2018年5月27日日曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 7

5.共同注視の延長としての解釈

ここからは、「心の暗点化を扱う」のが解釈であるという考えをもう少し膨らませて、共同注視としての分析的治療という考えについて述べたい。
解釈的な技法は分析家と患者が共同で患者の連想について扱う営みであり、心理的な意味での共同注視 joint attention, joint gaze と考えることが出来るのではないだろうか? ちなみにここで言う共同注視とは、一人の人が視線を向けた先のものに、もう一人も視線を向けることであるが、手っ取り早く言えば、二人が一緒に一つのものを見て注意を払っている状態のことである。
まず患者が自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語る。それはたとえるならば、分析家と患者の前に広がる架空のスクリーンに映し出されるようなものだ。患者がその語りによりスクリーン上に心を描き、治療者はそれを見る。たとえば「公園の桜が満開で圧倒されました」と患者が伝えれば、分析家もそれを想像して二人の前のスクリーンにその景色が浮かぶだろう。しかし二人は同じものを見ているつもりかもしれないが、もちろんそうとは限らない。「そもそもどこの公園の桜かわからないと想像のしようがない」という分析家もいるかもしれないし、そもそも桜の景色に圧倒された体験がない分析家には、そのような景色を想像すること自体が難しいかもしれない。結局患者の連想内容から映し出される像は、分析家にはぼやけていたり虫食い状だったり、歪んだでいたりモザイク加工を施されたものとして見える可能性がある。また患者の側の説明不足、あるいは分析家自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化によるものである可能性もあろう。分析家は患者にその景色についてさらに注意深く質問や明確化を重ねていくことで、少しずつ両者の見ているものが重なっていくことを実感するだろう。分析家がそこに見えているものを描き出し、語ることで、分析家はそれが自分の描き出しているものと少なくとも部分的には重なっていると認識し、そのことで患者は共感され、わかってもらったという気持ちを抱くことだろう。それはおそらく分析家と患者の関係の中で極めて基礎的な部分を形成するのだ。
ちなみに共同注視という概念は、精神分析の分野では言うまでもなく、北山修の共視論により導入されているが(北山編、2005)joint attention そのものを分析プロセスになぞらえて論じる文献は海外ではあまり多くないという印象を持つ。(PePWEBで調べても、Joint attention は主として乳幼児研究に関するものであり、joint gaze に関しては一本の論文しか見つけられない。)しかしフロイトが患者のが自由連想について、車窓から広がる景色を描写するという行為になぞらえたことからもわかるとおり、そもそも自由連想という概念には、患者が自分の心に浮かんでくることを眺めているというニュアンスがある。共同注視は、その語りを聞いている分析家も車窓を一緒に眺めているというイメージを持つことはむしろ自然な発想とも言えそうだ。
北山修編 (2005) 共視論 ― 母子像の心理学.講談社. 
また共同注視という発想は、関係精神分析的な立場の臨床家にとっては距離があるといわれるかもしれない。そこには治療場面で起きていることを客観視し、対象化しようという意図が感じられる一方では、両者の流動的な交流というイメージとは異なるという印象を与える可能性もある。しかし共同注視する対象としては、今交わされている言葉の内容も、そこで生じている感情の交流そのものも含まれるのであり、非常に動的で関係論的だと私は考えている。
 ちなみに同様の発想に関して、私は平成26年の精神分析学会において、「共同の現実」という概念として提案したことがある。分析家と患者が構成するのは共同の現実であり、それは両者が一緒に作り上げたと一瞬錯覚する体験であり、しかしそれを検討していくうちに、両者の間にいやおうなしに生まれる差異が見出され、それを含みこむことで、つねに上書き overwrite、更新 revise されていく、という趣旨である。
岡野憲一郎 (2014)精神分析学会 シンポジウム 演題
共同注視というパラダイムにおいても、分析家と患者が同じものを注視しているという感覚を一時的に持つとしても、やがてそれぞれが見ているものの違いに気が付き、その内容はそれを含みこんで更新されていくことになるだろう。それは同じものを共同注視しているつもりになっていた患者と分析家が、見えているものを詳しく伝えていくうちに現れる齟齬なのである。いわば同床異夢であったことに両者が気が付くことである。また分析家がそこに彼自身の視点を注ぎ込むことで、藤山(2007)の巧みな表現を借りるならば、治療者がそこに「ヒュッと置くこと」により明らかになることかもしれない。
藤山直樹 (2008) 集中講義・精神分析(上).岩崎学術出版社
たとえば先ほどの事例では、「Aさんの母親は、Aさんが常に家にいて自分をサポートしてくれることに安心感を覚えている。」ということまでは、治療者とAさんの間で共同注視できることになる。そこでAさんは治療者から理解されていると感じた。しかしそこから治療者が「Aさんが自分の人生のことを考えていない、あるいはそれよりも母親の人生を当然のように優先させていることに少し違和感を覚えますよ」(「すなわちその点についてAさんは盲点化を起こしているのではないか?」)と伝えることによって、治療者とAさんとの間で見えているものの食い違いが明らかになり、そのような治療者の見方をAさんの側からは共同注視できないという事実が浮かび上がってくるのだ。しかしやがてAさんと治療者との会話を通して、やがて治療者の側には「Aさんのそのような気持ちもわからないではない」という形で、Aさんの側からも「そのような治療者の見方もあり得るかもしれない」という形で歩み寄りが生じることで、二人は再び上書きされた形での共同注視および立体視が出来るようになるのである。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という作業に必ずしも限定せずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考える。北山は その共視論(前出)において、母子関係が第3項としての対象を共同で眺めることを通じて心が生成される様を描いている。分析家と患者が共同で何かを注視するという構図はまさに精神分析を母子関係との関係でとらえた際に役に立つであろう。
以上私の本章における主張を最後にまとめるならば、解釈とは患者の心の視野において盲点化されていることへの働きかけであり、それは精神分析という営みを一種の精神的な意味での共同注視の延長である、という考え方を生むということである。そこでの分析家の役目は、無意識内容の解釈というよりは、その共同注視の内容に対するコメント、という程度のものといえるかもしれない。

ところで本章をここまでお読みになった方は、前章(解釈中心主義を問い直す)の内容との類似性にお気づきになっているだろう。ここでいう共同注視、およびそこでの患者の暗点化された部分にコメントを行う治療者の活動は、前章で述べたオブザベーション observation に非常に近いことにお気づきのことだろう。
最後に共同注視における非解釈的な関わりという考えを追加して本章を終わりたい。景色や事物を母子が共同注視しつつその関係性を深めるということは、おそらく分析家と患者の関係でも言えるであろう。二人が自分たちの心から離れた扱いやすい素材、例えば天気のことでも診察にかかっている絵のことでも、窓から見える景色でも、外で鳴る雷の音でも、世間をにぎわしている出来事でも、一見分析とは何ら関係のない素材についてもそれを共同注視して言葉を交わすという体験は、おそらく両者の関係を深める一つの重要な要素となっている可能性がある。私は分析においてもそのような余裕があっていいと思い、それが解釈の生じる背景 background を形成する可能性があるのではないかと思う。そしてそのような背景を持つことで、患者の心模様を共同注視するという作業にもより深みが生まれるものと考える。
最後に私の好きなホフマンの言葉を挙げておこう。
解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。