これまで自己愛の関連でいくつか書いている。一番最近のものが,「突発的な怒りの精神病理」(こころの科学148 p70-79, 2009.)も同様のテーマを扱った論文だ。このような特集を企画している人は,過去の同様の特集の執筆者を見ているのだろうが, 過去の私の3論文、つまり「怒りについて考える―精神分析の立場から」(児童心理 9月号,1181-1185,2006)「怒りが発散されるとき、暴発するとき」(「児童心理」No.866 pp. 17-23 2007年)
「恥の倫理から見た自己愛問題」 精神療法 33:36-40,2007.の内容を見てのことだろう。そしてこの「突発的な怒りの精神病理」もそれらを踏襲している。だんだん新しいアイデアはなくなって,この論文では,失敗学が出てくる。つまり怒りの暴発とは,基本的には「抑圧―発散モデル」と「自己愛モデル」に従うが,個々の怒りのエピソードにおいては,何がどう働くかは,予測不可能だ,ということをいっている。
実際私たちの自己愛が,いつどのような形で傷つきを体験するかは,最終的には予測不可能なところがある。私たちは「自分は~だ」というイメージを持っている。しかもしれが対人関係の中で微妙に構造化されている。だから同じことを同じ調子で,しかし自分よりすこし年下の人から言われるだけで,瞬間的な恥→怒り,という反応が起きる。そしてその際何がその人の逆鱗に触れるかは,簡単に予想がつかないことがある。
このことから一つ展開できるとすれば,自己愛の問題と年齢、ないしは発達段階の関係である。私はかねてから,自己愛パーソナリティだけは,発達の後半になって現れる,と主張している。これが例えばBPDだと,若い頃はその兆候がなくて,人生の後期にそれが明らかになる,ということはまずありえない。しかし自己愛の問題は,それこそその人が人生の成功を収め,社会的な地位を得て,その後に生じることがある。ある組織の長になり,そこから暴走するということがある。
この現象を私は「自己愛のフリーラン」と呼んでいる。曰く:「自己愛は,通常はその人に与えられた地位,名誉,財産の許す限りにおいておかれたその際は,上記の「自分は~だ」という定義がどんどん肥大して良く可能性があるのだ。<このテーマを今回は広げようか。>