「恥と自己愛」、ということで注文が舞い込んだ。もうだめだ。夏の間に4本書く事になってしまった。自転車操業とはこのことである。もはや快楽とかPES(快楽査定システム)どころではない。といって「恥と自己愛」に新しい問題意識はない。ということで、このブログは、なくてはならないものになってしまった。ここに書くことでしか、考えを先に進ませることができないのである。
それにしてもどうして注文を断れないのだろうか? 書くということは基本的に私にとっては無害なことである。注文に応じてかくということがなければ、おそらく私は本を読まない。快楽について、PESについてボーっと考えているだけで時間が過ぎてしまう。そしてこのテーマは本当に、論文や本の形が見えてこない。そのことを自分でよくわかっているからだろうか?
「恥と自己愛」ということですこし言いたいことがある。先日某学会の委員会があり、私はそこで素朴に感じたことを口にしてみた。すると多くの委員達に笑われ、実に恥ずかしい思いをしたのであるが、後でメンバーたちからは、私が口にしたことは結構良かったという反応をいただいた。結局皆頭では考えても、気恥ずかしいから口にしない、ということを私は口にしたようである。
私たちはちょっと間が悪い、格好がつかない、人から変に思われる、ということに極めて敏感である。私たちの社会生活のほとんどは、自分がそのような事態に陥るのを避ける耐えにエネルギーを費やしている。「恥」はまさに私たち人間の社会生活を支配しているのだ。それなのになぜあまり論じられないのか?それはその恥の感覚について論じることそのものが恥の感覚を生むからだ。
一方自己愛についてはどうか?自己愛は少なくとも精神分析のテーマとしては非常にしばしば論じられる。人は自己愛について語ることには「恥」の感覚が伴わないのか?
例えて言えばこんなことだろうか?皮膚のたるんだ裸を見られるのは恥ずかしい。シミだらけな顔や、荒れ野のような頭皮を見られるのは恥だ。でもそれを隠し、自分をより良く見せる方法について話すのは悪くない。ファッションについて、服装について、ヘアスタイルについて、つまり人は恥を避け、自己愛を満たすテーマについて語るのが好きだ。
そうか。私の「恥と自己愛の精神分析」が売れない理由がわかったぞ。しかし実はこの本ほど「もう手に入らないのか?」と問われる本もない。今回出版してから10年以上たって岩崎学術に100冊ほど限定で刷っていただいた。(このブロクで宣伝させていただいている。)恥の問題は皆心のどこかで捉え、決して自分からは論じない類のテーマなのだ。みな笑われるのが嫌だから・・・。
今回とある心理関係の刊行物で「自己愛」を扱うらしい。企画者は私に恥と自己愛というテーマで振ってくれた。ありがたい事である。私がほそぼそとこのテーマを論じ、ゼミ生の●●くんと××くんはなんとこのテーマを追ってくれている。(先生は嬉しいよ。)私もせいぜい「精神科関係の恥といえば岡野である」と紛らわしい言い方をされないように気をつけながら、このテーマについて考えたい。(例によって一週間くらいか?)