2018年5月24日木曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 5


そもそも精神療法とは何をするものなのか?
ここからは、本章の後半部分である。前半では、治療者の役割のうちの解釈部分は、治療者が自分の無意識を知りたいという前提があって初めて意味を持つのであろうが、そこで主要な介入とはオブザベーション(指摘)であるという内容だった。しかし本章で問い続けている、「患者が何を求めて来談するか」という問題に関する答えには至っていない。そこで「そもそも精神療法とは何をするものなのか?」というテーマにまで戻りたい。きわめて原理的な問題だが、これまでの議論を前提にして改めて問い直すと、何か新しい見え方をするかもしれない。
実は精神療法とは何をするものなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを明確に定義することは出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングの場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストと患者が一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そして患者が再びセラピストを訪れる意欲や動機を持ち続ける限りは、そのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的な事態(治療者による患者の搾取など)が生じない限りは、かなりの範囲のかかわりが精神療法として成立し得るであろう。
そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが患者の中に維持されうるかを考える。ここではふつうは具体的な動機付けが先ず考えられるのであるが、私は逆を行きたい。それは患者にもわからないような動機から考えるということである。たとえば私たちがヨガに通うとき、マッサージに通うとき、パソコン教室に通うとき、おそらく家を出る際には、それらの場所を訪れたときの雰囲気や、そこから帰った時の気分を思い浮かべるであろう。おそらくは私たちは間違いなく、そこから帰る時の、ある種の漠然とした心地よさを予想しているはずである。あるいはそれを継続すると決めたことによるある種の達成感ということもあるだろう。そしてその心地よさがどこから来るかは、本人にも詳細はわからないのである。
私たちが治療のセッションに向かう時間になった時、「今日はどうしよう? 行こうかな?」と迷う際の決断の決め手となるのは、面接室の雰囲気、治療者との会話、行き帰りの時間等における心地よさの度合いを先取りして体験している。そしてそこでの総合的な評価はおおむね無意識的になされているものである。
ある患者さんは、「セッションに行くと、そのあと気分が持ち上がる、いい気持ちになる、達成感がわく、ということがあるんです」と言ったが、それは彼の治療がうまく行っていることの表れと言えるだろう。それが治療者に会いたい、そこでは居心地良く過ごすことが出来る、などの体験を生む。
一つここで言及しておきたいのは、セッションに訪れる人は、ある種の心地よさを求めている、という私の主張は、そのセッション自体が快適であったり楽しかったりすることを必ずしも要請してはいないということだ。そのプロセス自体は苦しく、痛みを伴ったものかもしれない。ただそれでも患者がセッションに訪れるとしたら、その苦しみや痛みそのものがある種の心地よさを生み出しているはずなのだ。それはたとえば苦しいだけのトレーニングや山登りへ人を向かわせるものでもある。苦しいからこその達成感も私たちを捉えて止まないものである可能性があるのだ。
しかしここではとりあえずはセッションそのものから何らかの快適さを味わうという、比較的単純でわかりやすい状況に話を絞ろう。そこにはそこには様々な要素が考えられよう。私は特に以下の三つを考える。

1 自分の話を聞いてもらい、わかってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して誰か(治療者)に説明をしてもらうこと。
3.治療者の存在に触れることで孤独感が癒されること。 

お気づきのように、私はここに「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。その根拠はすでに本章の前半で述べたからだ。ここではそれ以外の理由を考えていただきたい。もちろんこの三つ以外にもあるかもしれないが、これら三つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。
 1.に関しては、人が持つ、自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして自分達の体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に、なぜ人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかし多くの場合、それだけではないだろう。
2.については、ある意味ではこれが治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになることが多い。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭におさめたいという私たちの願望に由来するのであろうが、これは物事の因果関係を明らかにするということでもある。それを自分自身ではできないと感じる時、他者の視点を必要とするのだ。その事情を説明された他者が、「それはAが原因でBが起きたからだよ。」と単純に説明しただけで、その人は心に収めることが出来るかもしれない。それは自分自身ですでに説明されていたとしても、他者の口を通して語られることで初めて腑に落ちるということもあるのだ。その中にはたとえば「起きたことはたいしたことないから、心配することないよ」「単なる気のせいだよ。」という説明すら意味を持つかもしれない。
ここで例を一つ出したい。最近引退したフィギュアスケートのAさんが、テレビのドキュメンタリー番組で流されたシーンでコーチとやり取りをする。演技を前にしてコーチが何かAさんに言っている。それに彼女は一生懸命うなずく。よく聞くと「メダルを取ることなんていいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という内容の言葉が聞こえる。Aさんはそれを真剣に聞き、大きくうなずいてリンクの中央に向かって滑り出していく。
あのコーチの言葉は何であったのだろう? 「自分の演技をしなさい」とはどのような意味を持っているのか。おそらくコーチにもAさんにも明確な説明は出来ないのではないか。ただそれでも大切な効果を担っていた言葉なのである。それによりAさんは、「そうか!」と思えたのである。
私たちの生きている世界はカオスである。将来何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。その世界での出来事に、一つの理由や意味を見出すことで私たちは安心するのだ。それにより将来をある程度予知でき、危険を回避し、安全に生きることが出来るからである。
さて3.である。これも実に侮れないどころか、実は心理療法が継続される際の最大のモティベーションとなっているのではないかと考える。そしてこれはもちろん1.とも深く関係している。治療者が患者の話を聞いて理解することで、患者は治療者の存在を身近に感じ、その孤独感がある程度は癒されるのである。人間関係の中には、長年連れ添った夫婦や、成人後も生活を共にする親子関係などにおいて、身体的には互いに近い場所で生活をしていても、精神的には極めて希薄な関係性しか持てない場合がある。そればかりか、一緒にいることでもっと寂しくなる、という、いわば「在の不在」(日下、2017)としての他者であったりする。その中で治療者は常に患者の側に立って、「在の在」としての役割を発揮するのである。
松木 邦裕 (2011) 不在論: 根源的苦痛の精神分析. 創元社.
日下 紀子 (2017) 不在の臨床―心理療法における孤独とかなしみ. 創元社.