2019年6月5日水曜日

解離はなぜ誤解されるか 5


改めて「疾病利得」について考える

そう、結局このテーマに戻ってきたのである。「疾病利得」。この概念はおそらく現代社会でも根強く生き残っている。そして現代社会で疾病利得の問題が関わっていると言われているのは、「新型うつ病」であり、おそらく「発達障害」の一部である。そしてもちろんここに解離性障害も入ってくる。新型うつ病という呼び方や概念が流行を見せた時に、一番多く出版されたのが「本当はうつ病ではないのに、その診断を貰いたがる人たち」という考え方であった。
一つの例として中島聡先生の「心の傷」は言ったもん勝ち (新潮新書 2008) を挙げてみよう。要するに現代社会は「心に傷を受けた」と言ってしまえば、あとはやりたい放題という状態であるという。そしてうつ病セクハラパワハラ医療裁判痴漢事件などを例にあげて、被害者が優遇されすぎてはいないか、と主張する。彼の2017年の「新型うつ病のデタラメ」という本では、近年になり「日本人の精神力が弱まったこと」をこの概念の蔓延の原因の1つとして挙げている。そしてこの事情は一種の精神論にも結び付く。自分をうつ病と呼ぶ人は基本的には心が弱く、あるいは我儘である(病気ではない)という結論に行き着くのだ。この点は実に興味深い。病気と対極にある概念は「ワガママ」であり、疾病利得の利用という事になる。そしてそこにもし意識的、無意識的な「利用」の仕方があるとしたら、特に後者は心身症の典型的な機序として扱われる。
しかし振り返ってみよう。疾病利得が発症に関与している典型例として考えられた転換性障害は、DSM5ではその存在がうかがわれるという項目は診断から外されている。米国の精神医学を一つの例とする限りにおいては、疾病利得が発症に関連しているかどうかはいちおう「否」の決着がついた形になっている。「病気⇔ワガママ」の対立概念はもはや存在しない、という事になっているはずだが、現実はそうなっていない。
誤解を回避する意味で言うが、私は「疾病利得」が存在しないという立場とは全く異なる考えを有する。私はおそらく疾病利得と呼ばれるものはあらゆる疾患に存在すると考える。寒い朝学校に行くのが少し億劫な時期に発熱してしまい、母親が学校に休みの電話を入れてくれ、温かい布団にいることを想像しよう。心のどこかに安心した部分を感じる人はいるだろう。私たちが体験するあらゆることに何らかのトレードオフ、差し引きが存在する以上、疾病利得は必ず存在する。問題はそれが主たる原因で精神、身体症状が出るという私たちが持ちがちな考えはどこまで信憑性があるか、という事だ。そのような人たちは存在するだろうが、私たちが想像するよりははるかに少ないはずだ。そしてトラウマ神経症の概念が成立するまでにかかった途方もない年月を考える場合、「病気ではなくてワガママだ」という事がいかに私たちにとって気軽で容易なのか、という事である。(これは障害者年金や生活保護などの事情にも言えるのである。)