)。動物でもこれは生じる。(特にワンちゃん)しかし人間のASDの場合は、左脳による過剰な代償が伴うことが問題ではないか。動物はそれがないから、まだましであろう。

2025年12月16日火曜日

JASDに向けて 2

さて話題は解離にうつるが、問題はΦの成立が解離性の人格の形成にとって必須かと言う問題である。これはASDとDIDの合併に関して考える際に重要になる。これについての内海氏の立場は以下の通りだ。
ASDでは影響を被りにくいという事はない。むしろそれが非常に強い場合もある。それは昨日述べた直観的な共鳴という問題にも関連した、体験の地続き性に関係する。内海によれば、ASDの「自己質量は軽い」からこそ影響もうけ、翻弄される。自分=司令塔はそもそもΦの存在に由来する。それが不十分、ないしは不在であるという事は、おそらくどっしりした主人格的な存在が出来にくいという事を意味する。言い換えれば「自分がない」状態と言える。Φは一頭地を抜く存在であり、それがないと「文脈が分からない」という事になる。俯瞰できずに文脈に飲まれてしまうからだ。これがいわゆる「空気を読めない」という現象になる。そしてこれは(文脈を)「読む」という言い方をしてはいても直観的にわかるものである。
 さてこのように被影響性が強く、かつΦが未形成であることは、解離性の病理を生み易い、と内海は言う。ASDで「物まねをするとその人そのものになる」という傾向が指摘されるが、それは最たるものであろう。
 例えば母親の「いい子でいなさい」と言われると、それがいい子の人格を生むという場合を考えよう。ASDの場合、「いい子でいる」は直接入って来る。母親の心を媒介にはしていないという事だ。それは言い方を変えると、母親に由来することは分かっていたとしても、それが自分を押しのけて、もう一つの自分となるのだ。ASDにおける自己の質量は軽いから(内海)すぐ飛んで行ってしまう。ニュアンスとしては「玉突き現象」だ。(DWは人の目をのぞき込むと自分がなくなってしまい、その人になるという。(内海、147))
 それに比べて定型者の場合、「あなたはいい子よ」という母親の心が入ってきて、そこでいったん質量をもった自分と衝突をし、しかし自己は消えずに背後に回る。少なくともそこには一種の葛藤が生じる。これは玉突きでも、自己は飛んでいかずに席を譲る。
もっといい例はないか。絶対に「AはBだ」と言い張る母親に異論を唱えられないとする。ASDならごく自然にAはBだ、という自分になる。もともと自分がないから。定型だと自分は大抵自分の考えAはCを持っているから、「AはCだ」という自分は解離されることになる。
DIDにおいては他者への共感性が高いことが解離の原因ではないかと考えたことがある。
 どちらも同一化過剰ということが出来る。しかしASDの場合には直観的な共鳴sympathy で定型者は心を介する共感 empathy だというのが内海の説だ。(P24)

2025年12月15日月曜日

JASDに向けて 1

JASD(日本解離研究会)の12月の大会(すでに昨日、無事に終わったが)に向けて、講演者内海健先生の「自閉症スペクトラムの精神病理」(2015、医学書院) を読んでいるが、いろいろ刺激を受けている。というよりか揺さぶられている。どうしてこんなに大事な本を読んでこなかったのか。この本の中心的な概念はΦ(ファイ、と読むのだろう)であり、非常にわかり易い表現として、他者の視線(志向性)のレセプターと表現される。もちろんこれだけでは何のことか分からない。しかしこれが成立しているということは、他者に心があるということを直感的に知ることが出来る条件であるというのだ。そしてそれが欠けているのがASD者ということである。ただし内海氏はASD者は「心」を介さずに直観的な共鳴(sympathy)の能力を持つ、というところが複雑である。つまりASDは他者のことが分からないというわけではない。ただしわかり方が定型者 typical person とは違うと言っているのである。それが他との同一化である。あるASDの人が、持っている茶碗を落として割ってしまって泣き叫ぶという例が本書に出てくる。自分が割れたと感じるからだ。でもそれは茶碗に心を見ていなくても生じることだ。
Φが成立しているということは他者のまなざしに反応をし、羞恥心を持つというのが内海説だが、全くその通りであろう。まなざしが私たちの心を揺さぶるのは、そこから無限の共鳴状態が始まるからだ。相手の視線を通じて対象化される自分。それは自分を対象化する視点と重なる。自意識を持つ人は、たとえば「自分はこんな恥ずかしいことをしていて、人には言えないな」と感じるだろうが、それを丸ごと目にしかねない人がいることに驚愕するのである。それゆえに他者の視線は怖い。そしてその自分が実は他者に対して同じことをしている。「どんな奴だろう?」と見ている。そのことを向こうも知っている。つまりそこには無限の交互性がある。例の対人関係における「無限地獄」である。
この無限交互の世界に入ることは、他者と会うという行為がそのままその他者の自分に対する経験のモニターの成立を意味する。世界は他者体験が込みになり、対象は「もの」と他者に分かれる。 ところでこのASDにおいても成立している(というかASDがその段階にとどまっている)直観的な共鳴(sympathy)は、右脳のみの世界という事も出来る。これについてはジル・ボルト・テイラーという脳科学者の体験記が参考になる。

2025年12月14日日曜日

分析的精神療法センターでのレクチャー

大変光栄なことに、私は12月6日に日本分析協会の分析的心理療法家センターで話をする機会をいただいた。
日本精神分析協会には、分析家になる道と分析的療法家になる道があり、後者が「センター」と呼ばれる組織である。そこでオンラインで50分の持ち時間でいわゆる支持的療法に関する持論を述べたのである。ある意味ではフロイト的な分析観にかなり挑戦する内容になったが、同時に旧来の精神分析的な考えを凌駕するような見方を示したつもりである。
しかし100年以上たってもまだ威力を発揮するフロイトはその意味では偉大な人物であったと言えるであろう。
お世話をいただいた高野晶先生、関真粧美先生、討論をいただいた縄田秀幸先生、そして若手ホープの山崎孝明先生に感謝申し上げたい。

2025年12月13日土曜日

青山学院大学での講演

 昨日は青山学院大学での講演。「AIで心理療法はどう変わるか?」といったテーマ。学生さんたちの反応もまあまあであった。青山通りの同大学のキャンパスに初めて入ったが、別世界という感じ。さすがMARCHの一角を占める大学だ。学生立ちは広いスペースを伸び伸びと行き来し、キャンパスの建物内のベンチに寝そべっていたり。点灯されたばかりのクリスマスツリーのあたりにたむろしていたり。こんな都会の喧騒、というよりはとびっきりハイソな街の真ん中にゆったりとした空間(これでも昔はもっとゆったりしていたが、その後建物がどんどん立ってきたという様子だが)があるのが少し驚きである。もちろん表面的な印象ではあるが、こんなところでのキャンパスライフは楽しそうだな、という感じ。

講演はおやじギャグや自虐ネタを交えた何時もの話。これで今年の講演や発表がようやく終わった。本当にいくつものハードルを越えてようやく迎えた年末である。

2025年12月12日金曜日

WDについて 推敲の推敲 5

 私の試みー「輪番制フォーマット」

 さてここからは私が現在行っている試みについて書いてみる。と言っても何も特別なことではなく、おそらく多くの方が実行なさっているのかもしれない。私が用いるのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に一人一人順番に発言してもらうという構造を最初に設けてしまうというものである。ただし実際に行う際は最大限の柔軟性を発揮するのだ。それをここでは「輪番制フォーマット」と名づけよう。
 例えばある課題論文や課題図書を指定して、それに関するディスカッションを行うという授業の形式を考える。私はあらかじめ参加者にそれらに目を通してもらい、気になった点、よくわかったりそれに感銘を受けた点、ないしは疑問に思った点をいくつかチェックしてもらい、付箋を貼っておいてもらう。(このチェック項目は数個は用意しておいていただく。)
 実際の授業では、まず私がその課題論文に関するエッセンスについて10~20分かけてレクチャーを行う。そしてその後のディスカッションでは最初から参加者に順番に彼らのチェックした部分を一つずつ発表してもらうのだ。そしてそれについて小ディスカッションを行い、そこでの意見が出なければ私がコメントして終わる。これを時間の許す限り何周も行うのだ。だいたいは3~5周くらいで修了時間 (90分の授業の場合)となる。 
 この輪番制フォーマットの利点は、皆の自発的な発言を待つまでの時間を省くことが出来ることだ。もちろん彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思える場合が圧倒的に多いので最初からこの形式で始めてしまう。また小ディスカッションでは、だれでも意見を言っていいので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。
 さらにこの「輪番制フォーマット」では参加者に「パス」の権限を差し上げる。「私が言いたかったことを今ちょうどAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と臨機応変に対応する。つまり参加者は発言を「強制」されているわけではないのだ。さらには参加者には「この論文のことに限らないでも、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのAさんの発言に関することでも、何でもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」と伝える。
 このフォーマットの長所は、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。参加者はあまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要を感じるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来るという逃げ道を与えることが出来る。
 このやり方に対する一つの疑問としては「では多数の聴衆を対象にした講義ではどうするのですか?」が挙げられるかもしれない。実は大学の教養学部で学生が100人を超える大講堂での授業も多く担当したが、そこでもディスカッションの時間に沈黙に遭遇したことが何度もあった。特に単位取得のためにさほど関心のない授業に出ている学生はほとんど発言する意欲を持っていないことが多い。そこで一計を案じてワイヤレスマイクを使い、輪番制のようなことをしてみた。講義室の一番奥の、授業に身が入りにくそうな学生たちの席に歩み寄り、先ほどまで隣とお喋りに熱中していた学生などにマイクを渡す。そして「パス」ありで質問をしてもらい、次に好きな人にマイクを渡すという方式にしてみた。すると少なくとも一部の学生たちはそれに興味を掻き立てられ、学期末のフィードバックでは「斬新な試みでよかった」と高評価をくれる学生もいたのである。

さいごに 日本型WD(?)にむけて

 私のWDに関する考えをあれこれ述べたが、ここでまとめに入りたい。私はWDが授業や講義の後のディスカッションや実習の事後学習をより実り豊かなものをするためには、とても重要な概念であると考える。ただし英国産のWDの意義を十分に尊重しつつ、日本の文化にあった形で活用することが求められるのではないかとも考える。
 WDにとって必須のグループディスカッションのあり方は、欧米と日本とでかなり異なる可能性があることは、私自身が体験から示した。そして日本においては自由なディスカッションを行うことへの抵抗が、WDを行う際の一つの壁となる可能性がより高いことを指摘した。WDの主たる目的である、参加者の見解の多様性や自己の見解との比較検討が重要なのは国や文化を超えて共通しているであろう。しかし日本人の場合は自由なディスカッションが成立するためには私自身にとっても必要であった人前で自説を披露する練習ないしは訓練が求められることになる。しかしそれらはとても重要な要素ではあっても、お互いの見解の多様性を知る上で本質的な部分とは言えないのではないか。何らかの形で考えをシェアできるのであれば、自由なディスカッション以外の方法を用いてもいいであろう。要は電動アシスト付きでも前に進むことが大事なのである。そこで私が示した「輪番制フォーマット」のような工夫も意味がないわけではないと考えるのだ。
 私は海外生活が長い割には欧米の思想や理論がそのまま輸入される傾向には警戒の念を持つ傾向がある。WDもそのまま輸入する形では使いにくいのであれば、それを日本流にアレンジすることもまた意味がある事のように思うのだ。この特別寄稿がそのための考えの一助になればと願う。


2025年12月11日木曜日

WDについて 推敲の推敲 4

日本での体験

 私はこの海外での十数年間の、学生ないしはディスカッションの参加者としての体験を持った後に帰国し、自分自身が講演や授業をする立場になった。そしてディスカッションの時間になると学生や受講者の沈黙に出会うという体験を頻繁に持つことになったのだ。私の眼には、日本のディスカッションの参加者たちは、欧米よりもかなり受け身的であるように感じられた。そしてどうしたら活発な質問や討論を誘発することが出来るかについていろいろ苦労することとなった。
 その中で一つ気がついたのは次のことだ。日本のグループの場で沈黙を守る参加者たちは、実は口には出さなくてもたくさんの考えを持っているのである。たとえばある講演をした時、その質問のなさにヤキモキし、少し不躾かもしれないと思いつつ、聴衆のうちの誰かを指名して質問や感想を話すことを促すとしよう。すると意に反してかなり内容のある反応が返ってくることが多いのだ。さらに最後に講義の後にアンケートなどで感想を募ると、あれだけ沈黙をしていた受講者から実に様々な、実り多い返事が返ってくる。つまり彼らは決して何も考えていないわけではないのだ。そして私の体験では、アンケートを匿名で書いてもらえば、さらに自由な意見や感想が戻ってくるようなのだ。そしてそこには参加者たちの「本当は意見を言いたかった」という気持ちが透けて見えることもあるのだ。
 そしてこれはおそらくWDの日本でのあり方を考える場合に、かなり大きな問題を提示している気がする。この問題については後ほど述べるが、日本のグループは何かの触媒 catalyser のような装置ないしは工夫が必要なのだ。と言っても大げさなものを私が考えているわけではない。
 たとえば極端な話、グラスに一杯のワインでもいいだろう。アルコールで少しほろ酔い気分になった日本人が途端に饒舌になる様子は数多く経験しているからだ。もちろん学術講演でアルコールを振舞ったりしたら大変な問題になるだろう。それにアルコールを飲めない人たちは取り残されたと感じるかもしれない。しかしカクテルパーティと講演を合体させることが出来たらどうなるだろうか、などと夢想することもあったのだ。このようにあれこれ思案はしてきたのである。

一つだけ「断り書き」

 ここから私が現在自分が行う講演や授業で採用している私なりの工夫について書いてみたいが、その前に一つの断り書きが必要だと思った。先ほど「日本人はグループでは沈黙がちだ」などと偉そうなことを書いたが、すでに触れたように、私自身ははグループで真っ先に沈黙するタイプであることを告白しなくてはならない。だから私の講義がひと段落したところで「では質問のある方?」と呼びかけてシーンとされても、少しがっかりはするが、その気持ちはとてもよくわかるのだ。
 私がグループでの発言が苦手なのは生来の引っ込み思案が関係していると思う。思春期以降の私はかなりの恥ずかしがり屋で気弱である。パリ時代も、アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかくグループ状況では喋れなかった。もともと日本でもそうだったのに、外国で下手なフランス語や英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(そもそもディスカッションの理解がついていけないということもあったが。)
 しかし他方では私は毎回授業のたびに「何とか発言が出来ないものか」ともがいていたことも確かである。言いたいことを紙に書いて用意していたりもしていた。しかし手を挙げる勇気が出ず、その度に不甲斐なさを感じていた。実は授業が終わった後の帰り道に「あー、また発言できなかった!悔しい!」と空を見上げることを何度も体験していたのである。このような思いがあるからこそ、私はこのWDの議論にことさら興味を覚えるのかもしれない。
 ところでこのグループで発言できないという問題に関しては、ひとつ面白い体験があった。それは米国での留学先のメニンガー・クリニックで持った力動的なグループでの体験だった。グループ療法にも力を入れるメニンガーでは、一般市民にも開かれたさまざまなワークショップが企画され、年に何度か体験グループのセッションが持たれた。それもかなり本格的なもので、二日、ないしは三日連続で朝から力動的なグループの体験学習が何セッションも行われたりしたのである。私もおっかなびっくりでそのような体験グループに出てみたのであるが、そこでとても不思議な体験をした。20人、30人というほとんどが米国人で占められるグループに参加しても、発言することに不思議と抵抗がなかったのだ。
 今から考えると、私は体験グループの状況を、精神分析の自由連想と同じにとらえていたからではないかと思う。私は当時個人セラピーや週4回の精神分析を受けていたが、そのような状況ではただ一人の相手である治療者に対して喋れないということは特になかった。聴衆がたった一人なら緊張のしようがないではないか。私にとっての喋れない苦しさはグループ状況に限られていたのである。
 そして基本的には「何を言ってもいい」という力動的なグループ状況でも、私は分析の自由連想を行う時と同じ心持になれたようである。何か言葉に詰まったら、そのことを言えばいいのである。「ええと・・・・、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困っています・・・・」と、なんでも包み隠さず実況中継すればいいのだと思えば、発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに体験グループは私が素(す)であることを許される場と感じられたのである。この点はWDのあり方を考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるからである。

2025年12月10日水曜日

WDについて 推敲の推敲 3

 フランス、アメリカでの体験

 結局WDの議論の対象となるような体験は、私自身も長年持って来ており、そこで様々なことを思案してきたことになる。ただそれがWDというテーマですでに論じられていることは知らなかったわけである。そして改めてこの問題について論じる場合、私自身の異文化体験に触れないわけにはいかない。
 私は日本で医師になって間もなく、フランスのパリ大学精神科で一年間外国人研修生として、そのあと米国で4年間、精神科のレジデントとしてトレーニングを受け、さらに精神分析家になるために分析協会での8年間のトレーニングが続いた。パリでの体験は授業とその後のグループディスカッションが主たるものだったが、米国ではそこに実習にに基づくディスカッションが伴っていた。この合計十数年にわたる体験は私にとっては学びが多いとともにかなり苦痛を伴うものであった。私はもともとグループでのディスカッションは得意ではなかったが、それが慣れない外国語で行われるとなると、更に大きな負担となったのである(この私の経験については後に詳述する)。
 これらのトレーニングは通常は同学年の数人、大抵は6~10名のメンバーによる定期的な講義という形をとったが、そこでは講義や症例提示の後には、通常は十分なディスカッションの時間が与えられるのが通例であった。というよりは授業の主体はクラスメートの間でのディスカッションというニュアンスさえあったのである。
 もちろん担当する講師の授業の進め方にもよるが、通常は講師のレクチャーの後にすぐに活発なディスカッションが始まる。日本での同じ機会のように、ディスカッションの時間になってもしばらくの間、あるいは延々と沈黙が流れるということはまずない。グループ全体がそのような沈黙を一体となって埋めにかかるという感じで、必ず誰かが挙手をしたり口火を切ったりするのだ。そしてしばしばその全体の流れに一定の方向性が見いだせないままに様々な意見が出てメンバー間の応酬があり、場合によってはそれで授業が終わってしまうということもあった。
 私は最初の頃はいったいこのようなディスカッションに意味があるのかと疑問に思ったものである。皆が様々な意見や感想を持つということは分かるが、その誰が正解を握っているかということが分からずじまいになってしまうことも多かったため、これでは授業を受ける意味がないのではないか、とさえ思ったことを覚えている。
 もちろん授業がある種の知識や情報の伝達を主目的とするものであれば、ディスカッションというよりはその内容についての質疑が行われて授業が終わる。しかしそれがケース報告などの場合には、グループ内での意見の相違や対立が見られるだけで、結局何も結論らしきものが得られずに授業が終わるということは少なからずあったのだ。それに積極的な参加者が繰り返し発言の機会を得る一方で、消極的な参加者の発言はそこに反映されない傾向にあることも不満であった。
 しかしその後私が考えるようになったのは、この様なディスカッションのあり方が、参加者たちが自由な発想を表現するための訓練の場になっているであろうということである。 欧米社会では各個人がどのような独自の考えを持っているかということはことさら重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分の見解を参加者たちの前で表明することは極めて大切なのだ。それは日本人の場合のように、自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度見当外れではないかを真っ先に考える傾向とは全く異なるのである。
 日本社会では自分が正しいか (正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか) が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。それとの対比で欧米ではまず自分が口火を切り旗幟を鮮明にするのである。
 ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何を恥ずかしいと感じるか」が日本と欧米で違うのだ。そして欧米社会では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。
 この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのである。


2025年12月9日火曜日

WDについて 推敲の推敲 2

 私にとってのワークディスカッション

 WDの歴史や日本における取り組みの現状についてこれ以上述べることが本稿の目的ではない。それについてはそれにふさわしい筆者の章を参照していただきたい。ここからは私が知り得たWDについて現時点で思いめぐらすことについて書いてみよう。

 私はWDを体験に根差した学習のプロセスに関するものと理解している。それはいわゆる実習に関わるものだ。学習に関しては、一方には座学と呼ばれるような、主として教科書や論文を読み、講義を受けることで、どちらかと言えば受動的に学ぶ方法がある。そして実習は実際の体験を通して座学を補う学習と理解できる。

 精神医学や臨床心理学の実習はまずは見学から始まる。それは実際に行われる心理面接の陪席をしたり、スタッフによるケースカンファレンスを見学するという形を取るだろう。そしてその参加者の報告に基づく事後学習としてWDの手法が活用されるであろう。
 また臨床について少しずつ馴染み深くなった時点で事例検討やケースカンファレンスに出席することになる。具体的にはある臨床事例が、複数の受講者に報告される。その事例は過去にどこかで提示されたものであったり、受講者の一人が実際に関わった例であったりする。そしてその報告の内容に基づき様々なディスカッションが行なわれる。それをどのような形でより意味のある学びの機会にするか、ということについてもWDの議論がかかわってくるのだ。
 私は精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会におけるケース検討の場で、これまでこのようなディスカッションを数限りなく経験してきた。特に事例検討のディスカッションに関しては沢山の思い出がある。事例検討では様々なドラマが展開することがある。時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされることもある。
 たとえば学会や勉強会の形式で大掛かりな人数で行われた場合、年若い発表者が助言者に鋭い批判を浴びせられ、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに、まさに火だるまのような状態になることもある。かなり昔の話ではあるが、私自身がその「火だるま」になったこともあった。

 発表者が集中砲火を浴びた場合、聴衆の一人としての反応は複雑である。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理に感じる事もある。思わず発表者に援護射撃をしようと思っていても、その場の雰囲気に押されて何も言えず、歯がゆい思いをしたこともある。

少し極端な場合には発表者はその経験を一種のトラウマのように感じ、またその時に特に歯に衣着せぬ意見を述べられた先生に対して恨みに近い思いを抱くこともある。しかし一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランの先生のコメントも聞こえて来たりすると「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるかわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方についと考えることはペンデイングにしていた。しかしディスカッションが様々な意見を平等に反映したものであれば、このような不幸な事態も防げたはずである。そしてこの問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのが私にとってはつい最近のことだったのである。

2025年12月8日月曜日

WDについて 推敲の推敲 1

   ワークディスカッションについて考える


はじめに

 この度「心理職の『心』を耕すワーク・ディスカッション ー 安心感に守られた対話で考える力をはぐくむー」という書の出版に当たり特別寄稿の機会をいただいた。大変光栄なことである。ちなみに「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由気ままに書いても、査読により不採択になるという心配はいらないからだ。
 あらためて述べるまでもなく、WDはイギリスの精神分析をルーツとし、グループの環境で学びを高めるための試みである。そしてこの動きは日本の心理臨床においてかなり前から導入され、「日本ワークディスカッション研究会」まで存在している。ただし広く一般に知られているとはいえず、まだこれからの領域という印象を受ける。かくいう私も長谷綾子先生、若狭美奈子先生、橋本貴裕先生の企画による2025年の心理診療学会の同テーマの自主シンポにコメント訳としてお招きいただき、その存在を遅ればせながら知ったということを告白しておこう。

 ワークディスカッション(work discussion、以下WD)は、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために1948 年に開発されたという(橋本,2007)。この創始者は精神分析の世界ではよく知られたイギリスの分析家エスター・ビックであり、彼女はこのWDにより乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えておられるので分析家の間ではなじみになっている。
 WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とするという。 具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで発表し合い、そのあとにディスカッションを行うという。そしてそのディスカッションが「自由連想的」であると言われる。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。
 WDにおけるディスカッションでは、「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。つまりそこで起きたことを事実として検討する、という意味ではないという点が特徴なのだ。

  このようにWDの起源は古いが、1970,1980年代に多種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。特に臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ(「日本ワークディスカッション研究会」HPより 野村)。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。


2025年12月7日日曜日

WD推敲 6

 さいごに 日本型WD(?)にむけて

色々書きたいことを書いたが、この辺でまとめに入りたい。私は多少WDについて齧っただけだが、それが臨床実習をより実り豊かなものをするためには何が必要かを考える際には、英国産のWDの意義を十分に尊重しつつ、日本の文化にあった形で活用することが求められるのではないか、と考えるのである。

 WDが実習における事後学習に相当するものをいかに意義深いものとするかについての議論であることはいいであろう。ただしその時に必須となるグループディスカッションのあり方は、欧米と日本とでかなり異なる可能性があることは、私自身が体験から学んできた。そして日本においては自由なディスカッションが一つの壁となって立ちはだかる可能性がより高いことを指摘した。WDの主たる目的である、自分の見解と他の参加者の見解の比較検討が重要なのは共通している。しかし日本人の場合は(私自身も含めて!)「皆の前で勇気をもって発言する練習」「人前で自説を披露するための訓練」が求められることになる。しかしそれらはとても重要な要素ではあっても実習の事後学習にとって本質的とは言えないであろうと思う。それはまた別の種類の学習や訓練であることは間違いがないのであるが。 そこで私が示した「輪番制フォーマット」のような工夫も意味がないわけではないと考えるのだ。
 私は海外生活が長い割に日本びいきであるし反米、反欧感情も少なからずある。否、欧米由来の思想や学説がそのまま後生大事に輸入されることに対する違和感と言った方がいいかもしれない。WDもそのまま輸入する形では使いにくいのであれば、それを日本流にアレンジすることもまた意味がある事のように思うのだ。


2025年12月6日土曜日

PDの精神療法 2

  まず最近盛んに論じられているCPTSDについての心理療法的アプローチについて論じる。CPTSDは独特のパーソナリティ傾向(複雑な対人関係の歪み、アイデンティティの揺らぎ、自己価値の低下、情動不安定性 )があり、この治療も一種のパーソナリティ障害の治療というニュアンスがある。そして重要なのは、これらのDSOの項目に組み込まれるような問題は、しばしばBPDやNPDにもみられることが多いということだ。

 CPTSDに対する治療はもっぱらトラウマに焦点づけられたものが多い。そのいくつかの例を挙げよう。以下はAI情報を使ったまとめ。

トラウマ焦点型セラピー(Trauma‑focused therapy)(トラウマ焦点 CBT, EMDR, プロロングド・エクスポージャー(PE) など)過去のトラウマ記憶を処理・統合することを中心に据える。EMDR や PE など、身体的・知覚的側面を伴う場合も多い。 CPTSD の PTSD 症状および関連不適応 (過覚醒・フラッシュバックなど) に対するエビデンスあり。特にある研究では、8日間の集中的トラウマ焦点治療で、CPTSD 診断を喪失した例も報告されている。ただし、CPTSD 特有の「自己組織化の障害 (disturbances in self-organization, DSO)」 — 自己感の混乱、対人関係の困難、情動調整障害など — に対する治療は限られている、という系統的レビューもある。

統合的・エクレクティックなアプローチ (integrative / multimodal therapy)

トラウマ焦点療法、身体志向セラピー (somatic therapy)、ナラティヴ療法、スキルトレーニングなどを柔軟に組み合わせる。コンディションや患者の状態に応じて適宜構成を変える。 CPTSD のような複雑かつ多面的な心的傷害には、単一モデルでは不十分。柔軟性・適応性が高く、個別化された治療が可能。

身体志向・マインドボディ療法 / 身体感覚の再統合 / マインドフルネスなど

心理的トラウマが身体に刻まれるという観点から、身体感覚・自律神経・内受容 (interoception) に働きかける。マインドフルネス、身体ワーク、感覚統合などを含む。心と身体の分離 (心身二元論) を超えて、トラウマの「身体的記憶」を扱う点で、特にトラウマの深刻なケースや解離傾向が強いケースに有効。最近はこうしたアプローチの重要性がますます注目されている。 

全体として言えることは、多くの研究では “PTSD と CPTSD の混合サンプル” や “トラウマ全般” が対象で、「CPTSD 特有の DSO (自己組織化障害) に特化した治療効果」のデータはまだ十分とは言えない。 ということである。また、エビデンスの質、追跡期間、効果の持続性、再発防止などについてはまだ課題がある。特に解離や対人関係の根深いゆらぎ、アイデンティティの問題などに関しては、長期的な観察・検証が必要であろう。

2025年12月5日金曜日

WD推敲 5

  さてここからは私が授業などで行っている試みについてである。私がやっているのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に一人一人順番に何かを言ってもらうという構造を最初に設けてしまうのである。そのように進行することをあらかじめ伝え、ただし実際に行う際は最大限の柔軟性を発揮するの出る。それをここでは「輪番制フォーマット」となづけよう。  例えばある課題論文や課題図書を指定して、あらかじめ参加者に目を通してもらい、気になった点、よくわかったりそれに感銘を受けたり、疑問に思ったりしたところをいくつかチェックしておいて、そこに付箋を貼っておいていただく。(このチェック項目は数個は用意しておいてもらう。)  実際の事業では、私なりにその論文のエッセンスのようなものについて10~20分かけてレクチャーを行う。そしてその後に参加者に順番に彼らのチェックした部分を一つずつ発表してもらう。そしてそれについて小ディスカッションを皆で行い、私の方からもコメントする。これを時間の許す限り何周も行うのだ。だいたいは3~5周くらいで修了時間 (90分の授業の場合)となる。   私はこれを一つのフォーマットとして行うので、皆の自発的な発言を待つまでの無駄な時間(というわけでもないかもしれないが)はない。もちろん彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思える場合が多い。また誰かの発言に関しての小ディスカッションはだれでも意見を言っていい事になっているので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。  さらにこの「輪番制フォーマット」では参加者に「パス」の権限を与える。「私が言いたかったことを今ちょうどAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と柔軟さを示す。つまり参加者は発言を「強制」されているわけではないのだ。さらには参加者には「この論文のことに限らないでも、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのBさんの挙げたテーマについて考えることがあれば、それでもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」と伝える。

 このフォーマットのいいところは、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題となった論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。あまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要はあるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来る。
 一つの疑問としては「では多数の聴衆を対象にした講義ではどうするのですか?」が挙げられるかもしれない。実は大学の教養学部で、学生が100人を超える大講堂での授業で、ディスカッションの段になり、沈黙に晒されたことがある。そこで一計を案じて、ワイヤレスマイクを使い、一番授業に身が入りにくそうな奥の方の席に歩み寄り、マイク回しをお願いした。もちろん「パス」ありで、好きな人にマイクを渡すという方式にしたところ、結構学生たちも興味を持ち、学期末のフィードバックでは斬新な試みと高評価をくれる学生もいた。


2025年12月4日木曜日

WD推敲 4

 一つだけ「断り書き」

 ここから、私が授業で採用している私なりのWDの変法について書いてみたいが、その前に一つの disclaimer (断り書き)が必要だと思った。というのも先ほど「日本人はグループでは沈黙がちだ」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははグループで真っ先に沈黙するタイプであることを告白しなくてはならない。だから私の講義がひと段落したところで「では質問のある方?」と呼びかけて、シーンとされても、少しがっかりはするが、その気持ちはとてもよくわかるのだ。
 私がグループでの発言が苦手なのは生来の引っ込み思案が関係していると思う。思春期以降の私はかなりの恥ずかしがり屋で気弱である。パリ時代も、アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかくグループ状況では喋れなかった。もともと日本でもそうだったのに、外国で下手なフランス語や英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(そもそもディスカッションの理解がついていけないということもあったが。)
 しかし他方では私は毎回授業のたびに「何とか発言が出来ないものか」ともがいていたことも確かである。言いたいことを紙に書いて用意していたりもしていた。しかし手を挙げる勇気がない事に常に不甲斐なさを感じていた。実はクラスからの帰りに「あー、また発言できなかった!悔しい!」と空を見上げることを何度も体験していたのである。このような思いがあるからこそ、私はこのWDの議論にことさら興味を覚えるのかもしれない。
 ところでこのグループでしゃべれない、という問題に関しては、ひとつ面白い体験があった。それは留学先のメニンガー・クリニックでもったグループでの体験だった。グループ療法にも力を入れるメニンガーでは、一般市民にも開かれたさまざまなワークショップが企画され、年に何度か体験グループのセッションが持たれた。それもかなり本格的なもので、二日、ないしは三日連続で朝から力動的なグループの体験学習が何セッションも行われたりしたのである。私もおっかなびっくりでそのような体験グループに出てみたのであるが、そこでとても不思議な体験をした。20人、30人というそれこそほとんどが米国人で占められるグループに参加しても、発言することに不思議と抵抗がなかったのだ。
 今から考えると、私は体験グループの状況を、精神分析の自由連想と同じにとらえていたからではないかと思う。私は当時個人セラピーや週4回の精神分析を受けていたが、そのような状況ではただ一人の相手に対して喋れないということはほとんどなかった。聴衆がたった一人なら緊張のしようがないではないか。私にとっての喋れない苦しさはグループ状況に限られていたのである。
ところが基本的には「何を言ってもいい」という力動的なグループ状況でも、私は分析の自由連想を行う時と同じ心持になったのである。何か言葉に詰まったら、そのことを言えばいいのである。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めてすべてを実況中継すればいい、と思えば、発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに体験グループは私が素(す)であることを許される場と感じられたのである。このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。

2025年12月3日水曜日

男性の性加害性 6

 3.インセンティブ感作理論

 男性性のもう一つの問題は、その性的な欲求は、それが楽しさや心地よさを得ることで充足されるとは必ずしも言えないということである。むしろそれが今この瞬間にまだ満たされていないことの苦痛(すなわち一種の飢餓感)が、男性を性行動に駆り立てるという性質を有する。そこに相手に対する配慮や、その行為を一緒に楽しむという余裕などが失われてしまう。身も蓋もない言い方であるが、男性の性愛欲求の達成は「排泄」に似た性質を有するのだ。これも実に不幸な話だ。そのような行動に付き合わされるパートナーにとってはえらい迷惑な話である。
 このような男性の性愛性の不幸な性質を説明するのが、いわゆるインセンティブ感作理論 incentive sensitization model (ISM), Berridge & Robinson, 2011)であるが、それを少し学問的に表現するならば、男性の性的満足の機序は、CBDSのような頻回の行動には結びつかないとしても、嗜癖のような性質を有するということになる。なぜならそれはある種の刺激 cueにより突然その行動を起こしたいという極めて強い衝動が起きるからである。普段は普通の理性的な行動が出来ていても、その刺激に出会うと豹変してしまうという問題の原因はここにある可能性がある。

 このISMは次のように言い表される。

 嗜癖行動においては、人は liking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまりそれが満たされることで得られる心地よさは僅かでありながら、現在満たされていないことの苦痛ばかりが増す。これが渇望の正体であり、これは一種の強迫に近くなる。
 男性の性愛性もこの嗜癖に近く、ある種の性的な刺激が与えられると、性的ファンタジーが湧き、このwanting だけが過剰に増大する。しかし通常はそれを即座に満たす手段がないために、それを抑制するための甚大なエネルギーを注がなくてはならないのだ。

さて慧眼な読者だったらこう考えるのではないか。「これってむしろ強迫神経症に近くはないか?だってそれ自体は楽しくなくても、それをしないことが苦痛なんでしょう?」 これはある意味でその通りなのだ。そこで嗜癖と強迫との違いを考えよう。スロットが楽しい人は、週末に2,3時間パチンコ屋に行き、2000~3000円ほどのお小遣いを費やして「楽しむ」。パチンコは賭博ではないと言い張る政府は、これを遊戯と言い張る。パチンコやスロットを管轄しているのは「全日本遊戯事業協同組合連合会」というのだ。そしてこれが楽しいうちは確かに「遊戯」だろう。しかしギャンブル依存になると、手にキャッシュを持つと、楽しくもないスロットをしパチンコ屋に向かうのだ。やっていても楽しくないが、やらないと苦しい。

だから私はこのISMモデルは強迫のことを言っているのではないかというのはもっともな考えであり、事実ISMモデルは強迫をも説明するものとして進化しているという。

さいごに ― 男のどうしようもなさとハニトラ問題

 以上男性のどうしようもなさ、すなわち「普通の男性の性加害性」について出来るだけ脳科学的に論じてみた。もちろんこれは性加害性をはらむ男性たちを「免責」することが目的ではない。むしろこの種の余り男性の側が論じてこなかった問題を明らかにすることで、女性がその犠牲になることや、男性が実際の加害行為に及ぶことを少しでも抑止できることを願っている。
 そしてその上で最後に付け加えたいのは、このような男性のどうしようもなさは、政治の世界では十分熟知され、利用されているという事実である。こうなると犠牲者は女性だけにとどまらない。国家そのものが多大な損失を負うことになる。ここまで述べれば想像がつくであろうが、いわゆるハニートラップの問題である。
「ハニートラップ」に関する歴史的背景を調べるとかなり歴史は古い。何しろ古代インドの国家戦略書にも出てくるという。そして冷戦期以降の諜報活動で本格化していることは、具体的な国名を挙げるまでもなく明らかである。そして国家戦略としてこれが本格的に用いられているということは、逆に言えばその罠にかかってしまう、社会的には信頼を集めているはずの政治家や政府高官がいかにこの問題に関して脆弱かを物語っているのである。
 男性の有する性加害性の記述の最後にこのハニトラの問題に触れることで、その深刻さを強調する形でいったん筆をおきたい。


2025年12月2日火曜日

日本理論心理学会のワークショップに参加して

11月30日(日)に筑波大学で「日本理論心理学会」の甘え再考に関するシンポジウムに参加した。京大のもと同僚の楠見孝先生がオーガナイズされ、私以外には山口勧先生(東京大学名誉教授)遠藤利彦先生(東京大学教授)と楠見教授がシンポジスト、そして北山修先生が討論者であった。甘えに関する各方面からの有意義なご発表を聞くことが出来た。北山先生は相変わらずキレキレで、まったくお年を感じさせなかった。筑波大学キャンパスを訪れるのは初めてであったが、まるで米国の大学のような、広大な敷地に建物が点在する自然豊かな環境を味わうことが出来た。

2025年12月1日月曜日

男性の性加害性 4

 2.男性の性の自己強化ループの仕組み

 トーツの説によれば、男性の脳で起きている二つのシステムのうち、システム2の制御的抑制的システムが、自動的、衝動的なシステム1に負けることで「普通の男性の性加害性」が生じる可能性があるわけだが、いったんこの動きが始めるとなかなか抑えが効かなくなってしまうという問題がある。いわば加速度がついてしまい、途中でやめることが難しくなる。これは飲酒やギャンブルと少し違う部分だ。
 例えば酒なら、それまで我慢していても、一口飲めば止まらなくなるということはある。しかし飲めば飲むほど「もっと!もっと!」というわけではない。私は下戸なのでこの体験をしたことがないが、いい加減に酔えば「まあ、このくらいにしよう」となるのが普通ではないか。最後までいかないと止まらないということはない。かなり深刻な飲酒癖を有する人も、大体飲む量は決まっている。もちろん生理的な限界ということもあり、そもそも血中濃度が増してアルコール中毒状態になり意識を失なえば、もうそれ以上酒を飲み続けることはできなくなる。でもそうなる前に酔いつぶれて寝てしまうのが普通なのだ。
 ではギャンブルはどうか。これもちょっとやりだすと止まらないということはあるだろう。しかし最後にオーガズムに達するまで続けるということはない。ではだんだん使用量が増えていくコカインなどはどうか。これは同じ量の満足を与えてくれるコカインの量が増えていくといういわゆる耐性という現象だが、最終的に絶頂に達するまで止められない、というわけではない。むしろ一定の使用量を超えると失神や呼吸困難に至り、その先には死が待っている。

 ところが普通の男性の性加害性は、いったんオーガスムに向かって突き進み出すと、抑えが効かなくなるということと関係しているようである。一体どうなっているのだろうか。それが後に述べるポジティブフィードバックとしての性質である。

 例えば通常の男女の性的な身体接触について考えよう。最初は髪を触り、そして指先で触れ合い、徐々に手を深く絡め合い、それから腕を組み合い、肩を抱く、・・・・という風にエスカレートする。それはあたかも髪をなで続ける、あるいは指を絡ませ合う、というだけではすぐに慣れてしまって満足度が得られなくなり、さらに敏感な部分への接触へと徐々に進んでいくことでその快感や興奮を維持できるのである。
 性的サディズムを例にとる。最初は相手を叩く,軽く引っ搔くというだけで満足するかもしれない。しかしさらにそれに飽きてしまい、相手にかみつく、跡が付くほど引っ掻く、という風に加害性がエスカレートする。しかしそれでも徐々に興奮が薄れ、さらに深刻な加害行為、さらに深刻な加害行為、例えば強くかみ、皮膚が切れ、出血するという傷害行為に至らないと気が済まないであろう。そこでようやくオーガスムに達するのだ。
 男性の性愛性のはらむこの問題は、大きな加害性を秘めていることはお分かりだろうか。一番最初の刺激、例えば肩をポンポンたたく、頭をなでる、軽くハグする、というだけでは、相手はその性的な意図に気が付かず、特に拒否をしないかもしれない。しかし男性はそこで得られる軽い興奮を維持できなくなる。興奮を維持するためには、性的な侵入を続けなくてはならないのである。そこで「言葉の混乱」はすでに生じており、それに気が付いた時には両者には身体接触が始まり、進行しているのである。
 そこで私がここに提示するのが、二つのモデルである。これらはある意味では重複しているため、まとめて「自己強化ループモデル」と呼ぶことが出来るが、一応別個のものとして論じることから始める。ちなみにことわるまでもないが、これらは性依存や強迫的性行動とはいちおう別の議論である。すなわち性依存でもなく、強迫的性行動でなくても、問題となるモデルであるが、それらとも深く関係している可能性があることが、次第にわかってくるだろう。

この自己強化ループモデルの特徴を一言でいえば、性行動はいったん始動すると、途中で止めることが難しい、という現象を説明するモデルであるということだ。

ここで改めて、この自己強化ループモデルを構成するのが以下の二つの理論である。

  1. ポジティブフィードバック理論

     B. インセンティブ感作理論 incentive sensitization theory (IST)