第4章 転移解釈は特別なのか?
解釈について問い続けている本書の第4章目に、このテーマを選ぶ。転移解釈の意味を問い直すということだ。本書をお読みになっている方ならお分かりの通り、私はこれを「解釈を保持する」という立場に立って論じている。解釈が精神分析にとっての基本であるとしたら、転移解釈は本家本元と言える。様々な解釈の中で、ひときわ高くそびえるのが、この転移解釈である。それについて批判的な検討をするのは、非常に挑戦的なのだが、それでもあえて行わなくてはならない。
まず述べたいのは、私自身は転移の問題について、かねてからかなり深い思い入れを持っているということである。少しうがった表現をするならば、私は「転移という問題に対する強い転移感情を持っている」と言えるだろう。そしてフロイトが精神分析の理論を構築する過程で転移の概念を論じたということは、それ以外の心の理論に比べて明らかに一歩抜きん出た位置づけを精神分析理論に与えたのだと考える。
ただし私の立場は転移の解釈に特権的な治療的価値を与える姿勢とはやや異なる。私自身は米国でトレーニングを受けたという事もあり、はじめは自我心理学に大きな影響を受けていたが、後になっていわゆる「関係論 relational theory」の枠組みから転移の問題を捉えるようになった。その関係論においては、転移についてその解釈の治療的な意義を強調するのではなく、転移が治療場面における関係性において持つ意味を重視する立場が取られるが、それは私自身の考え方と一致する。そしてそれは転移が臨床的にあまり意味を成さないから無視するという立場とは異なり、むしろいかに転移がパワフルなものなのか、いかにそれが治療的に用いられ、いかなるときにそれが破壊的なパワーを持ってしまうのかについて判断する治療者の柔軟性が要求されるということである。
あるエピソード
転移の持つパワーに関しては、私には一つの原体験というべきものがある。それはもう20年近く前、私が精神分析のトレーニングを開始したごく初期に、私自身の教育分析で起きたことである。ある日私は自分の分析家に、こんなことを話した。「先生は私と似ていると思います。先生はいつも何かいじっていて落ち着かないですね。この間は私たちの分析協会での授業をしながら、発泡スチロールのコップにペンでいたずら書きをしているのを見ましたよ。私も退屈になるといつも似たようなことをするんです。」これは私の彼に向けた転移感情の表現といえただろう。すると私の分析家は黙ってしまったのだ。それまで私の話にテンポよく相槌を打っていた分析家が急に無口になってしまったのであるから、私は非常にわかりやすいメッセージを受け取った気持ちになった。「私の話はしないでくれ・・・・・。」もちろんそのような言葉は彼の口からは出てきませんでした。しかしそれ以降も、私は分析家との間で同様のことを何度か体験した。私が彼について何かを言うと、彼はあまり相槌を打たなくなったり黙ってしまったりするのである。
もちろん普段の日常会話であるならば、話し相手の癖や振る舞いについて話すことは失礼なことだ。しかし精神分析に対する理想化が強かった私は、老練な私の分析家がそんな世俗的な反応をするはずはないと思い込んでいたので、この突然の変化をどう理解したらいいかわからなかった。それから5年にわたる分析の中で、私と分析家との間では様々なことが生じたが、その時の私には理不尽に感じられた彼の反応についての話し合いもかなり重要な部分を占めていた。