さてこのようにトラウマ神経症が学会でも認知されるようになったが、そのためにその後に大変なバックラッシュ、今で言う「炎上」を招いてしまうことになる。1889年にビスマルク政権が事故による精神的な後遺症にも賠償を与える法律を成立させた。今では普通のことである。ところが当時はこれをきっかけに、オッペンハイムは医学的、政治的な攻撃を受けることになる。そのとき用いられた言葉が「年金神経症 pension neurosis」である。これは賠償を求めて症状を示す患者が急増するという現象について用いられた言葉だ。つまり外傷神経症などの概念を提出したオッペンハイムに、「そんなことをしたら詐病を作り出してしまうよ」、というわけである。そしてその急先鋒に立ったのが、あるフレート・ホッヘという精神科医で、トラウマ神経症という概念がきっかけになって「神経的伝染病」が起きている、と言ったという。結局の賠償の法律は、1926年に覆されたというが、それまでの37年間はドイツではこの問題で大論争が引き起こされていたのである。実際には事故保険請求で精神症状が問題となる事例は精神、身体症状を示す患者さんの全体の1,2パーセントに過ぎなかったのにもかかわらず、そうなってしまった、とミカーリさんの本には書いてある。きっとホッヘ先生はちょっと性格的に難しい人だったのだろう。ホッヘ先生はこんなことを言ったとされる。「トラウマは症状の発生には触媒的 catalytic な意味を与えるだけであり、そこには願望複合体 wish complex が出来上がるのだ」。まあ、賠償金欲しさに人は「病気」になることが出来ると言いたかったのだろう。そして1890年のベルリンでの国際医学界ではオッペンハイムは集中砲火を浴びたと言う。ヒエー。ここからどうやって戦争神経症概念の成立、そしてはるか先の1980年のPTSD(DSM-Ⅲ)の成立にまでつながっていくのだろう?そしてここからが面白いのだが、1890年以来、第一次大戦まで、トラウマ神経症はドイツ精神医学界では省みられず、代わってヒステリーと言う診断が用いられるようになった。やっぱりね。ヒステリーは「願望複合体」を持った人たちが勝手に作り出した症状、という誤解がこうやって助長されていったのだ。ただしこの動きは、男性ヒステリー概念を広めることになった。何しろ事故にあう人たちの大半が労働者階級に属する男性だったからだ。だからこの流れでシャルコーが、男性でも鉄道事故などのトラウマによるヒステリーが見られると主張したのだ。ヒステリーは男性にもみられる、というシャルコーの発見には、この鉄道事故その他の当時の問題がかかわっていたのだ。こうしてドイツではこのヒステリーの概念は1911年の「心因」というゾマーの概念にもつながっていく。
ところでこの本を読み進めると、第一次大戦でシェルショックの概念が提出されて以降も、ドイツでのオッペンハイムへの攻撃は続けられていったという。この辺の事情はいったいどうなっていくんだろう。しばらく時間をかけてこの本を通読して、大体の流れを明日にでも続きを書いてみたい。