2018年3月24日土曜日

精神分析新時代 推敲 41

7章 攻撃性を問い直す

初出:精神医学からみた暴力 児童心理 69(11), 909-921, 2015-08 金子書房
                   
暴力や攻撃性は本能なのか?
攻撃性の発露としての暴力。これが私たちの社会から消えてなくなる日が訪れることは夢でしかないようだ。地球上のあちらこちらで紛争や殺戮が生じている。東西の冷戦が終焉したかと思えば、局地的な紛争はむしろ多くなっている。テロ行為も頻繁だ。米国では発砲事件が、銃のない日本でも殺傷事件が頻繁にメディアをにぎわしている。
 しかし人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少しつつある。人類の歴史からも、古代人の遺骨を見る限り、男性の多くが他殺により世を去っていたことがうかがえるという(1)。国家の統治機構が成立し、民主的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。江戸時代の「斬り捨て御免」(武士が無礼を働いた平民を斬る特権)を考えてみよう。また非民主的な政治体制では国家による人民の殺害こそより深刻だろう。現代社会においてすら、それがまかり通っている国は枚挙にいとまはない。加害行為の頻度の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの配備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?
私が以上のように述べれば、「人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である」と主張していると思われかねない。しかし私自身は、暴力や攻撃性は人間の本能と考える必然性はないという立場をとる。暴力行為が一部の人間に心地よさや高揚感をもたらし、そのために繰り返されるという事実は認めざるを得ない。ところがそれは暴力が生まれつき人間に備わったものであることを必ずしも意味しない。一部の人の脳の報酬系は、暴力行為により興奮するという性質を有するために、それらの行動を断ち切ることが難しいという不幸な事実が示されているにすぎないのだ。
暴力には様々な形態があるが、このうち一部の暴力は、その根拠が明確であり、納得もしやすい。例えば他者からの攻撃を受けた際に発揮される身体的な暴力などだ。これは防衛本能の一部として理解されるべきであろうし、そこには正当性も見出せる。しかし暴力は時には正当な防衛を超えて過剰に発揮されたり、触発されることなく暴発して、罪のない人々を犠牲にしたりする。私たちが心を痛めるのは、この過剰な、あるいは見境のない暴力行為なのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」「原因は何なのか?」「再発を防ぐ方法はあるのだろうか?」などの疑問に明確な答えが得られず、私たちは途方に暮れる。そして同時に心の中で次のような疑問を抱くかもしれない。「もしかして私の中にもこのような怒りや暴力が潜んでいて、いつかは爆発するのだろうか ・・・・・」。この恐れもまた決して侮れないのだ。
本章は精神分析においてしばしば問題となる暴力や攻撃性の問題に一つの理解の方向性を示すことを目的にしている。私は精神科医であるから、その視点や方向性も「精神医学的」となる。暴力への理解はいまだに錯綜し、未整理のままに多くの理論が提唱されているとの印象を受ける。それは暴力をいかに封じ込めるか、あるいはそのようなことが可能なのか、という議論についてもいえる。そこで私の立場を最初に示すならば、それは暴力を一次的な本能として捉えず、もう少し広い視野から考えるというものである。この点について、以下にまず示したい。

すべての源泉としての「活動性」と「動き」

暴力や攻撃性が本能か否かは、心の深層に分け入ることを専門とする精神分析の世界でさえ見解が大きく分かれている。フロイトが破壊性や攻撃性をその本能論の中で説明したことは知られるが、必ずしもそれを支持しない分析家も多い。攻撃性や暴力を本能と見なす根拠はないというのが私の立場であることはすでに述べたが、実は心の世界では「存在しない」ということの証明は難しい。私は数々の凶悪犯罪を犯した人々がこの世に存在することを十分に知っているが、それらの人たちの中には、生まれつき血に飢えたかのような特異な行動を、人生の早期から示す人も多い。それらの人たちにとっては、攻撃性は本能的なものとして備わっている可能性も否定できないと思っている。そこで私が本章で述べたいのは、幼児期に見られる攻撃性や暴力の大部分は、本能以外で説明されてしまうということになる。そしてそれに関しては私の立場は精神分析家 D.W. Winnicott のそれに近い。ウィニコットは攻撃性を本能としてはとらえず、その由来は、子宮の中で始まる活動性 activity と動き motility であるという(2)。
Winnicott は Melanie Klein の同時代人ということもあり、また一時はクライン派の一員と目されていたこともあり、攻撃性や死の本能という問題については人一倍関心を寄せていた。しかし最終的にはそれをKlein のように人間に本来備わった本能と考えることは拒否した。その代りに彼が重視したのは、攻撃性とは注意深く区別された概念である破壊性 destructiveness ということである。これは赤ん坊が手足を動かし、時には結果的にものを破壊するという形をとるものの、それは乳児が対象を全体対象としてとらえる前の現象としてWinnicott は捉えた。彼はこれを前慈悲 pre-mercy とし、それを母親などの対象が攻撃としてとらえることなく、怒りや報復などを向けないことで(「生き残る」ことで)、子供はその対象を外界に存在する自分とは独立した良い対象として認識していくと論じた。このロジックは非常に美しく、また現実の乳児の心の在り方とも対応していると私は考える。
乳児が体を動かし、声を上げることで、それが周囲を変える。例えば手にあたった物が倒れ、また声を聞きつけた母親がとんでくる。ウィニコットはそれが真の自己の始まりであるという。これはあくまでも外界からの侵襲による子供の側の反応としての活動ではないことに注目するべきであろう。自分が動き、世界にある種の「効果」を与えることが、自分が自分であるという感覚、すなわち真の自己の感覚を生むのである。この「効果」に伴う充実感は、例えばRobert White (の言うエフェスタンス(動機づけ)の議論につながる。彼は生体は自己の活動により環境に「効果」を生み出すことで、そこに効能感や能動感を味わうと考えたのである。

以前プレイセラピーをしていた時のことである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出してみた。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は隣で悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したように、手を延ばして私の積み木を崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み始める。子供が再びそれを崩し、私は悲鳴を上げる。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。

この事例が[省略]にならないのは、私自身(と息子)の例だからだ。)

私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?彼は私を攻撃したかったのだろうか? そうではなかったと断定も出来ないであろうだろう。しかし積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れることそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私に期待し、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木に少しだけ手を触れることで大きな音を立てて世界に変化が生じる。それがごく単純に楽しかったのであろう。これは彼にとっての自らの能動性の確立の役に立ったのであろうが、そこでは彼の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、それに遅れて生じ始めるシナプスの剪定 pruning とを促進したに違いない。もしこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに本能が密接に結びついているとしたら、自分がある行為におよび世界にある種の「効果」が生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。Winnicott がその活動性と動きの概念を提示した時、まさにそれを論じていたのである。

2018年3月23日金曜日

解離の本 12


●×さん

(省略)

この例にみられるように、母親の希望を叶えることで母親の愛情や関心を繋ぎ止めることを余儀なくされる子供は、同時にきわめて孤独な存在ともなります。この様に孤独で気持ちを伝える相手のいない生活は、心の中に別の存在が生まれるきっかけともなるのです。子供が孤独を癒すときに、自然と心の中に話し相手を作り上げることはよくあります。しかしそこに解離傾向の強さが加わると、それらの話し相手は実際の個別の人格となっていくのです。

  
2-4.子どもの自我境界の曖昧さ

解離性障害の発症の背景として、患者さんがもつ自我境界の脆弱さがあります。自我境界とは分かりやすく言えば、自分の感情や考えと、他人のそれらを区別する力や機能を意味します。自我境界は、それが普通の養育を受けて健全に育つ場合には、自分でそれを意識することなく、自然に備わるのですが、その養育の中でもきわめて大切なのが、親と子供の間の情緒(感情)のやり取り、交流です。
子どもの情緒発達においては、乳幼時期からの未分化な情緒の表出をその都度親が受け止め、それに相応しい態度と言葉による返しを通した交流が欠かせません。親の反応が子どもの体験に沿ったものであれば、子どもは自らの情緒の意味を理解し、それらを表現する喜びと安心を得ることで心のまとまりを形成していきます。ところが解離を持つ患者さんの親子関係には、具体的なトラウマが体験される以前から、情緒交流の障害が潜在していることが多いものです。患者さんが表現する情緒と親かが返ってくる情緒に行き違いが生じたり、ある情緒の表出についてはことさら無視されたり、親の怒りを誘発するなどの事情で、情緒面を中心とした心理面の発達が充分でないことが少なくありません。
情緒を自分のものとして受け止め理解する機能が弱ければ、目の前の相手が強い情動を向けてきた時に圧倒され、自身の感情を見失いやすくなります。それが頻回に起きれば自他の感情の差異を認識できなくなり、相手の感情を自分自身のそれと思い込むようになるのです。
このような自我境界の脆弱さゆえに、患者さんはそもそもトラウマ的事態による心理破綻を起こしやすい状態にあったと考えられます。親子の情緒的交流に起因する心理的基盤の脆弱さの上にトラウマを引き起こすような事態が重なることで、解離症状が発生するのではないかと推測されます。

2018年3月22日木曜日

精神分析新時代 推敲 40

自己心理学的な無意識の治療への応用

 すでに述べたように、Kohut がその重要性を強調した内省や共感は、その定義からも、古典的な精神分析理論における無意識の内容に向けられたものとは言えなかった。そして自己心理学的な治療が目指すものが、そもそも古典的な精神分析とは大きく異なったものであった。古典的な精神分析においては、無意識的なファンタジーや願望等の、解釈による理解が重視された。その考え自体がかなり主知主義的で、人は自分自身についての知的な理解によりその人格を変革できるという考えに立ったものであった。それに限界を感じたKohut は患者への共感を重んじ、治療者と患者の間に展開される自己対象転移に注目し、治療者のミラーリングや理想化された両親像としての役割を重視することを提唱したのだ。そのようなかかわりは、当然ながら患者との非言語的な二者関係の構築を重視することになる。そしてそれは患者の自己を、その背景となる無意識とともに支えることを意味するのだ。
 この事情を思い切った単純化を用いて表現するなら、フロイトの精神分析は無意識への(主として)左脳を介してのアプローチであったのに対して、Kohut の精神分析は無意識への(主として)右脳を介するアプローチであったということができよう。そもそも無意識自体が非言語的な部分を含む以上、左脳のみを介するアプローチ自体は初めからおのずと限界を含むことになる。従来の精神分析に関するこのような問題点が指摘され、現代の精神分析の流れは左脳的な関わりから右脳的なかかわりに移っているということが出来る。それは発達論的な理解にもとづいたアプローチや関係論的なアプローチである。それらの流れに学問的な根拠を提供しているのが、自らもKohut 派を自認するショアなのである。
Kohut 以降の自己心理学、特に Schore の貢献が示したのは、Kohut が描いた自己対象関係の平衡状態は、結局は幼少時に成立する脳の神経ネットワークそのものでもあるということだ。彼はそれを無意識と理解してもいいのではないかという主張を行う。それに従うならば、Kohut が強調した共感と自己対象転移を介した二者関係性、そしてそれが幼児期の自己対象の成立により形成されるという理解そのものが、無意識についての考え方を大幅に変えたということである。それは意識的な活動のバックグラウンドとして動いている組織、構造と言えるのである。Kohut の自己とは、右脳=無意識を背後に備えたものということになり、自己の病理とは、まさにその意味での無意識に発達過程で深刻な障害を抱えていることを意味する。
こうして自己心理学的なアプローチは、無意識的なファンタジーや願望を明らかにするという方向には働かず、しかし自己対象関係を扱うことで、結果的に右脳的な無意識を扱うという風にいえるだろう。それは患者を言葉の上での解釈ではなく、より深いレベルで、無意識レベルも含めて抱えるという作業を意味するのである。

2018年3月21日水曜日

精神分析新時代 推敲 39


ここで自己対象の調節の機能に特に注目したい。Kohut 自身も自己対象関係を、それが内的な恒常性の安定性 internal homeostatic equilibrium を与え、自己の維持に必要なものだと述べた。ただし彼は子供が自己対象との関係で発達する上での正確なタイムテーブルは描いていなかった。Schore はそれを Kohutに代わって試みているわけだが、そこで彼が強調するのは、自己対象は、心理的のみならず生理的にも乳幼児の成長に貢献しているということである。つまりそれは欲動のコントロール、統合、適応能力の提供であり、成長とはそれを子供が自分自身で引き受けていく過程なのである。そしてショアが提言するのは「自己の心理学」というよりはむしろ、「自己の心理生物 psychobiology of self」であるという。ただしここで彼が同時に強調するのは、身体と精神を切り分けることの危険性である。そうすることでいわゆる心身二元論という「デカルトの過ち」を犯すことになると彼は主張する。
 さらに発達理論との関連で重要なのがミラーリング mirroring の概念であるとショアはいう。発達理論によれば、生後二ヶ月の母子が対面することによる感情の調節、特に感情の同期化は乳児の認知的、社会的な発達に重要であるという。そしてこれがKohutのミラーリングの概念に他ならない。そしてこれをTrevarthen 1974) は第一次間主観性 primary intersubjectivity と呼んだのであった。
 このようにKohutが概念化した母子の自己対象関係と、その破綻による自己の障害は、発達理論ときわめて密接に照合可能であることがわかる。後者においては母子との関係における情動の調節の失敗としてのトラウマやネグレクトが、さまざまな発達上の問題を引き起こすことがわかってきている。その意味では Kohut はトラウマ理論の重要性を予見していたと言えるだろう。
無意識=右脳という考え方
Schore のもう一つの重要な主張は、無意識の生物学的な基盤を右脳とみなすことが出来るというものだ。ここで少し脳の構造について振り返ってみる。最近になって脳科学の進歩により左脳と右脳の情報処理の機能がかなり分化していることが知られている。言語野は90%以上の人において左半球にあり、左半球が損傷されると言語やほか多くの精神機能の異常をきたす。そのためにかつては精神の主たる機能が左半球にあると考えられ、左半球を優位半球、右半球を劣位半球と呼ぶことが多かった。しかし最近の研究で、右半球にもさまざまな重要な機能が備わっていることがわかってきている。
 現在の脳科学の理解では、左脳は言語、論理的、分析的、系列的な能力、右脳は空間的、形態的、表象的、同時並行的な能力を担当するとされる。わかりやすく表現するならば、右脳の能力は物事の全体をつかみ、その中で事柄のおかれた文脈を知るということである。右脳が傷害されると、言葉の字義的な意味はわかるものの、その比喩的な意味や行間の意味などについての理解が不可能になる。そのために右脳はよりグローバルな理解を行うという、人間としてきわめて重要な精神の機能を営むことがわかってきている。
 Schore は脳梁という、左右脳を結ぶ組織についても注目する。脳梁はおよそ3億本の神経回路の束からなる構造であり、それが左右の脳の交通路となっているが、それらはお互いを抑制したり、活性化したりということが起きていると考えられている( Bloom, JS and Hynd, 2005)。たとえば左脳が活性化されているときには右脳を抑制することが知られる。それが精神分析でいう抑圧に相当するであろう。また感情的に高ぶると言語野が抑制されるという現象もよく知られている。これは私たちの日常体験とも一致する。   
 さて以上は従来の脳科学的な理解であるが、発達理論や乳幼児観察の発展に関しても右脳についての更なる理解がなされている。発達論者が最近ますます注目しているのが、発達初期の乳幼児と母親の関係、特にその情緒的な交流の重要さである。早期の母子関係においては、極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、母子間の情動的な同調が起きる。そしてそこで体験された音や匂いや感情などの記憶が、右脳に極端に偏る形で貯蔵されているという事実である。愛着が生じる生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であるが、右の脳の容積は左より優位に大きいという事実もその証左となっている (Matsuzawa, et al. 2001)。このように言語を獲得する以前に発達する右脳は、幼児の思考や情動の基本的なあり方を提供することになり、いわば人の心の基底をなすものという意味で、ショアは人間の右脳が精神分析的な無意識を事実上つかさどっているのだと発想を得たのである。
 右脳はそれ以外にも重要な役割を果たす。それは共感を体験することである。その共感の機能を中心的につかさどるのが、右脳の眼窩前頭部である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位であるという。わかりやすく考えるならば、脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになるということだ。その意味で眼窩前頭部は超自我的な要素を持っているというのが Schore の考えである。
 さらには眼窩前頭部は心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つ。これは自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかという能力であるが、これと道徳的な関心という超自我的な要素と実は深く関連している。自分の言動が、今現在周囲の人々や出来事とどうかかわり、それにどのような影響を及ぼすのか。この外界からの入力と内的な空想とのすり合わせという非常に高次な自我、超自我機能を担っているのも眼窩前頭部なのである。
読者はここで、無意識を担当する右脳が、自我や超自我の機能を有するというのは矛盾していると感じるかもしれない。そこで少し説明が必要であろう。意識、前意識、無意識というのはフロイトの局所論的モデルの概念であり、自我、超自我、エスとは構造論的モデルの概念である。両方は別々のモデルとして心を説明し、しかも互いにオーバーラップしている部分がある。たとえば自我の働きの中にも意識的なものも無意識的なものもある、という風にである。Schore が提出しているモデルは、右脳が左脳の支配下で無意識的に、つまりバックグラウンドで実にさまざまな情報処理を行っているという事情を反映しているのである。
 ここで Schore の提唱する無意識=右脳、という意味についてもう一度考えてみよう。一世紀前に精神分析的な心についてのフロイトの理論が注意を促したのは、私たちが意識できない部分、すなわち無意識の役割の大きさである。フロイトは無意識をそこで様々な法則が働くような秩序を備えた構造とみなしたり、欲動の渦巻く一種のカオスと捉えたりした。これはフロイトにとっても無意識はつかみどころがなかったことを示している。夢分析などを考案することで、彼は無意識の心の動きに関する法則を発見したかのように考えたのだろうが、決してそうではなかった。それが証拠に夢分析はフロイト以降決して「進歩」したとはいいがたい。つまりフロイトの時代から一世紀の間、無意識の理論は特に大きな進展を見せなかった一方で、心を扱うそれ以外の領域が急速に進歩した。その代表が脳科学であり発達理論なのである。
 ところで読者は脳科学と発達理論がこのように頻繁にペアで言及されることに当然気付かれるだろう。なぜ発達理論がこうも注目を浴びているのだろうか?そこにはおそらく人間の乳幼児がある種の観察材料になって様々な心身の機能の発達が科学的に調べられるようになってきている現状がある。乳幼児というのは、言葉は悪いが格好の観察対象なのである。その結果としてますます重視されるようになってきているのが、乳幼児の脳の発達に母親とのかかわりである。


2018年3月20日火曜日

解離の本 11    推敲 38


2-3.親を癒すために生まれる人格
一般的に、子供は親の気持ちにとても敏感です。2-2に示したように親の感情がそれほど不安定ではなくても、子供は親が自分に関して望んでいることを時には過剰に読み取り、それに合わせる事で親を安心させたり、慰めたりすることがあります。そして親の期待に沿う行動を取るうちに、自らもそれを望んで行っているという感覚をある程度は持ち始めることがあります。例えば子供が引っ込み思案であることを親が心配していることを察した子どもは、その期待に応えようと努力し、自分は本当は社交的で人と関わるのが好きだと思い込もうと努力をするでしょう
このような傾向は、解離傾向を持たない子供にもある程度は見られます。いわば表と裏の顔を作り始めることになります。そして表の顔では、本当に親の望むことを自分でも望んでいると思おうとします。しかし通常はそれがうまくいかずに表と裏の使い分けが出来なくなってしまうでしょう。たとえばもともと引っ込み思案な子は社交的な振る舞いをすることを非常にストレスに感じ、結局やめてしまうかもしれません。
精神分析家のドナルド・ウィニコットは「偽りの自己」という言葉で、この表の顔を表現しました。親の前では「偽りの自己」を保っているとき、「本当の自己」は押し隠されていますが、そこにはある種のエネルギーが必要になります。「偽りの自己」を保つ必要のある子はそれだけストレスを体験し、精神的に疲弊することになります。
さて解離を用いる子供の場合は、2-2で述べたように、これとは少し違ったことがおきます。彼女は実際に社交的な自分を作り出すのです。ここで「作り出す」、という表現は正しくないかもしれません。彼女に別の自分を創ろう、という意識はないのが普通だからです。先ほどのAちゃんの例に見られるような、Bちゃんの登場です。交代人格のBちゃんはもともと社交的に振舞うことを得意とするでしょうし、別に無理をしているわけではありません。その点が「偽りの自己」と異なるところです。
しかしBちゃんの登場は不都合な事情を招くことも少なくありません。AちゃんはBちゃんが登場している間、心の中に閉じこもっています。時にはBちゃんの振る舞いをモニター越しに見ているような体験をし、また時にはその間眠っていてまったく覚えていないということもあります。親の前ではBちゃんが主として振舞うとしても、Aちゃんはその心や脳の「主」であり、それを使い慣れています。時々どちらが出てきたらいいかわからなくなって得しまうこともあります。またAちゃんが母親の表情ひとつからその欲していることを読み取るとすれば、おそらくそのほかの人の表情も敏感に読み取り、それに合わせて新たな人格が生まれる可能性もあります。Aちゃんにとって情緒的にとても意味を持ち、また頼れる存在であればあるほど、その相手に知らない間に合わせて、その人用の人格が出来上がってしまう可能性も少なくありません。
このように考えると解離性障害を持つ患者さんが通常非常に多くの別人格の存在を報告するという事情も理解できます。共存のために内側の世界は分割され、それぞれの自己の領域が互いに干渉し合うことなく、必要な時にはコンタクトが取れるような状態に形作られていくと考えられます。DIDの患者さんがその内界について、複数階立ての家屋として図示したり、「アリの巣のよう」などと表現したりするのも、内部における人格たちの共生状態を視覚的・直感的に表したものとみることができます。
患者さんの内部にいる人格たちは、おそらくその多くが一時的に現れては消えていくのでしょう。ある友達に合わせるために人格が出来ても、その友達と会わなくなってしまえば、それは消えていくでしょう。しかしいくつかの人格は何度も登場し、そのたびに経験値を増やし、記憶を蓄積し、ひとり人格として成長していくでしょう。するとDIDの様相を示すようになります。それぞれの人格は同じような場面で正反対の行動を取ることもあるので、そのような人格が頻繁に入れ替わると周囲は混乱し、また当然ながら本人も非常に混乱します。この段階で彼らの障害は自他ともに認識されるようになり、自ら治療を求めることもあれば、周囲の手で治療の場に連れてこられることも多くなります。患者さんの適応の破綻は、内部の共生状態が破綻しかけているという警告ともいえるでしょう。

推敲 38


この論文では、Kohut は「人は自分の、ないしは他人の心の無意識をはたして内省・共感できるのか」という根本的な問題には触れずに議論を進めている。しかしこの問いに含まれる矛盾を Kohut が意識していなかったとは考えられないのではないか。とすれば彼の意図は、多少無理を承知で、内省・共感という概念を、従来の精神分析理論と継ぎ目なく結び付けようとすることにあったのだろう。そしてそれと同時に彼は、フロイト的な意味での無意識の探求の手を事実上止めたのである。そこに彼の論文からくる肩透かし感の理由がある。
 同様の「肩透かし」の例は Kohut のこの論文のほかの箇所にもみられる。たとえば彼は、「内省・共感を科学的に洗練させたものが自由連想と抵抗の分析である」(p.465)と述べている。自由連想が特殊な内省の方法、というのはそれなりにわかる気がする。しかし「抵抗の分析も内省である」と、いきなり説明なしに言われても戸惑うばかりである。そして Kohut は、その自由連想という「特殊な内省・共感」により得られたのが「無意識の発見」であったと記している。こうして内省・共感が従来の精神分析と概念的な関連性を有すると形の上では表明されているが、結局「どうして無意識内容を共感できるのか」という根本的な疑問には触れられることはない。
ところでこの論文によりはじまる Kohut 理論は、その後精神分析の世界では様々な議論を生んだが、少なくとも Kohut 派の内部でこの内省と無意識をめぐって大きな論争が起きたということでもなさそうだ。「内省により無意識を知ることができる」という議論はそもそも矛盾しており、彼のその他の概念による貢献に比べれば議論に値しないというニュアンスがあるようだ。
実際に Kohut 理論には体面上は伝統的な精神分析理論との齟齬を回避するための工夫が施されている部分が多く、それらについては脇においておき、むしろ彼の理論が実質的に切り開いた部分に注目するべきであるという見方がある。それが R.Stolorow,G. Atwood, D.Orange といった本来 Kohut の弟子であった分析家たちに共通する意見である(Reis, 2011)。内省・共感を強調することで、Kohut は治療者が患者の心に共感し、それを伝えるという相互交流のモデルを作ったのだ。その功績に比べたら内省・共感が無意識を理解できるか、というのは、本来あまり重要な問題ではなかったのだろう。 
最近の自己心理学における無意識-愛着理論とのかかわり
さて以上、Kohut にとっての無意識の概念が基本的に持つ論点について示したが、最近になり自己心理学派の Alan Schore (2002, 2003) がこれまでとはまったく異なる観点から自己心理学と無意識に関する論述を行なっているので、これを紹介したい。
 Schore の基本的な主張は以下のとおりである。Kohut 理論の登場は精神分析の歴史の中で極めて革新的なものであり、その真価はそれが結果的に愛着や母子関係等への研究を含む発達理論への着目を促したことにある。このことによりKohut はその視点をフロイトの無意識から発達論的な無意識へ移したと考えられるのだ。そして発達理論に従った心の理論は、それを裏打ちする脳科学によりそれだけ充実したものになる。その上でショアは自己心理学的な無意識は、その実質的な生物学的な基盤として大脳の右半球を想定することができると主張するのである。
 Schore は Kohut の「自己の分析」 (1971) は、実質的に発達理論と精神構造理論と自己の障害の治療論にまたがる極めて包括的なものであったとする。そして Kohut の理論の中でも特に自己対象 selfobject の概念を重視する。それはこの概念が発達心理学的な意義を内包しているからだ。成熟した親は、自己対象機能を発揮することで、未発達で不完全な心理的な構造を持った幼児に対する調節機能を提供する。こうして早期の発達の基礎となる非言語的かつ情緒的な相互交流を無意識、と捉えることで、無意識は精神内界を表すものというよりは、精神内界‐関係性の中で捉えられるようになったのである。

2018年3月19日月曜日

解離の本 10


2-2.親の気持ちの不安定さ
 子どもの解離を引き起こす要因のひとつに、親のほうの気持ちの弱さや不安定さがあります。我が子の言動に過剰に反応し、些細なことで不安定になりやすい親のもとで育つと、子どもは親の態度に敏感となります。例えば子どもが小さな失敗をした時に、親が励まし支えるのが望ましいのですが、親自身が余裕を持てずにそれに打撃を受けて落ち込んでしまうとしましょう。すると子どもは自分の辛さ以上に親を落胆させたことに苦しみ、二重に傷つくことがあります。子供はかなり小さい頃から、自分の気持ちや意見を主張する様になりますが、それを親が「自分に逆らった」ととらえて逆上し、混乱した態度を取ることしかできないとしましょう。次第に子どもは自らの自発的な言動が親を苦しめると思い込むようになります。その結果健康な欲求や感情さえ表に出すのをやめてしまい、親の些細な感情の変化に過敏に反応し、顔色をうかがうようになるのです。親の気持ちを逆なでしないよう期待に沿う行動を取るうちに、本来あったはずの欲求や感情は切り離され、場合によっては感じ取れないほどになってしまいます。こうして彼らの真の情緒は解離され、実感を伴う生き生きとした感情は失われていきます。
ここで解離傾向の強い子供の中には、かなり特徴的な現象が起きることが知られています。それは親の心の中にある「いい子」である自分の姿がコピーされたように心に住み着くのです。もしこの親の心の中のいい子である「Bちゃん」が人格として動き出すと、今度はBちゃんが親の前ではいつも顔を出すようになり、本来のAちゃんは隠れてしまうということになります。

●●さん(10代女性、中学生)

(略)

2018年3月18日日曜日

解離の本 9


◆第2章 解離を生むのはトラウマか?

1. はじめに
解離性障害を理解する上で、トラウマというテーマを切り離すことはできません。アメリカの最新の診断基準である DSM-5 には、「心的外傷およびストレス因関連症群」というカテゴリーがありますが、解離性障害はの中には含まれていません。しかしその発症に幼少期を中心とした何らかのトラウマが関連している場合が多いと考える点では、多くの臨床家の意見が一致しています。代表的な症状である健忘や人格のスイッチングは、トラウマ記憶の再現やフラッシュバックがきっかけで生じます。発症あるいは症状の悪化した時期の前後の状況を丁寧に聞き取っていくと、トリガーとなった出来事が見つかり、そこにはトラウマ体験があると推測されることが多くあります。
ただし解離症状の発症は、明らかなトラウマに遭遇しなくても、心を許せる友人や恋人が出来たことを切っ掛けに、言わばそれまで人格たちをまとめていた枠が外される形で現れる場合もあります。また幼少時の生活史を尋ねても、明白なトラウマが見当たらない場合もありますので、「解離の陰には必ずトラウマあり」と決めつけるわけにもいかないことはここでお断りをしておきます。ただしおそらく明らかであろうということは、解離は幼少時に心にとってある種の緊急事態が生じ、心が普段とは別の対処の仕方をしなくてはならなかったという事情を示しているということです。そして以下に述べるトラウマは、その緊急事態に該当する主要なものだということです。
 ここでは解離性障害に特徴的なトラウマについて取り上げ、治療での扱い方について解説します。
天災、事故、事件に遭遇した影響などを含め、トラウマ的事態は多岐にわたりますが、解離性障害との関連が深いのは対人関係がもたらすトラウマです。代表的なものとしては虐待を受けた体験がよく知られていますが、日本に特徴的な解離性障害の要因として、岡野(20072011)は関係性のストレスrelational stress」という概念を提唱しています。親子関係におけるミスコミュニケーションが引き起こす子どもの側の「自己表現の抑制」が、解離性障害の発症に関与しているというものです。

2-1.関係性のトラウマ
親から子どもへの愛情が基盤にありながらも、親自身の抱えるストレスや心理的課題と子ども側の要因が重なり、トラウマ的事態を作り出していることがあります。家族の生活状況による親の側のストレスの増加により、子育てにゆとりが持てず必要以上に厳しい態度を取り、無意識に子どもを攻撃してしまう場合などがそれにあたります。
解離障害の患者さんの多くは、そうした親の苦しみを早い時期から察知し、親をケアするような行動を身に着けています。親の一番の理解者として話を聞き、その期待に応えるべく努力してきた人もいます。患者さんは周囲の状況をよく観察し、自分が何をすべきかを察する能力を備えているものの、自己主張や自己表現がうまくできないため、いわゆる過剰適応に陥りやすい傾向があります。多くの場合、親の側は子どもが「自分を殺して」いることに、気づいていません。過剰適応の結果として、親の期待に適応する人格が誕生すれば、一層それは見えにくくなります。患者さん自らも自分を抑えていると自覚していないこともあります。解離性障害の人は、自己と他者の心理的境界boundary が脆弱であるために、相手の考えや感情を自分自身のものとして体験しやすいという傾向をもっているからです。
治療ではこのような親子の関係性がトラウマとして作用してきた現状を、患者さん自身が実感をもって認める必要があります。この問題を家族にどう伝え、対処すべきかの問題については、第5章で詳しく述べます。