2018年3月21日水曜日

精神分析新時代 推敲 39


ここで自己対象の調節の機能に特に注目したい。Kohut 自身も自己対象関係を、それが内的な恒常性の安定性 internal homeostatic equilibrium を与え、自己の維持に必要なものだと述べた。ただし彼は子供が自己対象との関係で発達する上での正確なタイムテーブルは描いていなかった。Schore はそれを Kohutに代わって試みているわけだが、そこで彼が強調するのは、自己対象は、心理的のみならず生理的にも乳幼児の成長に貢献しているということである。つまりそれは欲動のコントロール、統合、適応能力の提供であり、成長とはそれを子供が自分自身で引き受けていく過程なのである。そしてショアが提言するのは「自己の心理学」というよりはむしろ、「自己の心理生物 psychobiology of self」であるという。ただしここで彼が同時に強調するのは、身体と精神を切り分けることの危険性である。そうすることでいわゆる心身二元論という「デカルトの過ち」を犯すことになると彼は主張する。
 さらに発達理論との関連で重要なのがミラーリング mirroring の概念であるとショアはいう。発達理論によれば、生後二ヶ月の母子が対面することによる感情の調節、特に感情の同期化は乳児の認知的、社会的な発達に重要であるという。そしてこれがKohutのミラーリングの概念に他ならない。そしてこれをTrevarthen 1974) は第一次間主観性 primary intersubjectivity と呼んだのであった。
 このようにKohutが概念化した母子の自己対象関係と、その破綻による自己の障害は、発達理論ときわめて密接に照合可能であることがわかる。後者においては母子との関係における情動の調節の失敗としてのトラウマやネグレクトが、さまざまな発達上の問題を引き起こすことがわかってきている。その意味では Kohut はトラウマ理論の重要性を予見していたと言えるだろう。
無意識=右脳という考え方
Schore のもう一つの重要な主張は、無意識の生物学的な基盤を右脳とみなすことが出来るというものだ。ここで少し脳の構造について振り返ってみる。最近になって脳科学の進歩により左脳と右脳の情報処理の機能がかなり分化していることが知られている。言語野は90%以上の人において左半球にあり、左半球が損傷されると言語やほか多くの精神機能の異常をきたす。そのためにかつては精神の主たる機能が左半球にあると考えられ、左半球を優位半球、右半球を劣位半球と呼ぶことが多かった。しかし最近の研究で、右半球にもさまざまな重要な機能が備わっていることがわかってきている。
 現在の脳科学の理解では、左脳は言語、論理的、分析的、系列的な能力、右脳は空間的、形態的、表象的、同時並行的な能力を担当するとされる。わかりやすく表現するならば、右脳の能力は物事の全体をつかみ、その中で事柄のおかれた文脈を知るということである。右脳が傷害されると、言葉の字義的な意味はわかるものの、その比喩的な意味や行間の意味などについての理解が不可能になる。そのために右脳はよりグローバルな理解を行うという、人間としてきわめて重要な精神の機能を営むことがわかってきている。
 Schore は脳梁という、左右脳を結ぶ組織についても注目する。脳梁はおよそ3億本の神経回路の束からなる構造であり、それが左右の脳の交通路となっているが、それらはお互いを抑制したり、活性化したりということが起きていると考えられている( Bloom, JS and Hynd, 2005)。たとえば左脳が活性化されているときには右脳を抑制することが知られる。それが精神分析でいう抑圧に相当するであろう。また感情的に高ぶると言語野が抑制されるという現象もよく知られている。これは私たちの日常体験とも一致する。   
 さて以上は従来の脳科学的な理解であるが、発達理論や乳幼児観察の発展に関しても右脳についての更なる理解がなされている。発達論者が最近ますます注目しているのが、発達初期の乳幼児と母親の関係、特にその情緒的な交流の重要さである。早期の母子関係においては、極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、母子間の情動的な同調が起きる。そしてそこで体験された音や匂いや感情などの記憶が、右脳に極端に偏る形で貯蔵されているという事実である。愛着が生じる生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であるが、右の脳の容積は左より優位に大きいという事実もその証左となっている (Matsuzawa, et al. 2001)。このように言語を獲得する以前に発達する右脳は、幼児の思考や情動の基本的なあり方を提供することになり、いわば人の心の基底をなすものという意味で、ショアは人間の右脳が精神分析的な無意識を事実上つかさどっているのだと発想を得たのである。
 右脳はそれ以外にも重要な役割を果たす。それは共感を体験することである。その共感の機能を中心的につかさどるのが、右脳の眼窩前頭部である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位であるという。わかりやすく考えるならば、脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになるということだ。その意味で眼窩前頭部は超自我的な要素を持っているというのが Schore の考えである。
 さらには眼窩前頭部は心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つ。これは自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかという能力であるが、これと道徳的な関心という超自我的な要素と実は深く関連している。自分の言動が、今現在周囲の人々や出来事とどうかかわり、それにどのような影響を及ぼすのか。この外界からの入力と内的な空想とのすり合わせという非常に高次な自我、超自我機能を担っているのも眼窩前頭部なのである。
読者はここで、無意識を担当する右脳が、自我や超自我の機能を有するというのは矛盾していると感じるかもしれない。そこで少し説明が必要であろう。意識、前意識、無意識というのはフロイトの局所論的モデルの概念であり、自我、超自我、エスとは構造論的モデルの概念である。両方は別々のモデルとして心を説明し、しかも互いにオーバーラップしている部分がある。たとえば自我の働きの中にも意識的なものも無意識的なものもある、という風にである。Schore が提出しているモデルは、右脳が左脳の支配下で無意識的に、つまりバックグラウンドで実にさまざまな情報処理を行っているという事情を反映しているのである。
 ここで Schore の提唱する無意識=右脳、という意味についてもう一度考えてみよう。一世紀前に精神分析的な心についてのフロイトの理論が注意を促したのは、私たちが意識できない部分、すなわち無意識の役割の大きさである。フロイトは無意識をそこで様々な法則が働くような秩序を備えた構造とみなしたり、欲動の渦巻く一種のカオスと捉えたりした。これはフロイトにとっても無意識はつかみどころがなかったことを示している。夢分析などを考案することで、彼は無意識の心の動きに関する法則を発見したかのように考えたのだろうが、決してそうではなかった。それが証拠に夢分析はフロイト以降決して「進歩」したとはいいがたい。つまりフロイトの時代から一世紀の間、無意識の理論は特に大きな進展を見せなかった一方で、心を扱うそれ以外の領域が急速に進歩した。その代表が脳科学であり発達理論なのである。
 ところで読者は脳科学と発達理論がこのように頻繁にペアで言及されることに当然気付かれるだろう。なぜ発達理論がこうも注目を浴びているのだろうか?そこにはおそらく人間の乳幼児がある種の観察材料になって様々な心身の機能の発達が科学的に調べられるようになってきている現状がある。乳幼児というのは、言葉は悪いが格好の観察対象なのである。その結果としてますます重視されるようになってきているのが、乳幼児の脳の発達に母親とのかかわりである。