臨床家の自己愛問題
私が最近になって特に思うのは、自己開示の問題には臨床家の自己愛が深く関係しているということである。前出書(臨床場面での自己開示と倫理」)でも述べたことだが、私自身はむしろ「多くの臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」と考えているくらいだ。有名なフロイトの研究でも、彼自身は、晩年に治療した43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ(Lynn, et al,
1998)。分析家の「自己開示はしてはいけない」という主張は、自己開示をしたい分析家のいわば反動形成的なところがあるのではないかとさえ思う。そこには分析家自身が自分の考えに対して過剰に自信や思い入れを持つ傾向も関係しているであろう。
そこで本章のサブタイトルにつけた「自己開示ってナンボのものだろう?」という問題に立ち戻る。かなりくだけた表現だが、これは「臨床家は、自分の自己開示にいったいどれだけの価値があると思っているのだろう?一度よく考えてみてはどうか?」という提案のつもりである。治療者が自己開示を回避する姿勢は、その見かけ上の価値やインパクトを必要以上に釣り上げることになりはしないか?
そこで本章のサブタイトルにつけた「自己開示ってナンボのものだろう?」という問題に立ち戻る。かなりくだけた表現だが、これは「臨床家は、自分の自己開示にいったいどれだけの価値があると思っているのだろう?一度よく考えてみてはどうか?」という提案のつもりである。治療者が自己開示を回避する姿勢は、その見かけ上の価値やインパクトを必要以上に釣り上げることになりはしないか?
自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、この自己愛というもう一つの問題に到達する。自己開示を回避することは治療者にとって自分自身のプライドや権威を保つことを助けるという面がある。要するに「自己開示拒否」には治療者側にとって好都合な要素がたくさんあるわけだ。それがどうしても「それが最終的に患者の利益につながるのか」という議論に優先する傾向にありはしないだろうか。
ここで論点を整理しておこう。分析家の自己愛問題は「自己開示をする」という方向にも、「自己開示をしない」方向にも両方働くのだ。これは興味深い事実である。要するに自己愛的であるということは、「自分が披瀝したいことを語り、本当に恥ずかしいことや都合の悪いことについては語らない」ということである。かつてHeinz Kohut は聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることを好まなかったと言う。自分のことを話したがる治療者でも、クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することを請われるとそれを侵入的と感じ、ムッとするというのはよくあることだ。そこで私がしばしば治療者の卵たちに伝える以下のメッセージとなる。
「治療者は自分の体験を話すことが役に立つのであればいくらでも披露する用意を持ちつつ、しかし自分の余計な話を極力するべきでない」。
この私の立場は実は私のもう一つの考えである「ヒア・アンド・ナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒア・アンド・ナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、治療者がそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。繰り返しセッションに遅刻する患者に対して、治療者が「あなたが時間に遅れてくるのは、治療に対する抵抗ですね」と解釈を与えたとしよう。そのような介入は、治療者が本当に冷静な気分でないと逆効果だろう。さもないと患者は治療者から攻撃されたように感じるであろう。
ここで論点を整理しておこう。分析家の自己愛問題は「自己開示をする」という方向にも、「自己開示をしない」方向にも両方働くのだ。これは興味深い事実である。要するに自己愛的であるということは、「自分が披瀝したいことを語り、本当に恥ずかしいことや都合の悪いことについては語らない」ということである。かつてHeinz Kohut は聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることを好まなかったと言う。自分のことを話したがる治療者でも、クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することを請われるとそれを侵入的と感じ、ムッとするというのはよくあることだ。そこで私がしばしば治療者の卵たちに伝える以下のメッセージとなる。
「治療者は自分の体験を話すことが役に立つのであればいくらでも披露する用意を持ちつつ、しかし自分の余計な話を極力するべきでない」。
この私の立場は実は私のもう一つの考えである「ヒア・アンド・ナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒア・アンド・ナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、治療者がそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。繰り返しセッションに遅刻する患者に対して、治療者が「あなたが時間に遅れてくるのは、治療に対する抵抗ですね」と解釈を与えたとしよう。そのような介入は、治療者が本当に冷静な気分でないと逆効果だろう。さもないと患者は治療者から攻撃されたように感じるであろう。
患者が遅刻するという例なら治療者はさほど苛立たないかもしれない。しかし患者の行動を治療者が挑発的なものと感じ、苛立ちを覚えたなら、それだけ彼が適切な「解釈」を行うことへのハードルは高くなり、逆に攻撃や意趣返しとして用いられる可能性は高まる。それよりは治療者が自らの感情をことさら押し隠すことなく、よりgenuine な関わりを持つことがより治療的である可能性が高い。
臨床家が自分の自己愛をチェックする
ここで臨床家が深い自己愛に陥っているかどうかをチェックする方法を考えた。こんなことを患者から問われたことを想像するのである。
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」
もちろん突然これを実際にクライエントから尋ねられたら治療者は驚くだろうし、侵入されたように感じるだろう。「あなたのこの質問のその背後にあるものは何か?」と考えたくもなるし、そのような返し方をしてしまいかねない。だから想像上のクライエントから真剣に、あるいは恐る恐る尋ねられた場合を想定するのだ。自分が患者を援助する立場にある、というだけでなく無意識的に自分は患者より優れている、上の立場にいる、という気持ちを持ちやすい治療者なら、この状況を頭に描いただけでもその質問に反発を感じるだろう。「この患者は自分の問題を扱われることを回避して、私を同じようなレベルに引き摺り下ろそうとしているのではないか?」「この患者は明らかに治療に対する抵抗を示している。」 でも患者は目の前の治療者が自分とは異なる超人的な人間であり、自分のような人間的な悩みは持っていないというファンタジーと一生懸命戦っていて、ふとこのような疑問が出ただけかもしれないであろう。そう、この種の自己開示にどれだけ抵抗を示すかが、その治療者がいかに自己愛的なスタンスをもっているかの明確な指標となるのである。他方で「ああ、私自身も、昔自分の治療者にも同じようなことを感じたなあ」と自分のトレーニング時代の体験を思い出せる治療者はおそらく自己開示を本当の意味で臨床的に用いることが出来る立場に一歩近いのであろう。