2012年9月16日日曜日

第4章 マインド・タイム ‐ 意識と時間の不思議な関係-心理士への教訓

 精神療法を行なう際、「無意識と心の関係はいかなるものか?」は重要な課題である。それは特に精神分析的な教育やトレーニングを経験していない心理士にとっても同じであろう。わが国の心理士で、精神分析の影響を受けていない人のほうがまれなのだ。そしてその精神分析においては、無意識の探求はその根幹をなすといってよい。
 しかしBLの実験が示唆しているのはそれとは別のテーマである。それは「脳と心の関係はいかなるものか?」ということだ。ある瞬間に意思を発動したと思ったら、脳はそれより半秒前にすでに動いている。ということはその意思発動を準備し、お膳立てをしたのは脳である。その脳の働きの詳細は不明ながら、それが500ミリ秒前にさかのぼって活動しているという事実は脳波計により示されたわけだ。

 ここで心理士は尋ねるかもしれない。その500ミリ秒の活動は「無意識」の活動なのではないか。そうかもしれない。しかしそれは精神分析的な無意識というわけではない。それは抑圧された性的欲動や攻撃性とはおそらく別の種類の活動であり、意識的な活動の準備をし、それと不連続的につながるような無意識なのである。もしかしたら意識とは、それ自身は意識化できないような脳の活動全体の氷山の一角として理解するべきなのかもしれない。
 BLの実験は要するに、脳がさいころを転がし、意識はそれを受けて自発的にそれを決めた、と感じるということだ。手を動かす瞬間も、脳が命令をして、それを意識は「今!」と自発的に決めたと錯覚する。人はそうやって生きている。とすれば患者の話を聞く心理士も、その行動の一つ一つにあまり意味を見出しても仕方がない、ということになりはしないか?脳の決断の受け手としての意識。その意識に「どうして~したんですか?」とか「あなたが~した理由を考えましょう」という問いかけは、意識が言い訳をするという性質を助長するということになりかねないだろう。それよりはスタンスとしては、「あなたが~したことについて、何か思い出すことは?」と連想を広げたり、「あなたが~したことについて、今後はどうなさろうと考えますか?」と将来について一緒に考えたりすることが重要になってくる。そこには、脳という宇宙の仕組みを少しでも知り、それに翻弄されることなく生きていくための方策を考えるプロセスがある。
 BLの実験を知るようになってから、私はひとつ患者に話して安心してもらうテーマを増やすことができた。それは「私たちは死ぬ瞬間を体験しないですむ」ということだ。これを話すと安心する人は少なくない。
 10年以上前にニューヨークで起きた「911」の事件を今でも鮮やかに覚えている人は多いだろう。そして旅客機がビルに突入する映像を見て、それを操っているテロリストや、その乗客にわが身を置いたという体験がゼロの人はいないであろう。旅客機がビルの中腹に突入し、一瞬にして粉々になってビルの中に吸い込まれた。おそらく一秒の何十分の一かのうちに、人々の身体は、旅客機の機体とビルを構成している建材や中の家具、そして中で働いていた人々すべては、超高温で融合したわけだ。この苦しみを体験した人はいただろうか?たとえ一瞬でも?
 幸いにして答えは「ノー」である。なぜなら人はそれを体験するまでに約0.5秒かかるから。そしてその前に人は死んでしまうから。乗客に、そしてテロリストに最後に体験されたのは、突入の0.5秒前までなのである。
もし私たちの死の恐怖が、その直前の極限に近い苦痛を体験することへの恐れにあるとしたら、それから私たちは実質的に解放されている。たとえ高いビルからまっさかさまに落ちて地面に身体をたたきつけられるとしても、その瞬間を体験するときにはすでに私たちは死んでいるのである。体中の骨が一瞬にして粉々になる際の極限の痛みを体験することは絶対にない。
 最近たまたま「死に方のコツ」という本(高柳和江著 小学館文庫、2002年)という本を読んだが、なるほど評判になる本だけあり、死ぬことへの恐怖がかなり軽減されるような考え方がたくさん書いてある。そこに私はこのBLの教訓を付け加えたいほどだ。「死ぬ瞬間を体験することはあり得ない」体験することのないことを恐れる必要はないということだ。死ぬ瞬間を体験しないということは、ちょうど私たちが毎晩眠りにつく瞬間を体験出来ないということと同じである。