2020年11月23日月曜日

揺らぎのエッセイ 推敲 3

 心のフラクタル性と神経ダーウィニズム

この短いエッセイの中で私はあまりに多くのことを詰め込もうとしているのかもしれない。それは無理なことだとわかっているのであきらめるが、その概要だけを示したい。それは心はフロイト的な意味とは異なる意味でフラクタル性を帯びているという事だ。そのために心を宿す脳は基本的にボトムアップシステムであるという事を示したい。

フラクタルとは細かくして行っても同じ複雑な構造を保つ、入れ子状の構造をしているが、実は最初にある極めて基本的な構造があり、成長して作られていくものだ。マトリョーシカなら、最初に大きな人形を作り、その中に小さい人形が次々と入れ子上に形成されていくというわけではない。いや、少なくとも命や心といった生物に関してはそうだ。その意味でボトムアップ的なものなのである。最初に原子の大気があり、そこに雷や金属が媒介することで分子の集合体が生まれ、それが複雑になっていく過程で、物体と生命体の中間にあたるような、例えばむき出しのRNAのような構造があったのであろう。そしてどこかで生命と言えるような存在になる。最初は単細胞の生物で、行き当たりばったりの振る舞いをしつつ、そこで生存競争を経て別の細胞と出会い、あるいは自己分裂して多細胞生物になっていく。あとは進化のプロセスでどんどん細胞の塊が大きくなるものの、最小単位としての細胞の活動はしっかり維持され、かつより大きな集合との間で同期し、一つの臓器を形成していく。その振る舞いはどのレベルに降りてもダーウィン的なプロセスだ。

さて心を生み出すのは神経系だが、それについて考える。それには一応生命体が形成されたそのうえで、という前提がある。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれがいくつか組み合わさってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークで、ごく基本的な情報を貯めることが出来る。そのうち数百個の神経細胞からなるC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになる。すでに不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、人間の大脳皮質のように数千億の細胞を有するネットワークも、その中間ぐらいに位置するネズミの脳も、昆虫の脳も、そしてCエレ君のような小さなネットワークも、フラクタル的な関係と言えるのだ。

ただし人間の心について考えているので、そのフラクタル性について検討しよう。人の心をモジュール的なものと理解して、各モジュールとして取り出していく。個々の部分はもちろん詳しく分かっていない部分であるが、例えば今日の日付は?と考えた場合、また今は何時代なのだろう、と考えるときに、大正―昭和-平成-令和という時代の移り変わりを思い浮かべて、その中から最優先の選択肢として令和が浮かび、何月、となると1月、2月・・・・という選択肢の間の競争が行われる。このように思考とはある種の階層構造におけるダーウィン的な競争の集結という事になる。

このようなボトムアップ的でフラクタル的な心という考えはもちろん私のオリジナルではない。よく似た発想として前野隆司先生の「受動意識仮説」がある。彼は脳の働きは基本的にモジュール的である、とし、より小さな部分を脳の中の小人たちという言い方で表す。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合し、それが心という幻を生み出す。絵もそれは小人たちの働きによってボトムアップ的につくられたものにすぎない。

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウンであり、神経細胞一つ一つの行動はランダム的ではなく、上から統制されている。PCにおける最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわばピクセルになってしまう。ところが神経細胞はそれが単体で生きていて、遊離すれば理想な環境においては独り歩きしかねないのだ。心や人間を神が作り出した、という考え方、いわゆるインテリジェント・デザインという考え方もその意味では完全なトップダウンの考え方で現実の心の在り方を反映していない。

心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは生きていくことになりそうだ。そして私の思考はもうしばらくはこの方向をたどりそうである。