2014年4月29日火曜日

私の夢理論(1)


ここからは語り口調になる。
私は臨床家である以上、当然患者さんの夢にも興味を持つが、もちろん毎晩目の前で繰り広げられる私自身の過激な夢が一体どういう仕組みで起きてくるのかについてもきわめて興味を持っている。しかしそれが理解できたという感覚はほとんどない。毎晩意味が分からないものを見せられてよく平気なものだ、何らかの形で夢に意味づけを行おうという努力をしないのか、と言われそうだが、実は私たち人間は不可解なもの、予想不可能なものに始終遭遇して慣れてしまっているのだ。
ここから少し夢の話とはずれて、予測不能性の話になるが、私にとっては夢の意味を考えるうえで重要である。たとえば私たちはひと月後にピクニックを計画するとしよう。実際にはその日がポカポカ陽気になるか、台風に見舞われるかはわからない。しかしとりあえずは計画し、当日の天気をそのまま受け入れて生きていく。もちろん雨が降ったらピクニックは中止になるかもしれないが。天気だけでなく、私たちの健康状態、株価の変動、うちの奥さんの機嫌など、私たちは分からないことの中で生きているのである。
私が最近つくづく思うのは、人間が持っている曖昧さや予測不能さに対する耐性である。私たちは予定していたピクニックが雨で台無しになったからと言って自殺者を出すことなく、この予測不可能な世界を生き抜いていく。それは人間が住んでいるこの自然が巨大なカオス(正確に言えば複雑系、ということであるが)で本来予測不可能であるという性質を有しているからに他ならないであろう。私たちの体験の大部分は予測不可能なのである。それでも私たちは動じない。それは予測不能さに対する耐性を持っているからだというのが私の考えだ。なんか同じことをぐるぐる言っているな。
ところで私たちのもう一つの性質がある。それは意味を見出さずにはいられないという性質である。これはかなり堅固(ケンゴ)な形で私たちの心に備わっている。患者さんが夢を報告した時のことを考えよう。私たちは早速ノートにペンを走らせ、その意味を知ろうとする。この差は一体なにかよくわからない。ただ言えることは、複雑系にいる私たちだからこそ、どこかに目をつけてそこに意味を見出すという行動に出るのかもしれない。
そう、夢に対する私たちの扱い方は、私たちが毎日見る夢の大部分に、少なくとも意味を見出そうという努力については無関心であると同時に、臨床で報告される夢の意味を見出すことには性急であるというこの対比なのかもしれない。そしてここに私たちの思考の本質的な性質があると思えるのだ。