2019年6月7日金曜日

ゆらぎと心 ③


またフラフラとゆらぎのテーマに戻ってきました。(これもまた「ゆらぎ」です。)
まず本書の最初のテーマ(ナンのことだ!)として選ぶのがこの「ゆらぎ」という概念、ないしは現象です。「ゆらぎ」、とは英語のfluctuation の日本語訳です。水面がゆらぎ、風に揺れて木の葉もゆらぎます。心がゆらぐこともあるでしょう。すなわち普段ならだいたいひとところにとどまっているはずの物事が、時間の経過を追っていくと細かく、ないしは大きく揺れて、再びもとの位置に留まるような現象を「ゆらぎ」と呼ぶのです。大体同じところに戻ってくるというところがポイントで、その物事のだいたいの位置は定められます。大地震の後に余震が続き、いわば大地のゆらぎがしばらく治まらないことがありますが、大体は時と共にそれは収まり、大地は静かになります。(もちろん地震計には体感できないような微小の「ゆらぎ」は観測され続けるでしょう。)
「ゆらぎ」は自然現象にいくらでも見られ、私の心の在り方としてもそのような表現がなされます。いわばごくありふれた現象と言えます。しかしこの「ゆらぎ」がなぜ現在これほどまでの関心を集め、また複雑性理論にとって重要な意味を持っているのでしょうか?
 私は「ゆらぎ」に限らず、複雑性理論の面白さは、理屈ではなく感覚的なものと考えています。ですからこの「ゆらぎ」の面白さを感覚的にわかっていただくところから出発したいと思います。そのために私が最初にこの概念に出会って心を惹かれたいくつかのゆらぎの例を出してみましょう。その前にこの「ゆらぎ」のめんどうな「」は、ここからは外しましょう。) 
13 (省略)これは株価のゆらぎです。私は株の売買などの投資をしたことは殆どありませんので体験からは言えませんが、おそらく投資家の方なら、このゆらぎに特別の思いを持たれるでしょう。株価の少しの上昇、下降は、大勢の人がわずかの間に行ったその株の売買を反映しています。特定の個人にとっては、株を買った直後の上向きのゆらぎは儲けを、下向きのゆらぎは損失を意味することになります。そしてそこで株を売るか、買うか、あるいはそのまま持っているかの判断は、その後のゆらぎがどの方向に向かうかによって決めればよいのですが、決して誰も正解を教えてくれません。そしてそれだけにそのゆらぎの方向が気になるのです。私たちはよく思います。
「こんな風に時間とともにギザギザに推移して来ている。ということはこのぐらいの幅でそろそろ上向きかな?」
おそらくそうなるかもしれません。しかし時には予想以上に大きい幅で上向きに動いたりします。そしてそれ自体が今度は少し大きなゆらぎを形成していきます。つまり揺らぎは小さなゆらぎと大きなゆらぎの複合体のような動きをしているのです。不思議ですね。ここが規則的な振動との決定的な違いです。そして面白いのは、時間のスケールを大きくしても、小さくしても、依然として株価は「同じように」揺らいでいます。つまりそれは同じ程度のゆらぎ方を示します。つまりひと月ごとの株の上下は、一年とか10年のスケールで見れば平坦にならされている、という風にはならないのです。ここが揺らぎの実に不思議なところです。 
このスケールを大きくしても小さくしても、結局揺らいでいる、という性質は、別の章(ナンのことだ)で論じる「フラクタル」という概念と関わってきますが、ゆらぎの大きな特徴です。そしてその特徴は心理学的には「未来は予測できそうに見えて、出来ない」と言い換えることができるでしょうか。
以下に示す一連のグラフ(省略)は、いずれも様々な数値が時系列で見た時に揺らいでいることを示しています。気温、気圧、海水温、あるいは地震計の示す波形も揺らいでいます。そして私たちの体の体温も、血圧も、脈拍数も、脳波もゆらいでいます。どうやら生命体に限らず、自然現象もゆらいでいるという事は、生命を宿しているか否かという事とは無関係にこの種のゆらぎが起きていることになります。普通だったら私たちはこう考えるかもしれません。「小刻みな動きならきっと起きても当然だろう。でも長い目で見たらそのような揺らぎも打ち消されるはずだ。」ところが先ほども書いたとおり、長い目で見てもやはりゆらぎは見られます。長い目で見てもやはり自然は揺らぎ続けています。揺らぎ続けるどころか、ものすごい激震がまっていたりします。むしろそれが自然界の理(ことわり)とでも言わんばかりです。(たとえば地球の自転の速度は揺らいでいます。でもそれは何百年、何億年のスケールで追ったら平坦な動きになるのでしょうか?否。もしそのすべての記録がグラフになっていて、それを過去にさかのぼる事ができるなら、地球が今よりはるかに高速回転していた時代、あるいはさらにさかのぼって大隕石との衝突による月の形成、という激震が記録されていることがわかるでしょう。


2019年6月6日木曜日

AIと精神療法 推敲 ③


AIセラピストを妄想する

これまでさんざん厳密さとは程遠い議論を重ねた後で申し訳ないが、最後に空想力(妄想力?)をたくましくして理想的なAIセラピストについて書いてみる。緻密な論理を重ねられるほどに私の考えはまとまっていないし、参考となる資料も思いつかないのだ。また私の心の中にだけあるAIセラピストにいろいろな性質を取り込んでいくと、最後にはセラピストというよりはさまざまな能力を備えたパートナー、という感じになってしまうことをご了承願いたい。AIセラピストは、そのいわばマルチタスクのパートナーのセラピストモードだけをオンにした状態と考えていただきたい。(そんな不埒なことが、AIに関しては出来るはずである。)
一応AIセラピストにはロボットとしての形を与えておくことにしよう。もちろん仮想上の、ディスプレイにしか現れないセラピストというバージョンでも構わないであろう。その場合にはパソコンに入れたポータブルセラピスト、という事になる。しかし人によってはセラピストも動き回れる方がよく、触った時に心地よさが味わえることに意味があるかもしれない。つまりセラピスト言いながらもペットのような存在で、抱っこすることで身体接触の感じを味わえることが必要であろう。もちろんそんな治療者だと落ち着かないという人もいるだろうから、据え置きのフロイトの格好を模した「フロイトロイド」のような姿かたちにしてもいい。またついでに言えばAIセラピストは「自給自足」できるようにしてもらう。つまりクライエントとしては彼の面倒を見る必要はない。(もちろん購入という初期投資や月々のリース料は必要であろうが。)すなわちバッテリーが切れかけたら自分で充電場所に行き、エネルギーの補給をしてもらう。「フロイトロイド」なら常にコンセントにつながっていることになるだろう。もちろん排泄などの心配はないので、その意味での「お世話」をする必要がないだろう。
AIセラピストは基本的に二つの機能を担う。第一に現在のご主人、すなわちクライエントに関する情報をできる限り忠実に、バイアスなく伝えてくれることであり、第二にクライエントとの両方向性のやり取り、コミュニケーションを行うことである。もちろん両者は混ざりあって行われてもいいし、むしろその方が自然かもしれないが、とりあえず機能としては分けて考えておく。
まず情報についてである。ご主人に関する情報には、現在のAIが可能なあらゆる事柄が含まれる。体温や血圧や脈拍数、顔色や血色から判断されるストレスレベルや栄養状況、さらには貧血や黄疸など医学的なデータがそこには含まれる。それはクライエントを視覚的に捉えたり、場合によってはモニターを装着する形で収集される。もちろんそれらをすべて数値にしてクライエントに見せるわけではない。特に際立った、あるいは注意が必要な情報に限って、頃合いを見計らって伝えればいい。そしてそこにはクライエントのこれまでの医学データが背景にあり、そのためにAIセラピストが注意を向けるべき項目もかなりカスタマイズされ、的確になるかもしれない。男性にとっては、「加齢臭が少しきついですよ」とか「爪が伸びていますよ」、場合によっては「鼻毛が伸びすぎですね。」「社会の窓が開きっぱなしですけれど、そのまま外出はしない方がいいですよ」など、誰も直接に言ってくれないことをやさしく伝えてくれることもできる。目ざといAIセラピストなら、今日の靴下はもうずいぶん履いてますね。穴がそろそろあく時期ですよ。」と言ってくれるかもしれない。しかしこれらの指摘をうるさく感じる場合は、これらの機能をオフにすればいい。(もちろん「最近右目の横の小じわが4本から6本に増えました、とか生え際が○○ミリ後退しました、などを伝える機能は最初からオフの方がいい。私が特に言ってほしいのは、「シャツの襟がジャケットの襟からはみ出していますよ」という指摘である。時々職場について鏡を見て恥ずかしい思いをするのだ。)便利なことに、おせっかい度はクライエントが自分で調節できる。田舎のお母さんモードという選択が出来てもいいだろう。
以上はクライエントに提供する情報としてはかなり表層的な印象を与えるかもしれない。情報提供だが、もちろんこんな指摘をしてくれたら、いよいよセラピストのようになる。しかしクライエントがマイクロフォンを通じて自宅のAIセラピストに常に日中の言動の逐一を送るとする。(もちろんこの機能はオフにもできる。) するとそれに関するフィードバックはかなりセラピスト的になる可能性がある。
「今日の会議でのあなたの発言は、いつものあなたと少し違って相手に対する迎合度スコアが高かったですね。何か思い当たることはありますか?」とか、「今日は事務のAさんに対する挨拶の苛立ちスコアが若干高めでしたが、お気づきですか?」あるいは「あなたはBさんに対してはほかの人に比べて少し皮肉スコアが高くなっているというデータが出ています。」など。さらには精神分析モードを少し上げることで次のようなコメントも来るかもしれない。「今日の上司Cさんに対するあなたの言葉には、あなたがお父さんに対して持っている気持ちの転移が見られませんか?」(なおコメントに関しては、フロイトモード以外にも、コフートモード、などのオプションを有料でダウンロードできる。)あるいは「今日ご覧になった夢を教えてください。解釈はユング派にしますか?」などというのもあるだろう。
AIセラピストのいい所は、クライエントにとってはこれらの言葉が「他意がない」と考えざるを得ないことである。解釈にしても、患者さんの連想に対するそれぞれの学派の典型的な解釈の膨大なデータから割り出されるものであり、AIセラピストのバイアスは除外されている。というよりはモードの選択を自分自身で調節可能なので、「他意」を持ち込みようがないのである。という事はそこでクライエントが感じる「他意」とはその由来はクライエントその人という事になり、クライエント自身がそれを反省するべきことになるのだ。そのためにはクライエントはAIセラピストのデフォルトを十分に楽天的で支持的な状態にしておかなくてはならないだろう。もちろん好みに応じて、少し猜疑的になってほしいときは「猜疑モード」の目盛を上げることもできる。他のAIセラピストに相談するなどの「浮気」をした場合は少しはヤキモチを焼いてほしければ、「嫉妬モード」のレベルを上げるのもいいだろう。
さてAIセラピストとのやり取りに関する部分であるが、特に傷心で慰めが必要と感じるクライエントは、最初は「コーペイモード」をかなり高くしておく最大にしてみることから始めることを奨める。それこそ「生きててエライ!」「息をしていてエライ!」から始まるかもしれない。これで心が安らかになるならそれでいい。しかし大抵の人は、「馬鹿にされている気がする」という反応をするだろう。その場合は、「コーペイモード」のレベルを下げていく。すると、例えば起床時間が8時なのに9時に起床した場合には、「すごい、一時間以内に起きられたね!」と話しかけてきたり、寝坊したことは咎めずに単に「おはよう!」だけのコメントになる。こうしてあとはご主人にとって一番合ったレベルに下げていけばいい。もちろん虐められたい向きの場合には、「逆コーペイモード」もあるだろう。「ちゃんと起床できたからって調子に乗るなよ!」と声をかけてくるかもしれない。
ちなみにこの種のシミュレーションは書いているうちに想像をさらに掻き立てられることに気付いた。さっそく以下のような付記をしたくなったのである。まずAIセラピストは、朝外出する前に全身をスキャンしてもらう必要があるだろう。するとたとえば「あれ、今日はめがねがポケットに入っていませんね。お忘れですか?」とか「鍵を忘れていませんか?」「ジャケットのポケットが外に出てますよ」「ネクタイが曲がってますよ。」などと教えてくれる。女性なら「今日はアイシャドウが平均より5パーセントほど濃いですよ。」など。「気になるなら、口臭をチェックしますからセンサーに息を吹きかけてください。」も役立つ。またAIセラピストは「モニターをお忘れなく」と促すことを忘れない。これは小さなマイクロフォン、プラスセンサーで、血圧、脈拍数、さらには血糖値などもモニターしてくれる。するとこんなことも起きるかも。「どうも胸部大動脈からかすかな異音が聞こえます。ここ一月の間に、少しずつ大きくなっています。ひょっとして今日あたり解離性大動脈瘤の破裂があるかもしれません。」あるいは破裂の瞬間に自動的に119番に連絡してくれる。もちろんこれまでの医学データも即座に転送されるかもしれない。
さらにマイクロフォンは一日に自分が発した言葉はすべてデータとしてAIセラピストに送られる仕組みになっているため、上司との会話、友達との女子トークの一言一言が録音される。(ただしこのように集められるビッグデータについては、もちろん録音された相手のプライバシーを守るべきだとの議論も起き、社会問題化する可能性もあろう。)でもとにかくAIセラピストは忠実に、ご主人の言動についての目立った点をフィードバックしてくれる。そのうちカメラ機能まで付いたモニターが使われるようになり、まさにドライブレコーダーのようなものを個人が常に付けていることになる。そしてもちろんだが、少し酒を飲んで運転しようものなら「残念ながら、エンジンをかけることをストップさせていただきます。」と来るだろう。
仕事も助けてくれる可能性がある。会社での大事な会議。データをまとめて発表しなくてはならないが、上司の質問に詰まってしまう。ところが「ささやき女将」機能をオンにしておくと、極小のイヤホンから聞こえてくる。「頭が真っ白になって、どう答えたいいか判りません、って言うのよ・・・・」まあもうちょっと内容のある囁きをしてくれるかもしれないが。
 AIに精神療法は可能か、という依頼原稿に応じて書いているうちに、私自身はずいぶん整理されて分かってきたことがある。そもそもAIセラピストにさほど高尚な機能を求めなければいいのである。さらには人間の療法家も、いかに高度な脳の働かせ方を行っていても、その「効果」は常に来談者の側にある。さらには療法家の言葉も恣意に満ちており、来談者もその療法家の言葉のごく一部を、それも歪曲して受け取っている可能性がある。治療者の位置にAIロボットが置かれても、来談者の側がそこから多くのものを吸収していく可能性はそこにあるのだ。
更にはAIセラピストは、生身のセラピストに負けないような、あるいはそれを凌駕するような働きをしてくれる可能性がある。それはクライエントが「外からどう見えるか?」を伝えてくれることだ。そこに高度な機能を備えた人間の心は必ずしも介在しなくてもいい。だからこそ自分を映した一枚の写真に衝撃を受けて自分を見直すきっかけになったりするのだ。そして「どう見えるか」には観察者の主観が混じっていないことに意味がある場合が多い。あれほど精神分析で言われた中立性を持つことは、おそらく人は心を持たないAIにはかなわない。
心を持たないAIにはもう一つの特技がある。それは投影の受け皿として最適であろうという事だ。私は摂食障害を持つクライエントさんの話を聞くことがしばしばあるが、多くが思春期の頃に誰かから言われた自分の体形に関する心ないひとことである。それがトラウマのように心に突き刺さることで過剰なダイエットが始まったという話も聞く。しかし自分のBMIを冷静に伝える体重計は同じような意味でのトラウマを与えることはないであろう。
結局「AIには人間にとても及ばないが、代わりに果たす機能はある」という、最初に向かっていたはずの結論とはずいぶん違ってきていることに気が付く。AIにはAIの強みがあり、それは生きた療法家には決して果たすことのできない鏡の機能というわけである。しかしそれでも生身の人間のセラピストにしかできないこともたくさんあるはずだ。今度はそちらの方を真剣に考えなくてはいけなくなりそうである。



2019年6月5日水曜日

解離はなぜ誤解されるか 5


改めて「疾病利得」について考える

そう、結局このテーマに戻ってきたのである。「疾病利得」。この概念はおそらく現代社会でも根強く生き残っている。そして現代社会で疾病利得の問題が関わっていると言われているのは、「新型うつ病」であり、おそらく「発達障害」の一部である。そしてもちろんここに解離性障害も入ってくる。新型うつ病という呼び方や概念が流行を見せた時に、一番多く出版されたのが「本当はうつ病ではないのに、その診断を貰いたがる人たち」という考え方であった。
一つの例として中島聡先生の「心の傷」は言ったもん勝ち (新潮新書 2008) を挙げてみよう。要するに現代社会は「心に傷を受けた」と言ってしまえば、あとはやりたい放題という状態であるという。そしてうつ病セクハラパワハラ医療裁判痴漢事件などを例にあげて、被害者が優遇されすぎてはいないか、と主張する。彼の2017年の「新型うつ病のデタラメ」という本では、近年になり「日本人の精神力が弱まったこと」をこの概念の蔓延の原因の1つとして挙げている。そしてこの事情は一種の精神論にも結び付く。自分をうつ病と呼ぶ人は基本的には心が弱く、あるいは我儘である(病気ではない)という結論に行き着くのだ。この点は実に興味深い。病気と対極にある概念は「ワガママ」であり、疾病利得の利用という事になる。そしてそこにもし意識的、無意識的な「利用」の仕方があるとしたら、特に後者は心身症の典型的な機序として扱われる。
しかし振り返ってみよう。疾病利得が発症に関与している典型例として考えられた転換性障害は、DSM5ではその存在がうかがわれるという項目は診断から外されている。米国の精神医学を一つの例とする限りにおいては、疾病利得が発症に関連しているかどうかはいちおう「否」の決着がついた形になっている。「病気⇔ワガママ」の対立概念はもはや存在しない、という事になっているはずだが、現実はそうなっていない。
誤解を回避する意味で言うが、私は「疾病利得」が存在しないという立場とは全く異なる考えを有する。私はおそらく疾病利得と呼ばれるものはあらゆる疾患に存在すると考える。寒い朝学校に行くのが少し億劫な時期に発熱してしまい、母親が学校に休みの電話を入れてくれ、温かい布団にいることを想像しよう。心のどこかに安心した部分を感じる人はいるだろう。私たちが体験するあらゆることに何らかのトレードオフ、差し引きが存在する以上、疾病利得は必ず存在する。問題はそれが主たる原因で精神、身体症状が出るという私たちが持ちがちな考えはどこまで信憑性があるか、という事だ。そのような人たちは存在するだろうが、私たちが想像するよりははるかに少ないはずだ。そしてトラウマ神経症の概念が成立するまでにかかった途方もない年月を考える場合、「病気ではなくてワガママだ」という事がいかに私たちにとって気軽で容易なのか、という事である。(これは障害者年金や生活保護などの事情にも言えるのである。)

2019年6月4日火曜日

解離はなぜ誤解されるか 4


いまだに使われる「ヒステリー」という僭称

ところで最近でも「ヒステリー」という言葉は今でも使われるのだ。例えば次のような使われ方がある。
最近仕事に行けないという若い新入社員の男性。上司の指導の理不尽さを訴え、職場のブラック気質について話し、仕事をしばらく休むためにうつ病の診断書を書いてほしいという。しかし診察した様子からはその男性からは抑うつ的な印象は受けず、むしろ自分の思いを通そうとしているように思える。精神分析的なオリエンテーションを持つ医師はこうつぶやく。「うつ、というよりはヒステリーだな…。」

このような時に用いられるヒステリーは解離性障害についての記載ではなく、むしろ患者自身が持っているある種のスタンス、態度、ということになる。それは疾病により何らかの利得を得るという意図、すなわち「疾病利得」の存在ということになる。ここでトラウマ神経症が生まれるまでの経緯を、すなわち100年前のことを思い出そう。昨日も振り返った内容だ。トラウマは症状の発生には触媒的な意味を与えるだけであり、そこには「願望複合体wish complex」 が出来上がるのだとした。そのことがこの疾病を呈する患者の爆発的な増大ないしは流行を引き起こすことが懸念された。現在の見地からは戦闘体験や自然災害その他のトラウマにより人が精神を病むということ、そしてそれはその他の身体、精神疾患と同様にケアや賠償が必要であることには疑う余地がない。というよりそれを認めたうえで社会が成り立っている。とすればあの懸念はいったい何だったのだろう?
少し話を広げるならば、生活保護の制度についても同じことが言えるかもしれない。働けない人の経済的な援助を公的な機関が行うという概念は、それが成立するためには社会の成熟が必要となる。「ただ働きたくないだけの人がそれを悪用するのではないか?」という声を凌駕するだけの良識ある人々の声が反映される必要があるからである。
 もちろんここで「疾病利得」が存在したり詐病が混じってしまったりするという可能性は決して除外できない。戦闘体験を持った兵士の中には、実際には体験しない悪夢やフラッシュバックを訴え、無料で「治療」を受けたり休職が許可される人もいるかもしれない。あるいは実際には働けるにもかかわらず、精神を病んでいて働けないと称して保護費を請求する人もいるかもしれない。でもそれはその種の福祉制度を設けないという根拠にはならない。そしてそこにはその種の詐病や不正請求は私たちが想像するよりはるかに小さな割合でしか生じない。それにもかかわらず病者が「疾病利得」を得ることに対して過剰に警戒するとしたら、いったいそこに働く力動とは何だろうか?

2019年6月3日月曜日

解離はなぜ誤解されるのか 3


さてこのようにトラウマ神経症が学会でも認知されるようになったが、そのためにその後に大変なバックラッシュ、今で言う「炎上」を招いてしまうことになる。1889年にビスマルク政権が事故による精神的な後遺症にも賠償を与える法律を成立させた。今では普通のことである。ところが当時はこれをきっかけに、オッペンハイムは医学的、政治的な攻撃を受けることになる。そのとき用いられた言葉が「年金神経症 pension neurosis」である。これは賠償を求めて症状を示す患者が急増するという現象について用いられた言葉だ。つまり外傷神経症などの概念を提出したオッペンハイムに、「そんなことをしたら詐病を作り出してしまうよ」、というわけである。そしてその急先鋒に立ったのが、あるフレート・ホッヘという精神科医で、トラウマ神経症という概念がきっかけになって「神経的伝染病」が起きている、と言ったという。結局の賠償の法律は、1926年に覆されたというが、それまでの37年間はドイツではこの問題で大論争が引き起こされていたのである。実際には事故保険請求で精神症状が問題となる事例は精神、身体症状を示す患者さんの全体の12パーセントに過ぎなかったのにもかかわらず、そうなってしまった、とミカーリさんの本には書いてある。きっとホッヘ先生はちょっと性格的に難しい人だったのだろう。ホッヘ先生はこんなことを言ったとされる。「トラウマは症状の発生には触媒的 catalytic な意味を与えるだけであり、そこには願望複合体 wish complex が出来上がるのだ」。まあ、賠償金欲しさに人は「病気」になることが出来ると言いたかったのだろう。そして1890年のベルリンでの国際医学界ではオッペンハイムは集中砲火を浴びたと言う。ヒエー。ここからどうやって戦争神経症概念の成立、そしてはるか先の1980年のPTSDDSM-Ⅲ)の成立にまでつながっていくのだろう?そしてここからが面白いのだが、1890年以来、第一次大戦まで、トラウマ神経症はドイツ精神医学界では省みられず、代わってヒステリーと言う診断が用いられるようになった。やっぱりね。ヒステリーは「願望複合体」を持った人たちが勝手に作り出した症状、という誤解がこうやって助長されていったのだ。ただしこの動きは、男性ヒステリー概念を広めることになった。何しろ事故にあう人たちの大半が労働者階級に属する男性だったからだ。だからこの流れでシャルコーが、男性でも鉄道事故などのトラウマによるヒステリーが見られると主張したのだ。ヒステリーは男性にもみられる、というシャルコーの発見には、この鉄道事故その他の当時の問題がかかわっていたのだ。こうしてドイツではこのヒステリーの概念は1911年の「心因」というゾマーの概念にもつながっていく。
 ところでこの本を読み進めると、第一次大戦でシェルショックの概念が提出されて以降も、ドイツでのオッペンハイムへの攻撃は続けられていったという。この辺の事情はいったいどうなっていくんだろう。しばらく時間をかけてこの本を通読して、大体の流れを明日にでも続きを書いてみたい。

2019年6月2日日曜日

解離はなぜ誤解されるか 2


解離がいかに誤解されるか、という問題を探っていくうちに、私はヒステリーがいかに誤解されるか、そしてトラウマ関連障害がいかに誤解さて来たかというテーマに自然と移ってきた。実はこの問題が最重要だという気がするのである。それを教えてくれたのが、私の友人金吉晴先生のお訳しになった「トラウマの過去」(マーク・ミカーリ (編集), ポール・レルナー (編集), 、みすず書房、2017年)という本だ。これまで積んでおくだけだったが、実際に手に取ると実に優れた本だ。私が知りたいことがまさに書いてある。
そこに書かれている19世紀半ばのドイツの精神科医であるヘルマン・オッペンハイムの孤軍奮闘振りに非常に共感した。今までは私は名前しか認知していなかったが、実に涙ぐましい努力をした人だということが書かれている。写真も無断で載せてしまおう。
 
ヘルマン・オッペンハイム(1857-1919) 
それほどカッコよくないけれどカッコいい!
この頃の精神医学の流れを簡単に言えば、今でこそアタリマエのような概念になっているPTSD(心的外傷後ストレス障害)の概念が生まれるにはおそらく何世紀もの時間が費やされていたと言うことだ。それは戦争その他の災害により精神的な症状が出現するということが理解されるのがいかに大変だったのか、ということである。何しろそれを一般人どころか精神科医たちさえも信じず、疑い続けてきた過去があるのである。
オッペンハイムは1857年生まれであるが、これはフロイト誕生の一年後である。彼はベルリンのシャリテ病院で、鉄道、工場での事故のあとの様々な症状について目にする。そしてトラウマ神経症についての本を書いたのが1889年であり、この頃はシャルコーなどとも連絡を取っていたという。この頃はフロイトがジャネなどに先を越されないように「ヒステリー研究」のような著作を発表しなくてはならないとあせり始めていた頃だ。オッペンハイムは例に漏れず事故により中枢神経に目に見えないような器質的な影響があった可能性を考えたが、同時に精神的な部分についても注目した。シャルコーはこの当時、これをヒステリーと考えていたが、オッペンハイムはそれとトラウマ後神経症を分けるべきだと考えた。(今から考えると彼のほうが先見の明があったことになる。何しろ幼少時のトラウマに関係する解離=ヒステリーと成人後の外傷に関係するPTSDは当然毛色が違っているからだ。だがそのような区別は当時はまったくなかったのだ。)それから徐々に彼はベルリン大学に居場所を失っていったが、そのひとつの原因は彼がユダヤ人だった可能性も指摘されている。オッペンハイムはそれから大学を離れて臨床医となったが、これもフロイトに似ている。彼はそこで現在転換症状と呼ばれている症状について、それが「心因性」であることを告げて、患者にその真意を誤解されて猛反発されるという体験を持ったとされる。

2019年6月1日土曜日

解離はなぜ誤解されるか 1

 ヒステリーの歴史は誤解の歴史であるが、それには何か深いわけがあるのだろう。何しろ現在もこの「ヒステリーの誤解の歴史」は続いている。そしてそれは確かにある種の偏見や差別を伴っているのだ。解離への無理解もどうやらここに関係しているらしいことが想像される。そこで少し歴史をさかのぼってみよう。となるとやはり出発点はエレンベルガーの「無意識の発見」である。私はこれを常にアイパッドに入れている。

心は一つしかありえないという誤解

心はいくつかの部分により構成されているという考えをポリサイキズムPolypsycismと呼ぶ。(poly は複数、psyche は心の意味。) エレンベルガーの日本語訳にはどのように訳されているか知らないが、まあ私は「多心主義」訳したい。そしてその前段階にはディサイキズム dipsychism があったという。二つの心、という意味だが、これは「双心主義」あたりが訳としてはすっきりするだろう。マグネティズムや催眠の研究が人々を驚かせたのは、磁気睡眠 magnetic sleep を誘導すると、それまで姿を現さなかったパーソナリティが出現することがあることだった。そこで19世紀はこの話でもちきりだったのである。そして人間はそもそも上層部の意識と下部意識を持ち、下部意識の方は世界全体とつながっていたり、現在、過去未来を行き来することができるなど、さまざまな思想が生まれたという。
 そしてポリサイキズムという考えが生まれた。Durand de Gros という人の命名だそうだが、彼はずいぶん大胆なことを言った。彼は人の脳は解剖学的にいくつかのセグメントに分かれていて、それぞれが自我を持っているという。彼はそれぞれの自我が記憶を持ち、知覚し、複雑な精神作用を行うといった。しかし普通は「主自我 ego in chief」がそれ以外を統率する (少し違うけれど、基本的な考えは、まだに現代的である!) しかし催眠ではほかの自我にコンタクトを取れるようになるという。
 エレンベルガーがうまくまとめているのだが、「双心主義」はフロイトもジャネもそれに由来しているが、フロイトはポリサイキズムに移る際に意識、無意識、前意識という形をとった点が特徴であったという。でもこれでフロイトは満足してしまったのであろうが、実は全然「ポリ」になっていない。なぜならそれはある意味では一続きの建物が三フロアーに分かれている、と言った体(てい)だったからだ。本当のポリサイキズムだったら、一戸建てがいくつか並んでいなくてはならない。細かい点のように思えるが、解離を理解するうえで絶対的に必要だったのである。
 このように書くとヒステリーや解離に関する理論はすでに100年以上前に確立している。それなりに歴史を持っているのである。それらのになぜ誤解を受け続けるのか。

症状は意図的に作り出されらという誤解

 解離が誤解を受け続けるもう一つの問題がある。それは疾病利得という考えにまつわる誤解だ。つい最近書いた論文に、「心因反応」についてのものがあった。その中で転換性障害についての「疾病利得を求めたものである」という記載が、2013年のDSM-5になってやっと取り払われたという事情について書いた。この「患者さんがワザと症状を作っている」という先入観は精神医学という学問レベルで取り払われたのが2013年(わずか6年前!!)であるということは驚くべきことだろう。患者さんは注目されたいから症状を表しているという誤解、偏見は解離に常にまつわる問題である。そして歴史的には、これはいわゆる戦争神経症に関する誤解と深く結びついていた。いわゆる戦争神経症、現在のPTSDが示す華々しい症状は、「賠償を求めてるためのアピールだ」という誤解を常に受けてきた。