2016年4月27日水曜日

嘘 2 ③

抑圧という名の魔法は果たして可能なのか?

さて、この議員の心にもう少し細工が起こり、賄賂を受け取ったことを「忘れて」しまうということが起きるだろうか?この場合は「嘘」や「弱い嘘」ではない。本当に忘れてしまい、あるいは偽りの記憶で置き換えられるのである。そうなると「賄賂は受け取っていません」と主張する議員に基本的には良心の呵責はないことになる。
ただ人の心はそうやすやすと、この魔法を使わせてはくれない。心に置くことが苦痛だからといって、それを記憶から消去してくれるような装置は私たちの中には通常は備わっていないのである。
ここで「抑圧」の話をしなくてはならない。ある考えや衝動などをなぜ心から追いやることができるのか? できる、とフロイトは考えた。フロイトは思い浮かべることが心に痛みを生じる場合、その内容は意識から押しのけられ、無意識にある、と考えたのである。そしてその心の痛みとしてフロイトは幾つかを考えた。それらは「ウンザリ感、恥、罪悪感、不安」がある。要するにさまざまな不快である。
具体例に則して考えよう。ここはある女性が職場でフロイトにならってセクハラを受けた、という例を選びたい。なぜならフロイトがこの抑圧の原因として考えたことは、主として性的な内容だったからだ。その女性はセクハラの記憶を思い出すたびに「ウンザリ感、恥、罪悪感」を体験する。つまりセクハラをしてきた上司のことを考えるとウンザリし、またそんなことをされて恥だと思う。また自分にもある程度の原因があったのかと思うと、罪の意識も感じるのだ。この恥とか罪の感情は、性的な内容を含んだものに特有かも知れない。それに性的な出来事はどこか隠微で、隠されなくてはならないという気持ちを私たちに生む。それで心の外に追いやることができる、とフロイトは考えた。
精神分析の理論は、この「思い出さないようにする」心の働きとして、様々なものを考えた。否認 denial、否定 negation、排除 foreclosure、抑制 suppression、解離 dissociation ・・・・・ とたくさん出てくるわけだが、結局これらは「抑圧」という名前でひとくくりにされると言っていい。少なくともフロイトはそう考えた。
ただし抑圧により忘れられた記憶は、通常の忘却とは違う、とフロイトは考えた。なぜならその本体は消えてなくなったわけではなく、無意識という心の別の部分に移ったと考えたのである。無意識とは通常私たちが思い浮かべることのできるもの以外の膨大な内容を蓄えた心の部分であり、通常はそれを意識化する、つまり思い浮かべる事が出来ない。
このフロイトの図式をもう少しわかりやすく表現してみる。意識とはスポットライトを浴びた舞台のようなものだ。そこで起きていることが意識されることだ。しかし舞台のそでや舞台裏では別のことが進行している。しかしそこにはスポットライトがあっていず、暗いままなので、観客にはそこでの動きが見えない。しかし、とフロイトは考えた。舞台裏で起きていることはさまざまな形で、「象徴的に」表舞台に影響を与えるのである。

さてここまで私は「思い出したくないものは、思い出さなくなる」ことを当たり前のことのように書いているが、この問題は実はすごくややこしい。「いやなことを考えない」ということが果たして可能なのかという問題は、脳科学的にも結論を出すのが難しいらしい。なぜならいやなことは「気になること」でもあり、心はそれを放っておかないからだ。人があることを考え続ける、やり続けるというのはよりシンプルである。心はそこに戻っていけばいいのだから。ところが不快な場合は、それがいったん心に入り込みそうになると、それを押しやるという努力を必要とする。その方法はどうだろうか?それを否認するような言葉を発したり、違う証拠となるような理屈を考え続けたり、その不快な事柄を思い出させた人に向かって怒ったりするだろうか。それが本当に可能なのか?