共同注視というパラダイムにおいても、分析家と患者が同じものを注視しているという感覚を一時的に持つとしても、やがてそれぞれが見ているものの違いに気が付き、その内容はそれを含みこんで更新されていくことになるだろう。それは同じものを共同注視しているつもりになっていた患者と分析家が、見えているものを詳しく伝えていくうちに現れる齟齬なのである。いわば同床異夢であったことに両者が気が付くことである。また分析家がそこに彼自身の視点を注ぎ込むことで、藤山(2007)の巧みな表現を借りるならば、治療者がそこに「ヒュッと置くこと」により明らかになることかもしれない。(藤山直樹 集中講義 精神分析(上)岩崎学術出版社)
たとえば先ほどの事例では、「Aさんの母親は、Aさんが常に家にいて自分をサポートしてくれることに安心感を覚えている。」ということまでは、治療者とAさんの間で共同注視できることになる。そこでAさんは治療者から理解されていると感じた。しかしそこから治療者が「Aさんが自分の人生のことを考えていない、あるいはそれよりも母親の人生を当然のように優先させていることに違和感を覚える」(「すなわちその点についてAさんは
scotomization を起こしているのではないか?」)と伝えることによって、治療者とAさんとの間で見えているものの食い違いが明らかになり、そのような治療者の見方をAさんの側からは共同注視できないという事実が浮かび上がってくるのだ。しかしやがてAさんと治療者との会話を通して、やがて治療者の側には「Aさんのそのような気持ちもわからないではない」という形で、Aさんの側からも「そのような治療者の見方もあり得るかもしれない」という形で歩み寄りが生じることで、二人は再び上書きされた形での共同注視および立体視が出来るようになるのである。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という作業に必ずしも限定せずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考える。北山は その共同注視論において、母子関係が第3項としての対象を共同で眺めることを通じて心が生成される様を描いている。(共視論 ― 母子像の心理学』北山修編(講談社、2005年) 分析家と患者が共同で何かを注視するという構図はまさに精神分析を母子関係との関係でとらえた際に役に立つであろう。
以上私の発表を最後にまとめるならば、解釈とは患者の心の視野において盲点化されていることへの働きかけであり、それは精神分析という営みを一種の精神的な意味での共同注視の延長である、という考え方を生むということである。そこでの分析家の役目は、無意識内容の解釈というよりは、その共同注視の内容に対するコメント、という程度のものといえるかもしれない。ちなみにギャバードはその力動的精神療法についてのテクスト(ギャバード G.O.著、 狩野力八郎 池田暁史訳 精神力動的精神療法 岩崎学術出版社、2012年)で、表出的―指示的な介入のスペクトラムを示し、そこで解釈についで
observation という介入を挙げています。これは観察と訳されるが、英語の口語では「見えたことについてコメントする」、「指摘する」、という意味を持つ。共同注視をしていて気がついたことをコメントする、程度に考えるのが、現代的な解釈と考えてもよいかもしれない。
そこで最後に共同注視における非解釈的な関わりという考えを追加して本章を終わりたい。景色や事物を母子が共同注視しつつその関係性を深めるということは、おそらく分析家と患者の関係でも言えるであろう。二人が自分たちの心から離れた扱いやすい素材、例えば天気のことでも診察にかかっている絵のことでも、窓から見える景色でも、外で鳴る雷の音でも、世間をにぎわしている出来事でも、一見分析とは何ら関係のない素材についてもそれを共同注視して言葉を交わすという体験は、おそらく両者の関係を深める一つの重要な要素となっている可能性がある。私は分析においてもそのような余裕があっていいと思い、それが解釈の生じる背景
background を形成する可能性があるのではないかと思う。そしてそのような背景を持つことで、患者の心模様を共同注視するという作業にもより深みが生まれるものと考える。
最後に私の好きなホフマンの言葉を挙げておこう。
解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。Interpretations had to stew with other kinds of
interactions or the patient would not chew on them at all, much less swallow or
digest them. (Ritual and Spontaneity P205~206)