2020年11月24日火曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲 1

 心のフラクタル性について

  この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しばらく「揺らぎ」について考え続けていたせいで余韻が残っている。特に最近はフラクタルというテーマが気になってきた。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらの多くはどれも当たり前のこととして若い頃は気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでにわかりえないのか。

私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」である。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、さらに深い森に迷い込んだ気になる。その一部について調べると、そこからも新たな森が広がっている。どのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真をネットでダウンロードして見ることが出来る。するとその一部をいくら拡大していっても、何もなさそうな空間に星が新たに湧いて出てくる。つまりいくら遠くに行ってもそこには銀河が存在するのだ。こちらの方向にもフラクタルが存在する。そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。

フラクタル性は美的感覚とも関係する。巧みな画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い意味合いを感じる。これらも「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じてその前で長い時間をかけて鑑賞するのだ。逆に素人の描写は細部に味わいがないので表面的で浅薄なものと感じるのだ。

では心のフラクタル性についてはどうか。それを最初に唱えたのは、精神分析を作ったS.フロイトだった、と私は考える。夢の詳細にまで分け入り、そこでの象徴的な意味を論じた。フロイトの「夢判断」(1900)に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかという事である。そして精神分析では細部の意味を追求する学問でもある。ある高名な分析家は、患者の最初の一言で、その日のセッション全体の行方を知ることが出来ると主張した。また分析的なアプローチをとる心理学者は、ロールシャッハテストで患者が見せるある図版の微細な部分への反応について、その人全体の病理を表しているといった。これもフラクタル的な発想と言える。「神は細部に宿る」という言葉も何となくその精神に通じている。でもこれって本当に意味のあることなのだろうか?

臨床をやっているとこのような考え方に信憑性があるかは重大な問題である。例えば子供を虐待する夢を見た母親は、それが自分の願望を表しているのではと深刻に悩むものだ。そしてその話を聞く治療者側がそれにどのような「解釈」を伝えるかは責任重大だ。ところが最大の問題は、それが意味を持つかどうかは本当にはだれにもわからないという事なのだ。あるいはこんな言い方ができるかもしれない。

「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」。