2016年4月23日土曜日

フロー体験 ⑧

結論:フロー体験と報酬系
 最後にまとめておこう。チク先生が一人で打ち立てたフロー体験という概念。彼はこれを人間存在にとって特別な体験、ある種の至高の体験として取り上げ、そこで起きていることの心理的な側面を描いた。チク先生の頭には、それが一つの純化された体験という考えがあったと思う。確かにそれはある一定の性質を持った特別な体験という風に考えることもできる。
 報酬系から見た場合には、フロー体験は確かに報酬系と関与している。基本的にフロー体験は心地よい。しかしかといってそれは強烈な快楽ではなく、したがってそれに嗜癖が生まれるほどではない。コカインで言ったら、コカの葉を噛んで、少しいい気持になっている程度かも知れない。決して純度100パーセントを鼻から啜ったヤクチュウの体験ではない。
 フロー体験が報酬系の軽度の満足、という体験だけで終わらないとしたら、その特殊性であり、高揚感であり、満足感である。非日常性という点からは、新奇さが際立っていると考えてもいい。自分がピアノを弾いていてフローに入ると、自分の体から離れ、自分を見下ろしている。その不思議さはその最中も実感されるし、それに充足感が伴う。再びあの状態に戻ってみたいと思うだろう。それがある種のスキルの維持や努力、訓練といったものと結びついているし、それはもちろん独自の努力や苦痛をも伴う。そう、フローはある意味では快感と労作の微妙なバランス上にあるのだ。臨界状況、といった感じか。
 快感と苦痛のバランスということであれば、読者は嗜癖に伴う同様の状態を思い出すかもしれない。パチンコ中毒の人は、打っていても苦痛だという。ただそれがどこかで心地よいからこそ通い続け、大金を注ぎ込むのだろう。これもある意味では快と苦痛のバランスなのだ。でも体験の質としてはフローとパチンコでは雲泥の差だ。前者は人間が到達する、ある高いレベルでの体験。後者は退廃そのものだ。前者はある種の自己実現であり、その追及にはあくなき鍛錬や自分との挑戦が必要だが、後者はそれに支配され、自己実現とは逆の体験であり、努力や鍛錬の放棄である。前者は求められ、後者は流される。前者は生きがいを覚えさせ、後者はおそらく精神的な死に最も近く、緩徐で受身的な自殺行為と一緒だ。
 両者の決め手の一つは自律性であり、自己コントロールかもしれない。フローにおいては、大脳生理学的な検査が示す通り、前頭葉の活発な関与がある。フローは流される体験ではなく、泳ぐ体験である。たとえそこに自動感が伴うとしても、それは同時に自らの行動を完全に支配する行為でもあるからだ。フローとしてタスクとスキルが均衡している状態であることを思い出そう。それとは逆に、嗜癖においては、自己は嗜癖薬物や嗜癖行為の持つ特性に完全に支配され、ある意味では身動きが取れなくなっている。自分の報酬系に完全に支配され、なすすべもなく押し流される嗜癖の体験。この両者はある意味では対極的にあると考えてもいいかもしれないのだ。