2020年11月25日水曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲 2

  心のフラクタル性と神経ダーウィニズム

 心がフロイトが考えたような意味でのフラクタル性を有してはいないこと、しかしそれとは別の意味でのフラクタル性を有していること、それが心の問題を考える醍醐味であり、また難解さにもつながり、また私がそこに心の問題の面白さを感じるのだという事を、この短いエッセイの中で伝える自信はない。しかしその概要だけは示しておきたい。そこでのキーワードは「ボトムアップ」システムという事である。

フラクタルとは細かくして行っても同じ複雑な構造を保つ、入れ子状の構造をしていると想像しやすい。マトリョーシカのように最初に大きな人形があり、中をくりぬいて小さい人形が次々と入れ子状に作られていく。これはトップダウン的な見方と言っていい。しかし心を宿す生命体はボトムアップ的に形成されている。最初に原子の大気があり、そこに雷や金属が媒介することで有機物質の集合体が生まれ、それが複雑になっていく過程で、物体と生命体の中間にあたるようなむき出しのRNAのような構造が出来上がり、自己分裂を行い始める、という風に。あるいは発生の際には最初に受精卵があり、それが分裂していくつかの細胞の単位が自分自身を包み込むようなさらに大きな集合体を誘導していく。これもボトムアップだ。最終的に出来上がる生命体に向かっていくようでいて、つまりトップダウンのようでいて、実はそうではない。

さてこのようにして形成される生命体の中の神経系を基盤にして心が生み出されるわけであるが、これもボトムアップなのだ。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれがいくつか組み合わさってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークで、ごく基本的な情報を貯めることが出来る。そのうち数百個の神経細胞からなるC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになる。すでに不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、人間の大脳皮質のように数千億の細胞を有するネットワークも、その中間ぐらいに位置するネズミの脳も、昆虫の脳も、そしてCエレ君のような小さなネットワークも、フラクタル的な関係と言えるのだ。

このようなボトムアップ的でフラクタル的な心という考え方として、前野隆司先生の「受動意識仮説」がある。前野先生は脳の働きは基本的にモジュール的(つまりいくつかの単位が集まったもの)であるとし、より小さな部分を「脳の中の小人たち」という言い方で表す。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合し、それが心という幻を生み出す。

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウンであり、神経細胞一つ一つの行動はランダム的ではなく、上から統制されている。PCにおける最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわばピクセルになってしまう。ところが神経細胞はそれが単体で生きていて、遊離すれば理想的な環境においては理想な環境においては独り歩きしかねないのだ。心や人間を神が作り出した、という考え方、いわゆるインテリジェント・デザインという考え方もその意味では完全なトップダウンの考え方で現実の心の在り方を反映していない。

心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは生きていくことになりそうだ。