2012年9月16日日曜日

第4章 マインド・タイム ‐ 意識と時間の不思議な関係-心理士への教訓

 精神療法を行なう際、「無意識と心の関係はいかなるものか?」は重要な課題である。それは特に精神分析的な教育やトレーニングを経験していない心理士にとっても同じであろう。わが国の心理士で、精神分析の影響を受けていない人のほうがまれなのだ。そしてその精神分析においては、無意識の探求はその根幹をなすといってよい。
 しかしBLの実験が示唆しているのはそれとは別のテーマである。それは「脳と心の関係はいかなるものか?」ということだ。ある瞬間に意思を発動したと思ったら、脳はそれより半秒前にすでに動いている。ということはその意思発動を準備し、お膳立てをしたのは脳である。その脳の働きの詳細は不明ながら、それが500ミリ秒前にさかのぼって活動しているという事実は脳波計により示されたわけだ。

 ここで心理士は尋ねるかもしれない。その500ミリ秒の活動は「無意識」の活動なのではないか。そうかもしれない。しかしそれは精神分析的な無意識というわけではない。それは抑圧された性的欲動や攻撃性とはおそらく別の種類の活動であり、意識的な活動の準備をし、それと不連続的につながるような無意識なのである。もしかしたら意識とは、それ自身は意識化できないような脳の活動全体の氷山の一角として理解するべきなのかもしれない。
 BLの実験は要するに、脳がさいころを転がし、意識はそれを受けて自発的にそれを決めた、と感じるということだ。手を動かす瞬間も、脳が命令をして、それを意識は「今!」と自発的に決めたと錯覚する。人はそうやって生きている。とすれば患者の話を聞く心理士も、その行動の一つ一つにあまり意味を見出しても仕方がない、ということになりはしないか?脳の決断の受け手としての意識。その意識に「どうして~したんですか?」とか「あなたが~した理由を考えましょう」という問いかけは、意識が言い訳をするという性質を助長するということになりかねないだろう。それよりはスタンスとしては、「あなたが~したことについて、何か思い出すことは?」と連想を広げたり、「あなたが~したことについて、今後はどうなさろうと考えますか?」と将来について一緒に考えたりすることが重要になってくる。そこには、脳という宇宙の仕組みを少しでも知り、それに翻弄されることなく生きていくための方策を考えるプロセスがある。
 BLの実験を知るようになってから、私はひとつ患者に話して安心してもらうテーマを増やすことができた。それは「私たちは死ぬ瞬間を体験しないですむ」ということだ。これを話すと安心する人は少なくない。
 10年以上前にニューヨークで起きた「911」の事件を今でも鮮やかに覚えている人は多いだろう。そして旅客機がビルに突入する映像を見て、それを操っているテロリストや、その乗客にわが身を置いたという体験がゼロの人はいないであろう。旅客機がビルの中腹に突入し、一瞬にして粉々になってビルの中に吸い込まれた。おそらく一秒の何十分の一かのうちに、人々の身体は、旅客機の機体とビルを構成している建材や中の家具、そして中で働いていた人々すべては、超高温で融合したわけだ。この苦しみを体験した人はいただろうか?たとえ一瞬でも?
 幸いにして答えは「ノー」である。なぜなら人はそれを体験するまでに約0.5秒かかるから。そしてその前に人は死んでしまうから。乗客に、そしてテロリストに最後に体験されたのは、突入の0.5秒前までなのである。
もし私たちの死の恐怖が、その直前の極限に近い苦痛を体験することへの恐れにあるとしたら、それから私たちは実質的に解放されている。たとえ高いビルからまっさかさまに落ちて地面に身体をたたきつけられるとしても、その瞬間を体験するときにはすでに私たちは死んでいるのである。体中の骨が一瞬にして粉々になる際の極限の痛みを体験することは絶対にない。
 最近たまたま「死に方のコツ」という本(高柳和江著 小学館文庫、2002年)という本を読んだが、なるほど評判になる本だけあり、死ぬことへの恐怖がかなり軽減されるような考え方がたくさん書いてある。そこに私はこのBLの教訓を付け加えたいほどだ。「死ぬ瞬間を体験することはあり得ない」体験することのないことを恐れる必要はないということだ。死ぬ瞬間を体験しないということは、ちょうど私たちが毎晩眠りにつく瞬間を体験出来ないということと同じである。

2012年9月15日土曜日

第4章 マインド・タイム ‐ 意識と時間の不思議な関係 (2)


精神分析的な無意識の見直し
Benjamin Libet (1916~ )
 BLの実験は、ある意味では私たちの心についての理解を根底から覆す可能性を秘めているのであるが、そのことについては後回しにするとして、この実験の示していることは、私自身にとっては、日常的な体験を見事に説明しているものでもあるのだ。たとえば創作活動を考えよう。多くが、創作した内容は、「向こうからやってきた」という体験を語ることを知っている。どこかですでに作られたものがやってくる、ポン、と訪れる、と彼らは言うのだ。
 例えばモーツァルトは、一人でいる時に曲が浮かんでくるということがよくあったが、それをコントロールすることは難しかったという。しかし曲は出てくるときは自然に浮かんできて勝手に自らを構成していくという。そして楽曲がほぼ出来上がった状態でかばんに入っているのを次々と取り出して楽譜に書き写すだけ、というような体験をしたという( Life Of Mozart (audiobook), by Edward Holmes.) 。 そう、創造的な体験の多くは脳が勝手にそれを行っていて、意識は受け身的にそれを受け取るという感じなのだ。
 ただし私はモーツァルトの楽曲が出来上がるまでに0.5秒かかって、それから意識に表れるのだ、という説を主張しているわけではない。おそらくもっと多くの時間が、その働きが意識化されることのないような脳の場所で費やされ、最終的な楽曲の形になるのであろうと思う。
 BLの実験が示す事柄が根底から見直しを迫るのが、精神分析的な無意識の概念である。無意識はフロイトが100年以上前に提唱した精神分析の根幹に位置する概念である。フロイトは無意識に様々な欲動や願望やファンタジーが存在すると考え、それを精神分析療法により自由連想を通じて表現し、開放することが治療であると考えていた。この無意識の概念は現在でもそれが真っ向から否定されることはなく、精神分析の分野では依然として重要な意味を持つ。ただし分析以外の心理療法、たとえば認知行動療法などでは、無意識を実体化したり、そこを病理の源泉とみなすような傾向は影を潜め、その概念をバイパスし、自動思考、スキーマ、といった「意識外」の心の働きとして言い表すにとどまっている。
 BLの実験が示唆しているのは、いわば心の働きを意識的な活動に先立つブラックボックスにより始まるものとしてとらえているところがある。そのブラックボックスとは結局脳、ということになる。脳が活動を開始した後に意思が現れたり、創造的な活動が生み出されたりする、というわけだ。ではそれはフロイト的な無意識とはどう違うのだろうか?
 そもそもフロイトの無意識は、意識化することに抵抗のある事柄が抑圧された結果として生まれたものである。だからこそそれは形を変えて、すなわち症状や、過ちや冗談などの形で表現されることを選ぶのである。すなわち無意識と意識とを分かつのは、抑圧という名のバリアーである。無意識内容は、たとえば象徴化、という変形を受けて意識内容に上る。
 それに対してBLの示す脳と意識的な活動とについては、その種のバリアーを必ずしも想定する必要はない。BLの実験において「さあ、ボタンを押そう」という意思が生まれる際、先立つ脳の動きはそれを準備するという役割を負う。モーツァルトが「真夏の夜の夢」のメロディーが頭から流れ出るままに大急ぎで楽譜に書き写した時も、彼は無意識の生み出したものを意識的に追認したに過ぎない。ブラックボックスから意識的な活動に移行する際に特に一律に「変形」は考えないのだ。ただし意識的な活動は脳の活動を「自分の生み出したもの」(行動を行うという決断にしても、楽曲にしても)と思い込んでいる。こうなるといわば脳の活動が主であり、意識的な活動は従であり、一種の錯覚に過ぎないという考え方すら成り立つ。
 このような心のあり方を一番うまく表しているのが、別の書でも紹介した前野隆司による「受動意識仮説」という理論である。前野氏の代表的な著書(2004)で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。
 どうして私が私であって、私でなくはないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方があり、それは意識を持っているというのが一種の錯覚であると理解することだ。私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、あたかも能動的な体験として感じられているだけであるのである。
 「前野先生の心の理論を一言でいうと、それは『ボトムアップ』のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)」
 「そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる『トップダウン』式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。」
(以上「」部分は拙書「続・解離性障害」(岩崎学術出版社、2011年)より抜粋した。)

2012年9月14日金曜日

第4章 マインド・タイム ‐ 意識と時間の不思議な関係 (1)


BLの偉大な実験
 Benjamin Libet は日本ではあまり知られていないかもしれないが、チョー有名な神経科学者である。1970年代に彼の行った実験は極めて画期的なものだった。ちなみに彼の名前を見ると私にはどうしても「リベー」(フランス語読み)と発音したくなる。彼の祖先はフランスから移民したはずだ。しかし正式には「リベット」らしい。(というよりアメリカではそれで通用しているらしい。何しろ彼の実験について書かれた「マインドタイム」(下條信輔訳、岩波書店、2005年)の訳者の下條先生も「リベット」と書いているのだ。そこで妥協して以下はBLと表記させていただく。
 実は私はBLの行った画期的な実験のことを知ってはいるが、心から理解してはいない。初めて読んで10年以上経っているが、考えているうちにどうしてもわからないことが出て来る。しかしそれは読者に判断してもらうとして、簡単に紹介する。
 彼はある実験を行って、その結果として「人はある行動を起こそうと思った瞬間には,脳はその約0.5秒前にすでにその行動に向けての活動を開始している。」という結論に至った。そのBLの実験は、被検者に好きな時に指を動かすという、それ自体は非常に単純なものだった。彼は特別な時間の計測装置を考えだし、被験者が自分の指を動かそうと思った瞬間をコンマ一秒のレベルで正確に記憶出来るようにした。そしてその被験者の脳波を同時にとったのである。すると不思議なことに指を動かそうとした瞬間の0.5秒前に、脳波上の活動が開始することに気付いた。それを示すのがこの図である。Wの地点は「よし動かすぞ!」という気持ちになった時の時間で、これは実際の指が動き始める200ミリ秒前であった。これ自体はわかる。しかし脳波を見ると、実は550ミリ秒(つまりおよそ二分の一秒)前から、ゆっくり立ち上がっているのだ。一体これはどういうことだろう、ということにBLは関心を持った。

 この実験が示しているのは、私たちがあることを意識する、気がつく、ということと脳の働きとの時間的な関係だった。どうやら私たちが何かを意識するそれ以前に、脳はそれを扱い始めるらしい。たとえそれが純粋な自由意思で行われていると自分では考えていても。ということは脳を動かしているのは私たちの自由意志ではない?…
 実はBLはもう一つ興味深い実験も行っている。こちらは本章の趣旨とは少し外れるが、やはりかなり興味深いものなので、ついでに紹介しておこう。手術のために開頭している患者に協力を依頼し、その大脳皮質を直接刺激するという実験だ。大脳皮質に弱い電流を流してみると、それを0.5秒以上刺激しないと、その人はそれに気がつかなかったという。そこでその大脳皮質に神経を送っている身体の部位、例えば腕を刺激すると、10から20ミリ秒程度で刺激を感じる。しかし500ミリ秒の脳内の電気反応があって,意識に感覚が生じる。ただしそれは500ミリ秒の遅れがなく感じるようになっているということだ。そのことを示しているのが以下の図であるが、一番下の(retroactive)referral time というのがこの500ミリに相当する。


 ちなみにこのBLの実験を非常に簡潔にまとめたサイトを見つけた。詳しくはそちらを参照していただきたい。 http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=63&l=23



2012年9月13日木曜日

第3章 オキシトシンが問いかける「愛とは何か?」―心理士への教訓 

 オキシトシンについての興味は尽きない。20年ほど前までは女性の出産にのみかかわっていると考えられていたこのホルモンに、調べれば調べるほどさまざまな機能が備わっていることがわかってきている。知れば知るほど、私たちの心はオキシトシンを一つの例とするさまざまな脳の仕組みに規定され、条件付けられていることがわかるのだ。
 精神的な問題に脳科学的、ないしは生理学的な背景を知るということは、結局は「その人自身の問題というよりは脳の異常や障害なのだ」という感覚を得ることの助けとなる。もちろんそれだけでは人間を見る視点としては十分ではない。「その人にもその問題をどう扱い、どう対処するかについての責任がある」という視点も同時に必要だ。しかし問題の原因を脳に求めるという視点は、脳科学を知ってこそ、初めて可能である。そしてそのような視点を持つことが、おそらく心理士の職能の一つであるべきだと考える。少なくとも一般の人々に脳科学の勉強に使う時間も余裕もあまり期待できないからだ。
 オキシトシンに関連付けてさらにこの問題を論じよう。世の中には他人に対する共感性が薄く、自分のことしか考えていないような人に出会うことがある。心理士が働く臨床の場面では、患者自身だけでなく、そのパートナーや家族にもその種の人が多いという印象を持つだろう。たとえば私たちは時々、身勝手で浮気性で家庭を顧みない夫に苦しめられる女性の患者によく出会う。そのような時に本章で紹介したハタネズミの例を思い出すと、その夫をよりよく理解することが出来るのではないだろうか。つまりその夫は「サンガク(ハタネズミ)的」ということになる。

 一夫多妻に徹するサンガクハタネズミのように、いかにも「オキシトシン受容体不足」をうかがわせる人に出会うことが少なくない。彼らは他者と心を通わせて穏やかで長続きのする関係を持つ事が苦手で、次々と別の相手と表面的な関係を結んでは壊して行く。時々そのような人との関係に巻き込まれると私たちは「困った人だなあ。」とか「なんてひどい人なんだろう。」などと感情的な反応をしてしまいやすいのだが、「そうか、この人はサンガク(ハタネズミ)タイプなんだ。」と思うことで少し吹っ切れることもあるし、その人に対する余計な期待を持つことをやめるかもしれない。
ちなみに女性は男性を自分のパートナーの候補者として眺める時、その一つの判断基準として、「この人はサンガクタイプか、プレーリータイプか」を加えるといいのではないだろうか。前者は浮気性で後者は家庭思い、俗に「一穴主義」(改めて考えるとブキミな言葉である)である。
 ところで読者の方の中には、この分類はバロン=コーエンのEタイプかSタイプかという議論に重なるという印象を持つかもしれない。そして実際この二つの分類はある程度近い関係にある。
参考までに言えば、サイモン・バロン=コーエンはその名著「共感する女脳、システム化する男脳」で、Ssystemizing 的な脳と、E(empathizing) 的な脳の働きの違いという考えを提唱している。前者は男性に特徴的で、物事の分類や分析を行う能力に関係し、後者は女性の脳に特徴的で、他人に対する共感などに力を発揮する。もちろん両者を排他的なものをするのは極端で、大部分の人間は両方を少しずつ持っている。モノにも興味を示し、人とも適度に交わるというのがむしろ普通だろう。そして両方に優れた能力を示す人もいる。このS的かE的かという分類をもう少しわかりやすく、「オタク的か、人たらし的か」と言い換えることにしよう。(ひょっとして私は「人たらし」という言葉をちゃんと理解していないかもしれないが、今のところこういう言い方をしておく。)
「浮気性か、家庭思いか」、という分類と「オタク系か、人たらしか」とは決して同じとはいえないが、サンガク的≒アスペルガー的≒オタク的、という関連から見たらつながっているともいえるのである。

2012年9月12日水曜日

第3章 オキシトシンが問いかける「愛とは何か?」(4)

オキシトシンとBPD, PTSD,その他
  これまで幼少時のケアとオキシトシンとの関係について論じたが、それはオキシトシンが早期のネグレクトに由来する精神疾患を治療する可能性を示していることにもなる。その点で注目されるのが境界パーソナリティ障害(BPD)などの治療である。BPDが幼児期のトラウマに由来するという説は欧米において主流になりつつあるが、オキシトシンがその治療にも効果があると考えるのがEric Hollander とそのグループである。彼らの研究によれば、オキシトシンを投与することで、BPDの患者さんたちのストレスに対する感情反応(血中のコルチゾール濃度などにより計測される)が大きく軽減されたという。Hollander, E et al. Oxytocin administration attenuates tress reactivity in borderline personality disorder: a pilot study. sychoneuroendocrinology 2011;36(9):1418-21.)またBPD以外にも幼児期のトラウマがかかわる様々な疾患の治療可能性にもつながるという。それらはPTSD,うつ病、不安障害まで含まれる。
 ここで読者は「うつ病や不安障害までトラウマが原因なのか?」と疑問に思うかもしれない。もちろんそれらの疾患は幼児期のトラウマのみによって引き起こされるわけではない。様々な要因がそれらの発症の引き金になっているが、そのうちの一つが幼児期のトラウマというわけである。そしてオキシトシンによる治療により、それらの発症の可能性が少しでも低下する可能性があるということになる。
  最近オキシトシンによる治療が注目を浴びている疾患として、PTSDを挙げておかなくてはならない。これについてはオランダのミランダ・オルフの研究が注目されている。オルフは、オキシトシンが二つの機序でPTSDに有効であることを強調する。一つは扁桃核の反応性を抑える性質であり、もう一つは、本書でもすでに論じた報酬系に作用し、心地よさを増すという性質である。そこでオキシトシンをPTSDの認知行動療法に用いてその効果を高めることが出来るというのがオルフの主張である。
Olff, M et al. A Psychobiological Rationale for Oxytocin in the Treatment of Posttraumatic Stress Disorder, CNS Spectr. 2010;15(8):522-530.  扁桃核の抑制、というだけでは分かりにくいので、もう少し説明しよう。「脳科学と心の臨床」でもすでに触れたことであるが、扁桃核は恐怖体験による刺激により感作され、再びその体験が予想されたり、思い出されるような事態に直面すると、アラーム信号を出す。それにより人(もちろん動物も)は逃走・逃避反応を起こすのだ。たとえばクモに襲われた?人がクモ恐怖になると、おもちゃのクモを見せられただけでもパニックになってしまうだろう。しかしその時に頭の中で「これはおもちゃのクモだから怖がる必要はないのだ」と繰り返して自分自身を説得するのが前頭前野という部分、特にvmPFC(腹内側前頭前野)である。いわば扁桃核は、vmPFCというブレーキによりその暴走を抑えられる。さてここでオキシトシンが登場するわけだが、その役割は、このvmPFCの強化と扁桃核の抑制の両方だというのだ。なんと便利な物質だろうか?


http://alfin2100.blogspot.jp/2010/12/female-brains-reaction-to-stress.htmlより借用

オキシトシンに関しては、それ以外にも様々な研究が行なわれているようである。これらに関する情報は、”Oxytocin Central”というものすごいサイトがあり(http://oxytocincentral.com/2011/03/oxytocin-eases-stress-and-anxiety/)オキシトシンに関する最新の研究の成果を網羅している。ぜひ参照されたい。

2012年9月11日火曜日

第3章 オキシトシンが問いかける「愛とは何か?」(3)

  アスペルガー障害はともかく、より深刻な病態である自閉症については、それとオキシトシンとの関係についてはここに紹介した記事の報告以前から、様々な研究が伝えられている。実際にオキシトシンの血中濃度が、自閉症で低いこと、オキシトシンのリセプターの異常と自閉症の関係などの研究が出ているという。また先ほどの記事は自閉症の顔写真への反応についてであったが、ある報告では自閉症の患者が他人の声のトーンによる感情表現の理解を、オキシトシンの投与で高めたという。しかもその効果は一回のオキシトシンの静脈注射で2週間ほど続いたというのだ (Eric Hollander, Biological Psychiatry, vol 61, p 498).
  これらの研究は、自閉症の治療にオキシトシンを積極的に用いることができるのではないか、という発想につながる。通常は一回のオキシトシンの投与で効果は数時間持続するというが、その間に、ソーシャルキューの意味を教育して、対人接触を改善しようという試みもなされているという。American Psychological association, “Oxytocin’s other side”By Beth Azar March 2011, Vol 42, No. 3 (http://www.apa.org/monitor/2011/03/oxytocin.aspx) 
  ところでオキシトシンに関する知見を、自閉症に対するもっと早期の治療に結び付けられないかという発想も当然おきうるだろう。そもそも自閉症は早期の母子関係に問題があるのではないかという説は、自閉症の存在が注目されるようになった半世紀以上前にはしきりと議論されたことである。今では自閉症には遺伝の要素がきわめて大きいということが知られるようになり、自閉症を母原病とみなすような立場は聞かれなくなったが、この視点は完全に棄却されたわけではない。というのもサルの実験で、母親からグルーミングをより多くもらったサルほど、オキシトシンの濃度が高いということが知られているのだ。これは早期に母親からより多くのケア、つまり愛情のこもった身体接触などが乳児に与えられることが、自閉症の発症を少しでも低下させるのではないかという仮説を抱かせるに十分である。
  これとの関連で、母親からの愛情を受けられなかったことで二次的に一種の自閉症のような状態が生まれることが知られているということについては言及しておく価値があるだろう。杉山登志郎先生が提唱なさっている「チャウチェスク型自閉症」という概念をご存知の方も多いだろう。チャウチェスク政権下のルーマニアの孤児院は極めて悲惨な状況で、子供たちはほとんどネグレクト状態に置かれていたという。そしてその子供たちの中には一見自閉症のような様子を示すケースも少なくなかったと報告されている。それを杉山先生は後天的な自閉症の例としてあげているのだが、これに関連するオキシトシンの研究がある。それによればルーマニアの孤児院で過ごした子供たちは、里親に接触してもあまりオキシトシンの量は増えなかったという(Proceedings of the National Academy of Sciences, vol 102, p 17237)。
  さてこれらのオキシトシンに関するデータを読んで、私たちはつい単純な発送に戻ってしまいがちかもしれない。「そもそも自閉症児に対して愛情をよりいっそう注げばいいのではないか?そうしたら子供の側にオキシトシンがもっと出るようになるし、自閉症にならなくてすむのではないか。やはり親の育て方が問題ではないか?・・・」しかしそれは自閉症児を持った親の苦労を知らないことになる。いくら情緒的な接近を試みても取り付く島のないのが自閉症児なのだ。彼らの多くは親と視線を合わせようとしない。無理に合わせようとしても顔をそむけ続けるだけだ。それに抱っこをしようにも、そもそも身体接触を嫌う彼らは、体をのけぞらせて逃れようとする。それを押さえつけるのもどこか虐待に似た状況を作ってしまいかねないほどなのだ。(もちろん深刻な例の話である。)

2012年9月10日月曜日

第3章 オキシトシンが問いかける「愛とは何か?」 (2)

オキシトシンと自閉症
 ここまでのオキシトシンについての記述は、かなり楽観的なものである。ある意味でオキシトシン礼賛、みんなオキシトシンを注射すればハッピーとなる、という印象を与えるだろう。この手のことに関しては異常にノリのいい米国では“Liquid Trust(信頼の液体)という香水風のスプレーも売っているそうだ。(ヒエ~日本のアマゾンでも売っている!!)
 
アマゾンでも売っているリキッドトラスト(オキシトシンスプレー)
しかし医学の分野では、そういうことはあまり起きないことになっている。100年以上も前に、フロイトはコカインで精神科的な問題がすべて解決すると夢想し、結果的に何人かの中毒患者を生んでしまった。同様に万能薬と考えられたものが多くの弊害を引き起こしたという例はいくらでもある。だからオキシトシンについても最近の医学研究がどのようになっているかについて、少し慎重に考えたい。
そこでまずは当然ながら、自閉症やアスペルガー障害である。前章で論じたミラーニューロンが大きな話題を呼ぶ一つの理由の一つは、それがアスペルガーつながりだからだ。といきなり言われてもピンと来ない方がいらっしゃるかもしれないが、アスペルガー障害は、現在の精神医学、心理学会の一つの大きな関心事である。なにしろ世の中にはアスペルガー傾向を持つ人はゴマンといえる。中には男性のかなりの部分はこの問題を抱えている、という極端なことを言う精神科医もいる(少なくとも私はそのひとりだ)。そして世の天才と言われている人々に明らかに効率にアスペルガー障害が存在する。
 言うまでもなく、アスペルガー障害とは、発達障害のひとつとして考えられ、人の心が理解できない、空気が読めないということが主たる問題と考えられ、その意味でミラーニューロンの機能不全が起きているのではないかといわれている。そして事実それを示すようなエビデンスもある程度は出されているようだから、根拠のないことではない。
しかしアスペルガー障害がもう一つ話題を呼んでいるのが、オキシトシンの役割である。そこでアスペルガーつながりで、この章ではオキシトシンについて述べたい。ちなみにオキシトシンは人間の脳の視床下部というところから分泌されるホルモンで、従来は主として子宮を収縮する役割が広く知られている物質である。
 ここでオキシトシンと自閉症(アスペルガー障害は広義の自閉症の一つのタイプと考えられる)に関して、今年(2012年)の427日に毎日新聞電子版にこんな記事が出ていた。この記事からはじめよう。
「金沢大の研究グループが26日、自閉症の症状改善に効果があるとされる脳内ホルモン「オキシトシン」が、自閉症の人に多い考え方や感じ方をする人に対し、効果があることを脳内の反応で確認したと発表した。同大附属病院の廣澤徹助教(脳情報病態学)は、「自閉症の人のうち、どんな性格の人に効果があるかが分かった。自閉症に起因する精神疾患などの治療にも役立てたい」と話している。オキシトシンは出産時に大量に分泌され、子宮収縮などに作用し、陣痛促進剤などに使われる。近年、他者を認識したり、愛着を感じるなどの心の働きに関連するとの研究報告も出ている。研究グループは、20〜46歳のいずれも男性の被験者20人に「喜び」「怒り」「無表情」「あいまいな表情」の4種の表情をした37人の顔写真を提示。全員にオキシトシンを鼻の中へ吹きかけ、投与の前後で写真の人物の表情を見た時の脳の反応を、脳神経の活動を示す、脳内の磁場の変動を計る脳磁計で調べた。(以下略)
 
朝日新聞315日電子版には、こんなニュースも出ていた。
「自閉症、カギの物質発見 米研究所、マウスで症状再現自の主な三つの症状「社会性の低下」「コミュニケーションの欠如」「強いこだわり」をすべて発症するマウスを、米サンフォード・バーナム医学研究所が作った。カギは神経の伝達にかかわる物質「ヘパラン硫酸」。自閉症に関係する物質や遺伝子は複数見つかっているが、すべての症状を併せ持つようなマウスができたのは珍しい。自閉症の原因解明につながると期待される。ヘパラン硫酸は、情報伝達をする脳の器官の発達を促す物質。研究所の入江史敏研究員らが遺伝子を操作して、この物質を作れなくしたマウスは、脳の構造は正常だが、仲間には無関心で、知らないマウスを見ると何もせずに逃げ出した。複数の穴があるのに、一つだけに執着していた。ヘパラン硫酸は、自閉症の原因と考えられている複数の分子とくっついて、その働きを制御していると考えられている。そのため、これがないと複数の症状が出るらしい。」
これらの研究が興味深いのは次の点である。自閉症やアスペルガー障害とは、脳の構造上の問題ではないという可能性がある。わかりやすい最近の言葉で言えば、配線 wiring の問題ではないという可能性がある。つまりこういうことだ。統合失調症の場合には、胎生時に脳の細胞の配列が生じる時点ですでに以上があったのではないか、思春期に脳細胞のシナプスの間の剪定が過剰に起きてしまったのではないか、などの仮説がある。つまり配線の異常が起きているのではないか、と言うことだ。当然発達障害系についても、同じような仮説が成り立つ。というより発達障害の場合にはこの配線異常はより明確に起きている可能性があると考えていい。なぜなら発達障害はごく幼少時からその異常が見られるし、基本的にはその障害は一生ついて回ると考えられるからだ。それに比べて統合失調症はある時期まではかなり正常に近い精神機能を維持する点で、配線には問題なく、むしろそこを流れる電流の問題ではないかと考える方がより理屈に合うのである。(ここでいきなり電流、という表現が出たが、これは配線異常との対比で考える。いわゆる神経伝達物質などは、この電流系の問題ということになる。つまりその配線を伝わる情報の流れ方の問題をこう言い表しているのである。)
ところが発達障害の代表であるアスペルガー障害の症状が、ある物質の投与により回復するとしたら、これはやはり配線異常ではなく、電流の異常、ということにもなるだろう。これは少し予想外のことなのだ。