2018年3月22日木曜日

精神分析新時代 推敲 40

自己心理学的な無意識の治療への応用

 すでに述べたように、Kohut がその重要性を強調した内省や共感は、その定義からも、古典的な精神分析理論における無意識の内容に向けられたものとは言えなかった。そして自己心理学的な治療が目指すものが、そもそも古典的な精神分析とは大きく異なったものであった。古典的な精神分析においては、無意識的なファンタジーや願望等の、解釈による理解が重視された。その考え自体がかなり主知主義的で、人は自分自身についての知的な理解によりその人格を変革できるという考えに立ったものであった。それに限界を感じたKohut は患者への共感を重んじ、治療者と患者の間に展開される自己対象転移に注目し、治療者のミラーリングや理想化された両親像としての役割を重視することを提唱したのだ。そのようなかかわりは、当然ながら患者との非言語的な二者関係の構築を重視することになる。そしてそれは患者の自己を、その背景となる無意識とともに支えることを意味するのだ。
 この事情を思い切った単純化を用いて表現するなら、フロイトの精神分析は無意識への(主として)左脳を介してのアプローチであったのに対して、Kohut の精神分析は無意識への(主として)右脳を介するアプローチであったということができよう。そもそも無意識自体が非言語的な部分を含む以上、左脳のみを介するアプローチ自体は初めからおのずと限界を含むことになる。従来の精神分析に関するこのような問題点が指摘され、現代の精神分析の流れは左脳的な関わりから右脳的なかかわりに移っているということが出来る。それは発達論的な理解にもとづいたアプローチや関係論的なアプローチである。それらの流れに学問的な根拠を提供しているのが、自らもKohut 派を自認するショアなのである。
Kohut 以降の自己心理学、特に Schore の貢献が示したのは、Kohut が描いた自己対象関係の平衡状態は、結局は幼少時に成立する脳の神経ネットワークそのものでもあるということだ。彼はそれを無意識と理解してもいいのではないかという主張を行う。それに従うならば、Kohut が強調した共感と自己対象転移を介した二者関係性、そしてそれが幼児期の自己対象の成立により形成されるという理解そのものが、無意識についての考え方を大幅に変えたということである。それは意識的な活動のバックグラウンドとして動いている組織、構造と言えるのである。Kohut の自己とは、右脳=無意識を背後に備えたものということになり、自己の病理とは、まさにその意味での無意識に発達過程で深刻な障害を抱えていることを意味する。
こうして自己心理学的なアプローチは、無意識的なファンタジーや願望を明らかにするという方向には働かず、しかし自己対象関係を扱うことで、結果的に右脳的な無意識を扱うという風にいえるだろう。それは患者を言葉の上での解釈ではなく、より深いレベルで、無意識レベルも含めて抱えるという作業を意味するのである。