2018年5月30日水曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 10



5章「匿名性の原則」を問い直す 


「匿名性の原則」。精神分析的な治療を行っている人たちにとってはなじみ深い言葉かもしれない。いや、精神分析に限ったことではない。「心理療法」や「カウンセリング」という名のもとに心理士が構造を決めて行うセッションにおいても、治療者が自分のことについての話を控えることは一つの常識であり、お作法となっているという印象を持つ。あたかも治療構造という考えのなかに、治療者の個人的な情報とそれ以外のものとの境界を守ることも含まれているという印象を持つ。「匿名性の原則」などと言う大仰な言葉を使わなくても、心理療法を行うものとして、専門家がわきまえておくべき常識、マナーという形で教え継がれているのだ。おそらく心理療法家の卵たちは、その理由については明確に考える機会を持つことなく、「~すべきもの」や「~してはならないもの」として教え込まれることの一つとしてこの原則を頭に入れていく。それが証拠に、臨床心理の大学院に入りたての、まだ面接経験のない院生に尋ねても、治療者として個人的なことについて語ることは、無条件で奨められないこと、控えるべきことという考えが入り込んでいることが多い。
私は心理療法家がとりあえずは自分を語らない、という姿勢にはおそらく害よりは益が多い気がする。というのもこの種のマナーが特に教えられないようなあらゆるサービス業(といっても心理療法をサービス業、と呼ぶつもりはないことはことわっておかなくてはならないが)で、サービスを提供する側が自分の問題を持ち込んでしまうことによる不利益が蔓延していると感じるからである。医学領域においても、治療者側が気さくでフレンドリーであることは望ましいのであろうが、治療者が自分のパーソナルな部分が時には患者側が望まない形で治療関係に侵入してしまう瞬間に、注意を払っていない場合が少なくないとの印象を抱く。
私は精神分析の「匿名性の原則」に対して批判的な立場から論考を発表したことがあるが(新しい精神分析、1,2)、それはこの原則が過剰に守られることの弊害についての考察であった。私が論じた「自己開示」の概念は、その意味では「匿名性の原則」の逆、対極にあるもの、という意味では決してなかったつもりである。「自己開示」は出来るだけすべし、という主張を、私は一度もしていないつもりである。「自己開示」は治療的な意味合いがある場合がある、というのがその骨子であるにすぎない。その意味では「匿名性の原則」は柔軟に、必要に応じて遵守すべし、という主張と同じである。しかしそれにもかかわらず、「自己開示」について論じると、「先生は『自己開示派』ですね」と色付けされてしまい、何でも自己開示をすればいい、という程度に扱われてしまいかねない。私はたとえば Hoffman が主張するような、「治療者はなるべく患者からは見えにくい存在であることで治療者としての力を出せることが多い」という主張には全く同感という気がする。なんでも自己開示、という立場とははるかな隔たりがある。
そこで本章では、この匿名性の原則と自己開示について、最近の考えも含めて書いてみたい。

自己開示ってナンボのものだろう?

私が自己開示について精神分析の専門誌に発表した最初の論文は1990年代のものであるが、その頃は日本の学会ではほとんど問題にされないテーマであった。しかしそれから時代が移り、最近では自己開示のテーマが臨床家の間で議論の対象になることが多くなってきた。しかしそれでもこれを正面から扱った本は皆無と言ってよい。実際インターネットで「自己開示」を検索してみれば、そのことが確かめられる。文献としては筆者らによる文献(岡野その他、2016)以外には全くと言っていいほど検索にかかるものはないのだ。

岡野 憲一郎, 吾妻壮, 富樫公一, 横井公一 (2016) 臨床場面での自己開示と倫理―関係精神分析の展開 岩崎学術出版社.


「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、分析家たちにとって一つの論争の種であり続けている。昨年京都大学に客員教授でいらしたある分析家は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれた。しかし私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン(私のことである)、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」 精神分析のB先生は私が非常に尊敬している方だが、彼も自己開示は無条件で戒める立場だ。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は精神分析の本流の、しかも私が敬愛している先生方からでさえ否定されることがあるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけもなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」という、私にとっては極めて妥当なことを言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示はしばしば自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスのデスクにはふつうは所持品が無造作に置かれ、患者はそれらを眼にすることも多いはずだ。治療者が発表した書籍や論文は、少なくとも一部は患者がアクセス可能であろうが、それらには自己開示が満載であるはずだ。治療者の服装にはその好みの傾向が反映されているであろうし、治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示しているはずである。そしてそれが現代的な精神分析の考え方でもある。
ここで一つ言えることは、伝統的な精神分析の本流にとっては、自己開示は奨められない、認められないであろうことは確かなことだということだ。これほど有名な先生方の見解なのだから間違いがない。しかしおそらく彼らはこともなげにこう言うはずだ。「精神分析的な治療でなければ、自己開示はあり得るでしょう。」
つまりは自己開示を認めるかどうかは、患者にとっての利益か否か、というよりは、それが精神分析的かどうか、という点にかかっているといえる。そして自己開示の真の価値があるしたら、それは「正統派」の精神分析を外れたところにということであろう。