2012年9月15日土曜日

第4章 マインド・タイム ‐ 意識と時間の不思議な関係 (2)


精神分析的な無意識の見直し
Benjamin Libet (1916~ )
 BLの実験は、ある意味では私たちの心についての理解を根底から覆す可能性を秘めているのであるが、そのことについては後回しにするとして、この実験の示していることは、私自身にとっては、日常的な体験を見事に説明しているものでもあるのだ。たとえば創作活動を考えよう。多くが、創作した内容は、「向こうからやってきた」という体験を語ることを知っている。どこかですでに作られたものがやってくる、ポン、と訪れる、と彼らは言うのだ。
 例えばモーツァルトは、一人でいる時に曲が浮かんでくるということがよくあったが、それをコントロールすることは難しかったという。しかし曲は出てくるときは自然に浮かんできて勝手に自らを構成していくという。そして楽曲がほぼ出来上がった状態でかばんに入っているのを次々と取り出して楽譜に書き写すだけ、というような体験をしたという( Life Of Mozart (audiobook), by Edward Holmes.) 。 そう、創造的な体験の多くは脳が勝手にそれを行っていて、意識は受け身的にそれを受け取るという感じなのだ。
 ただし私はモーツァルトの楽曲が出来上がるまでに0.5秒かかって、それから意識に表れるのだ、という説を主張しているわけではない。おそらくもっと多くの時間が、その働きが意識化されることのないような脳の場所で費やされ、最終的な楽曲の形になるのであろうと思う。
 BLの実験が示す事柄が根底から見直しを迫るのが、精神分析的な無意識の概念である。無意識はフロイトが100年以上前に提唱した精神分析の根幹に位置する概念である。フロイトは無意識に様々な欲動や願望やファンタジーが存在すると考え、それを精神分析療法により自由連想を通じて表現し、開放することが治療であると考えていた。この無意識の概念は現在でもそれが真っ向から否定されることはなく、精神分析の分野では依然として重要な意味を持つ。ただし分析以外の心理療法、たとえば認知行動療法などでは、無意識を実体化したり、そこを病理の源泉とみなすような傾向は影を潜め、その概念をバイパスし、自動思考、スキーマ、といった「意識外」の心の働きとして言い表すにとどまっている。
 BLの実験が示唆しているのは、いわば心の働きを意識的な活動に先立つブラックボックスにより始まるものとしてとらえているところがある。そのブラックボックスとは結局脳、ということになる。脳が活動を開始した後に意思が現れたり、創造的な活動が生み出されたりする、というわけだ。ではそれはフロイト的な無意識とはどう違うのだろうか?
 そもそもフロイトの無意識は、意識化することに抵抗のある事柄が抑圧された結果として生まれたものである。だからこそそれは形を変えて、すなわち症状や、過ちや冗談などの形で表現されることを選ぶのである。すなわち無意識と意識とを分かつのは、抑圧という名のバリアーである。無意識内容は、たとえば象徴化、という変形を受けて意識内容に上る。
 それに対してBLの示す脳と意識的な活動とについては、その種のバリアーを必ずしも想定する必要はない。BLの実験において「さあ、ボタンを押そう」という意思が生まれる際、先立つ脳の動きはそれを準備するという役割を負う。モーツァルトが「真夏の夜の夢」のメロディーが頭から流れ出るままに大急ぎで楽譜に書き写した時も、彼は無意識の生み出したものを意識的に追認したに過ぎない。ブラックボックスから意識的な活動に移行する際に特に一律に「変形」は考えないのだ。ただし意識的な活動は脳の活動を「自分の生み出したもの」(行動を行うという決断にしても、楽曲にしても)と思い込んでいる。こうなるといわば脳の活動が主であり、意識的な活動は従であり、一種の錯覚に過ぎないという考え方すら成り立つ。
 このような心のあり方を一番うまく表しているのが、別の書でも紹介した前野隆司による「受動意識仮説」という理論である。前野氏の代表的な著書(2004)で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。
 どうして私が私であって、私でなくはないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方があり、それは意識を持っているというのが一種の錯覚であると理解することだ。私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、あたかも能動的な体験として感じられているだけであるのである。
 「前野先生の心の理論を一言でいうと、それは『ボトムアップ』のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)」
 「そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる『トップダウン』式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。」
(以上「」部分は拙書「続・解離性障害」(岩崎学術出版社、2011年)より抜粋した。)