2019年6月2日日曜日

解離はなぜ誤解されるか 2


解離がいかに誤解されるか、という問題を探っていくうちに、私はヒステリーがいかに誤解されるか、そしてトラウマ関連障害がいかに誤解さて来たかというテーマに自然と移ってきた。実はこの問題が最重要だという気がするのである。それを教えてくれたのが、私の友人金吉晴先生のお訳しになった「トラウマの過去」(マーク・ミカーリ (編集), ポール・レルナー (編集), 、みすず書房、2017年)という本だ。これまで積んでおくだけだったが、実際に手に取ると実に優れた本だ。私が知りたいことがまさに書いてある。
そこに書かれている19世紀半ばのドイツの精神科医であるヘルマン・オッペンハイムの孤軍奮闘振りに非常に共感した。今までは私は名前しか認知していなかったが、実に涙ぐましい努力をした人だということが書かれている。写真も無断で載せてしまおう。
 
ヘルマン・オッペンハイム(1857-1919) 
それほどカッコよくないけれどカッコいい!
この頃の精神医学の流れを簡単に言えば、今でこそアタリマエのような概念になっているPTSD(心的外傷後ストレス障害)の概念が生まれるにはおそらく何世紀もの時間が費やされていたと言うことだ。それは戦争その他の災害により精神的な症状が出現するということが理解されるのがいかに大変だったのか、ということである。何しろそれを一般人どころか精神科医たちさえも信じず、疑い続けてきた過去があるのである。
オッペンハイムは1857年生まれであるが、これはフロイト誕生の一年後である。彼はベルリンのシャリテ病院で、鉄道、工場での事故のあとの様々な症状について目にする。そしてトラウマ神経症についての本を書いたのが1889年であり、この頃はシャルコーなどとも連絡を取っていたという。この頃はフロイトがジャネなどに先を越されないように「ヒステリー研究」のような著作を発表しなくてはならないとあせり始めていた頃だ。オッペンハイムは例に漏れず事故により中枢神経に目に見えないような器質的な影響があった可能性を考えたが、同時に精神的な部分についても注目した。シャルコーはこの当時、これをヒステリーと考えていたが、オッペンハイムはそれとトラウマ後神経症を分けるべきだと考えた。(今から考えると彼のほうが先見の明があったことになる。何しろ幼少時のトラウマに関係する解離=ヒステリーと成人後の外傷に関係するPTSDは当然毛色が違っているからだ。だがそのような区別は当時はまったくなかったのだ。)それから徐々に彼はベルリン大学に居場所を失っていったが、そのひとつの原因は彼がユダヤ人だった可能性も指摘されている。オッペンハイムはそれから大学を離れて臨床医となったが、これもフロイトに似ている。彼はそこで現在転換症状と呼ばれている症状について、それが「心因性」であることを告げて、患者にその真意を誤解されて猛反発されるという体験を持ったとされる。