2010年6月14日月曜日

自己愛のフリーランをどうするのか?

もうそろそろ自己愛のテーマはおしまいにしようと思う。もうあまり新しい展開はないことが書いていてわかった。これまでの内容をもとに原稿にするしかないが、今回少し広げておきたいのが、「自己愛のフリーラン」の問題である。書いていて思ったが、自己愛のフリーランは、人をますます恥知らずにしていく過程である。それが自己愛と恥の密接なはずの関係との対比で面白いと思ったからだ。
聖路加などで医者を見ていると、つくづく面白い。今日も隣の耳鼻科の前を通ると、私の目の前をいきなり男が出てきて横切って行った。白衣の前を開けたままで体をそびやかし、両腕を振り、病院内で上着のボタンをすべてはずし、肩で風を切って歩くようなその姿は、医者以外にはありえない。といってもまだレジデントのレベルではおとなしいが、シニアになるに従ってその姿は「偉そうに」なる。確かにその男は聴診器を下げていたから間違いないだろう。病院で一人偉そうにしている医師たち。どうしてこんなに分かりやすいのだろうか。
ここで何が「偉そうな」ふるまいの特徴かを考えてみる。それはおそらくプライベートな生活で取るであろう態度や姿勢に近づいた状態と考えることができる。社会の中で自分より「格が上」の人たちに交じり、服装などもきちんとし、小さくなって目立たずにいる状態から始まって、次第に地位を得て、そのような気遣いを失っていくプロセスを考えてみよう。自分が地位を得て病院での主人公になっていくこととは、そこで服装なども気にせずに我が物顔でリラックスして過ごすことである。肩で風を切っているかのような耳鼻科医は、むしろ自宅で一人でリラックスして気兼ねなく歩き回っているのと同じなのだ。自宅では「肩で風を切って」も跳ね飛ばすことを心配するような他人ははいない。白衣を着てもまた脱ぐ手間を考えたら、ボタンだって外すだろう。誰でも自宅でのくつろいだ振舞いを公的な場で見せたら、ものすごく「横柄」になるのだ。すると自己愛のフリーランとは、主観的には「徐々にくつろいだ振舞いをする」という体験であり、そこにさして後ろめたさや罪悪感を引き起こすような代物ではないかもしれない。彼らにとっては少しずつ気楽にふるまうようになるというプロセスに過ぎないのだ。
この変化を私が「フリーラン」と呼ぶのは、フリーランとは要するに自分自身に快適な形で少しずつ自らの態度や振る舞いや行動がずれていく現象だからだ。フリーランの例としては睡眠リズムがある。被験者に一切時間のキューを与えずにいると、どんどん就寝時間が遅くなっていくのだ。そしてそこには「~時までに寝なくてはならない」という規制が少ないか、または存在しないという条件がある。自己愛のフリーランを「リラックスして我が物顔でふるまうようになるプロセス」と表現したが、こちらの方も同様である。それを注意したりたしなめたりするような人がいないことが原因なのだ。白衣の前をはずしても誰もとがめない(あるいは他の医者もそうしているから、それがむしろ普通なのだ!?)というレベルのことからフリーランが始まる。そう、歯止めが効かないところで人はどんどん楽をするようになる、というのがフリーランであり、自己愛のフリーランも同様である。とするとこれは誰にでも起きることなのだろうか?どんな謙虚な人間も力を得れば横柄になり、自己愛的になっていくのだろうか?
ところでこう書いている私も医者であり、「医者は権威を持っている」というような表現はもちろん抵抗がある。自己愛のフリーランを批判するかのようなことを書いている私も、やはりそれを起こしている。例えば私は診察中などの姿勢がとても悪い。英語で言うslouching をしてしまう。すごく悪い癖だと思うが、直せない。衣服がだらしないのは、実は「地」であり、フリーランとはあまり関係ない。独身の頃はもっとひどかった。若いころはスーツやジャケットを着込んで患者と会うのは権威的だと思っていたから、アイロンのあたっていないシャツにジャンパーを着込んで病棟に出ていたりした。(これは別の意味でのフリーラン、だらしなさのフリーランか?)