2026年1月31日土曜日

ショア書評 ⑤

 6章 アタッチメント、感情調整、発達途上の右脳 (ほぼ省略)

(288)母親の新生児に引き起こす陽性感情が重要である。「母親が申請時に対して引き起こす要請感情は、人間の行動の感情の風景の中で最も強力で進化的に保存されている陽性感情の一つかもしれない」。つまり母親は乳児の陰性感情を抑え、陽性感情を増幅するという意味での調整を行っているというわけだ。← 支持療法の直接的な根拠付けと言えるのではないだろうか?

7章 ゾウはどのようにドアを開けているか? (省略)

8章 アタッチメント外傷と発達途上の右脳

(315)ジャネの貢献についての記載あり。彼のいう精神レベルの低下は、統合能力の低下を意味する。またジャネは「心的エネルギーの欠乏が解離を生むといった」とも記載されている。これは要するに副交感神経過多のことであろう。そしてその根拠としては、激しい情動が情動覚醒を維持できず、体験は統合されずに無意識の固定観念(岡野:トラウマ記憶か?)として残る。

(316)VDK、VDHさんらの記載。

「激しい情動を体験すると、その恐怖体験を既存の認知スキームと一致させることが出来なくなり、その結果体験の記憶は個人の意識に統合されず、代わりに分離(解離)される。」

ここにはおそらく、極度の扁桃核の興奮が海馬を抑制するという例のメカニズムが働いているのであろう。

(320) 通常は誤調律は必要でそれに続く「双方向的修復」で乳児はストレスとなる陰性感情に対処できるようになる。(岡野:PEMの話と同じだ。現実により訂正されることで、それを受け入れられるようになっていく。受け入れることの幅がどんどん増えていく。歩けるようになるためには転ぶ必要があるということだ。)

(320) ここでどの程度陽性感情を維持でき、どれだけ陰性感情を早く修復できるかが重要である。

(323)ジャネの言う心的エネルギーの欠乏とは、副交感神経の活動過多のことだ。

(325)D型の愛着などは、交感、副交感の同時の活性化だと言う。親に向かって後ずさりするといった状態。
(328)そのようなときに、母親も恐怖―戦慄の表情を見せる。この指摘も重要。

(332)PTSDの過剰覚醒も、解離も、両方とも右脳の関与を伺わせるだという。

(334)解離においては右半球の前頭前野と辺縁系が中心となって反応している。


9章 BPDは右半球障害か?

BPDも概ね右脳の問題として説明することになるという。
(386)BPDの生まれる機序としては、右脳の高次制御の欠如と右の定時皮質の低次レベルでの攻撃的な状態の増大」である。

  (396) 右脳の成長は遺伝子にばかり依存はしない。「特に母親との環境のエピジェネティックな経験により永続的に形作られる」。つまり経験依存的なのだ。


第10章 ボウルビィの進化的適応環境

圧巻の章である。(403)ボウルビイの進化的適応環境(EEA) という概念が現在の右脳を中心とした発達といかに関連しているかを論じている。

(412) 定型発達では右半球のミラーニューロンシステム(島皮質を介して大脳辺縁系と相互作用する)を頼ることによって、模倣した情動の意味を直接感じ取って理解する」

ちなみにΦとは結局ミラーニューロンのことなのだろう(岡野)

(413) ポージスによれば、右脳の発達は副交感神経とも深いつながりがあるという。

(416) OFCの成熟は、生後一年目の最後の四半期から2年目の中頃にかけてが臨界期である。「この腹内側前頭葉辺縁系構造は、扁桃体、島皮質、および前帯状皮質の他の辺縁系領域と相互に接続されている。

(417) 母親の前帯状皮質は、産後に再組織化される!!!

(419) 2年目の遅れた父親の関与の重要性!!そしてそこで養育を多く行っている父親程テストステロンのレベルが低下しているという!!。


2026年1月30日金曜日

ジャネ書評 ⑤

 第8章 PJのホリスティックプロジェクト ①

(161)少なくともジャネはいわゆる「ポリサイキズム」にくみしていたとみられる記述。「脳内で生成されるすべての心理的現象は・・・・あるいは多少なりとも完全にグループ化され、新しいシステムを作る傾向がある(Janet, 1901, p492 )」

(163) 統合不全 désagrégation と解離 dissociation を混同するべきではない、とある。前者の特別なものが解離 dissociation という理解であろう。


(167)フロイトのジャネ批判。彼はジャネの考えである患者の基本的な脆弱性、個人的綜合の低下という考えを受け入れず、患者が薄弱だから意識の分裂が起きるのではない。そう見えるだけだといった。

(168) 解離の理論への注目は、Lenius らの研究の影響が大きかったことが改めて強調されている。ある実験では、トラウマ的な脚本を聞いた被検者の70%が心拍数の上昇を見せ、30%が低下したという。


第9章 PJのホリスティックプロジェクト ②


(176)心理的緊張という概念について。ジャネもこの概念の限界に気が付いていたという。この概念は一定の複雑さを保ち、秩序と総合を生み出す力、という意味。しかしこれだけでは足りないと思い、心的力という概念を付け加えたという。


11章 トラウマを抱えた患者との催眠療法的関係 (OVDH、Cathy Steele) 

フロイトの転移に近い考えを、いかにジャネがより徹底した形で唱えていたかが書かれている章。サルペトリエールのジャネの患者たちが慢性のトラウマを抱えていたという事実、それに対してジャネがどのように治療的な手を差し伸べるべきかについても記載されている。(210)この部分を読むと、よく出てくるトラウマ治療の3段階説がおそらくジャネ由来であること催眠術師への依存がモルヒネ依存と同等の強さを持っていたという事情など、現在の私たちからは想像できない事ばかりである。


第12章 「トラウマ後ストレスの治療」は、バンデアハートとバンデアコークというトラウマの世界での二人の偉大なオランダ人による共著である。これを読むと、ジャネがいわゆるトラウマケアの三段階説、つまり①安定化②トラウマ記憶の扱い③再発予防、人格の再統合、リハビリテーションを先取りしていたということがわかる。(233)彼はその意味ではPTSD(彼の時代にこの言葉はなかったが)の治療論を唱えた最初の心理学者であったことがわかる。その中で興味深いのが②であり、トラウマ記憶を扱うことの難しさにジャネが取り組んだ様子が書かれているが、彼が行ったいわゆる「代用法」すなわちトラウマ的なイメージを中立的、ないしは肯定的なイメージに変えるという試みが興味深い。ジャネは催眠を用いてトラウマ記憶にさかのぼり、例えば幻覚的なトラウマ的イメージを花が咲いている絵に置き換えることに成功したとある。これについては Richard Kluft などによる、「トラウマを否認するプロセスへの加担だ」というネガティブな評価があるものの、ジャネの治療的な試みとして評価すべきであろう。

なおジャネの概念の中で理解の難しい心理的力と心理的緊張についての解説もありがたい。

心理的力 利用可能な精神的エネルギーの総和

緊張 エネルギーの組織化のレベルと、有能で創造的かつ内省的な活動を行う能力


2026年1月29日木曜日

ショア書評 ④

 第4章 右脳の感情調整 

(152)ショアの業績の一つの特徴は自分の研究をフロイトに基礎づけていることである。フロイトが論じていた無意識は要するに右脳の暗黙的自己なのだ、という提言がそれである。これがすなわちショアの「全方位外交」的アプローチである。

第5章 治療的エナクトメント

もっとも楽しみな章だ。しかも数十ページも続く途方もない長さである。ショアはブロンバーグらにより更新されたエナクトメントの概念はパラダイムシフトと一致していると言い切っている。これはどういうことか。つまり意識的認知から無意識的情動へと関心が移ったこととエナクトメントの概念は関係しているという。彼はこれを「情動革命」と呼ぶが、要するにエナクトメントは「無意識の強い感情」の表出であるという。彼はフロイトの無意識=右に局在化された「情動脳」がその生物学的基盤だとした上で、以下のように主張する(199)。「エナクトメントは、初期に形成された右脳の自動的生存メカニズムのリアルタイムでの再現を表す」。つまりエナクトメントは常に情動脳の興奮を伴い、その程度によりその深刻さが表されるのであろう。ショアはこれが右脳に局在化された皮質―皮質下系に関与するという。そして内側側頭葉の右皮質下過程もそこに関与し、そこにこそ情動的な記憶が保存されるという。そしてその上でエナクトメントは、関係外傷に到達するための手段だというのだ(200)。

以下、いくつかの重要なポイント。

(201)知覚と認識は後右皮質半球の側頭頭頂野により処理されるが、それがトラウマによりダメージを受ける。そこには精神的苦痛が深く関係し、知覚体験を変化させてしまう。ブロンバーグのいう象徴された次元のコミュニケーションとは高次右皮質系、象徴されていない次元の準象徴的コミュニケーションとは低次右皮質下系が関与し、その両者が切断されている状態が解離である(202)。従って解離は右半球の機能不全の変化と関連している(204)。「最近の臨床家は、エナクトメントは特に解離に関係しているとする」(204←ショア自身はあまりこのことを明言していない。)

(206)そして治療が進むと解離性防衛が働かなくなる。

眼窩前頭皮質(OFC)は皮質で処理された外界からの情報と皮質下で処理された情動ないし身体的自己状態を統合する場所である(219)。

エナクトメントは、皮質(OFC)-皮質下(扁桃体)の再接続を可能にする可能性がある(220)

エナクトメント中に、深いPI(投影同一化)をキャッチするためには、治療者はOFCをオフラインにする必要がある(220)つまり一種の解離を起こさなくてはならない。それを起こすことにより患者からのコミュニケーションを受け取れるということ???


(230)エナクトメント中には、共感的共鳴を維持することは無理だ!!
(230)エナクトメントが起きるということは、彼らがまだ「感じて」いない何らかの根拠である可能性がある

(233~4)エナクトメントも一種の解離が起きる事になるが,それは前方向性を有するのだ。

OFCとは要するに前意識だ。

(239) 小さな課題は左脳、重度のストレスは右内側前頭前野の刺激。多少のストレスなら左脳で解決する。それは通常慣れ親しんだ状況下で確立した行動パターンを制御することに特化している。(他方では右半球は情動覚醒の主要な場所である。)
(243)エナクトメントでは、凍結されていたトラウマが復活する。

(247)よく出てくる耐性の窓の図。調律することで、耐性の領域の幅を示す白い枠の縦幅が高くなるのがポイントになる。つまりここでは治療者と患者が調律、同期化出来ているという事が大事である。時系列的に言えば、最初は興奮を伴う「上の方」の窓で対処できていたが、それでだめだと「下の方」(解離的な枠組み)が優勢になる、ということだ。あるいは上の窓が狭いとすぐ下の方に行くという風にも言えるであろう。そして窓を広げるためには、多少なりともストレスが必要ということだ。それは(244)ブロンバーグが言っている。ただしそれはトラウマを生の形で思い出させるというのではない。それをプレイフルネスの中において生じさせ、耐性の上限に対するチャレンジが多少なりとも入ってこなくてはならないということなのだ。

(245)二つの治療のモダリティが示される。ここでも二つの耐性の窓でのワーク。上では関係的虐待の経験の記憶処理、下では関係的ネグレクトに関連した記憶処理を行うという。


2026年1月28日水曜日

レマ書評 ④

 第1章 羨望と母体  最近非常に頻繁に行われることの多い美容整形がテーマに掲げられている。(42)美容整形の手術を求める人たちのメンタルヘルスの有病率が高いという所見は確かに気がかりなことだ。しかしもう一つ重要なことは昨今のSNSばやりでバエることが再生数にもつながるとしたら深刻なことだ。しかし考えてもみよう。今やバーチャルな形でいくらでも整形(加工?)が可能なのだ。それにそれを問題視するなら、お化粧はどうなのだろう? これ程公認され、それどころかマナーの一種とさえ見なされているという事が本書では触れていないのは面白いと思った。何しろお白いなどの顔に塗料を塗るという風習は整形の原初形態であり、それこそ時代と文化を超えて存在していたのである。  私はこの身体の問題については、自分の理解や自覚は不十分であることを本書を読みながら痛感したわけであるが、それでもこの章で私が違和感を持ったのは、例えば次のような表現だ。(48)「美を追求することは、身体をデザインしなおすことで自己を誕生させるという万能感をエナクトする方法であり、それによって他者(母親)や、ひいては「欲望の対象」に依存する体験から逃れる方法であった。」これってあまりにブンセキ的ではないだろうか?私は整形は一つの変身願望であり、自分の殻を破る行為であると思う。もちろんそれは一歩間違えればBDDの様に底なしの闇に足を踏み入れることになるかもしれないが、それ自体は程度が軽ければ一種の「遊び」に近い。新しい技を覚え、新しい服を着、新しいファッションに身を包むという行為は、それほど病理的に考えなくてもいいのではないか?おそらく同程度の「遊び」は言葉の使用にも通じる問題だ。人は軽い嘘や誇張をしばしば用いて自分をより正しく、美しく、強く見せようとする。この遊びとしての化粧⇔深刻で自己破壊的な整形手術への希求というグラデーションがあるのではないか、という事なのだ。

第2章 いったい誰の皮膚なのか

 レマの身体への関心は、まなざしというテーマにも向けられる。他者の視線も、自己の視線もその向けられる先は身体を含む。他者の視線が自分を飲み込む性質のものならば、それは去勢してくる存在でもある。この章で登場するBさんという男性のクライエントは、屍姦幻想という事で他者を死者とみなすことで女性に入っていくことが出来たのである。屍姦幻想にまで至るというのは極端かもしれないが、母親のまなざしの問題は、臨床的にこれほど重要なものはない。飲み込んでくるような母親の視線の由来は、間違いなくそれが愛着の時期の最初の対象であったことの名残であろう。母親はその時、子供を自分の延長と考えている。子供が母子が密着しており、対象として意識されず、母親と「地続き」であると体験するのは、母親の側としても同じなのであろう。そして母親の感情は子供のそれとして同一視される傾向にある。ところが母親の側の「地続き」が強烈で、子供の側の感受性が強いと、これがフラッシュバックしてしまう。例えば父親のことをさして「お父さんはうそつきの悪魔のような人よね」と母親に言われて、娘はそれに対して抗いようがないと感じる。すると父親に対して優しい感情を持っていても「そうよね」となる。これは別の人格の形成につながることになるだろう。他方ではASDの「軽い質量の自己」は吹っ飛んでしまう。するとどちらにも偏らない人にとっては、母親の存在はその者がトラウマになりかねないのだ。


第3章 純粋な決定の秩序

 本章はサイバースペースに生きる若者という現代的なテーマを扱う。患者の一人がいみじくも語っているように、サイバースペースは自分が身体を持った、受肉した身であることbeing-in-a-body (ちなみにこの訳はハイデガーの「世界―内ー存在」に準じて 身体―内―存在)としてはどうか?)を忘れさせてくれる空間であり、非常に居心地がいいものの、それは偽りの空間であり、いずれは現実に引き戻されざるを得ない。患者の抑うつもちょうど家から出られないが外出せざるを得ない患者の苦悩を語っているようである。

(93)「アバターという仮面が与える匿名性の錯覚のせいで、人々はしばしば自分自身について通常の場合よりもはるかに多くのことをオンラインで開示する…オンライン上での交流は、一部の傷つきやすい人々に、想定外に剥き出しになってしまったと感じさせる可能性がある」とこれまた警句である。アバターという仮面が与える世界を楽しみ、遊ぶことは、おそらく現代の世界では不可避的である。昔ではできなかったことが出来てしまうことで、私たちは確実に違う世界に生きている。そしてそこでの規範、それに則ったうえで享受できるもの、そして危険性を一つ一つ体験しながら学ばなくてはならないのであろう。

第4章 過去なき現在

「思春期の性的移行における時間的統合」という副題がついているが、より正確には、「その破綻」である。ここに登場する「自分は男の子の身体に閉じ込められていた女の子だと確信していた」ポーラのケースは性再適合手術を受けた後も「手術前には何もなかった。自分の人生はクソだった」(133)とし、いわばそれ以前の人生を全否定するようなことを言う。そのようなケースの場合には手術を受けることが新しい人生を手に入れることにはつながらず、その意味で手術後も過去の人生との連絡が必要であることを示したケースと言える。愛着の問題に根本の問題があった場合、そのようなトランスセクシュアルなケースをどのように扱うかについて改めて考えさせられる章である。

2026年1月27日火曜日

ジャネ書評 ④

 第6章 ジャネからフェレンチ、ブロンバーグへ

(119)フロイトが解離の発見をどうして放置したかはいまだに解明されていないという。ジャネの貢献は「精神力動診断マニュアルPDM-2)に反映されている、という事だがこの本、案外手に入れにくく、調べられていない。

(121~124) フロイトは意図的な抑圧によって無意識内容を作り出すという説明。どうやらこれが解離と抑圧の違いのエッセンスと言っていい。そしてこれがフロイトが解離を否定する源になっているのだ!!!! (124)「これらの罹患によるヒステリー症例における意識の分裂は、意志や意図に端を発するものである。‥…しかし実際に起きることは患者個人が意図する事とは異なっている。・・・その人にできるのは、その表象を心的に孤立させることだけなのである。」

(ちなみに私(岡野)はフロイトに問いたい。「という事は、解離や抑圧は意識的な活動の産物でしょうか?」これにフロイトは答えられないであろう。なにしろ意思や意図、と言っているのだから、意識的な産物というしかない。しかしそれが無意識内に抑圧されるのに抑圧したことを意識している、とは矛盾してはいないだろうか?これが一番抑圧理論の一番悩ましい点なのだ。)

(126)ジャネの心理的統合不全 désagrégation psychologique は要するに高いレベルの意識が備わる綜合的で統合的な高次の機能(=現在化 presentification、現実機能 fonction du réel )とは正反対のもの)=意識野の狭窄、と考えてよいだろう。

(126) Liotti のまとめは完璧である。ジャネは、(意識のスプリッティングは)激しい情動で心が機能欠損になるためと考えたが、フロイトは自我による能動的な防衛だとした。これはえらい違い。もっと言うと解離は防衛ですらないであろう。心はダメージを受けているからだ。

(137)ブロンバーグの思考もほぼショアらの考えに近い。彼は通常の解離と病的な解離を分け、後者に関しては「早期の関係性トラウマが逆行性健忘を引き起こし、象徴的な形を欠いた身体的記憶は、意識的かつ明示的な形で表現され得ず」・・・それを「津波の影」と呼ぶ。そしてそれを表すのがエナクトメントであるというのだ。

第7章 ジャネのフロイト批判

ラッセル・ミアーズは、フロイトとジャネを両立させる立場らしい。

(144)ジャネ自身のフロイト理論との違いに関する主張は3点あるが、一番大事なのは、解離は受け身的、抑圧は能動的ということである。(146)これに関連して、フロイトは「意識内容の分裂は患者の意志の努力の結果である」とする(1984)。トラウマ後の解離は防衛であり、何かにより動機づけられた心的規制を示すというのは力動精神医学の基本となったのだ。

以下、いくつかの重要な知見。

(145)遺伝+トラウマという考えにより、ジャネの理論は愛着理論を先取りしていた。

(148)意識野の狭窄、とは精神レベルの低下、と考えるべきらしい。狭窄、という言葉がちょっと引っ掛かり、誤解を招きやすいと私(岡野)は思うのだが。

(148)累積ストレスで、PFCの樹状突起が失われ、扁桃体の樹状突起は促進される。慢性ストレスでPFC灰白質が低下するのは、人においても確認される。


2026年1月26日月曜日

レマ書評 ③

 身体としてあらわれる空想

身体が無意識のコミュニケーションの主要な手段となる患者さんに対して、分析家の身体が変化しない(あるいは安定した)体現化として設定の一部となるという主張。そしてその分析家のプレゼンスは、患者の不安や空想を体現化し、コンテインするという。この体現化とは一体どういうことか。私(岡野)にとっては「受肉」と言った方がわかり易い。受肉しているとは、心が体と一体になっていることで、心の苦痛は体の苦痛と不可分に体験されるという事だ。受肉しているとは、見られる身体を持っているという事だ。確かにそうだろう。私の肉体というプレゼンスは大きな意味を持つ。自分がどんな顔をしてどんな表情で他者と関わるかは患者にとって大きな意味を持つ。しかし身体はまた極めて偶発的な因子により変化し、時には人を幻惑して欺く。たとえば性的な魅力という事一つをとってもどうだろう?自分を本当にわかってくれると思えた人が同時に性的な魅力を備えていたとしたら。一気に多次元方程式並の複雑さが出現する。しかしSNSを通して本当に深く知り合った人たちは、実際に会う前からもう恋愛関係に陥る場合があるという例は、それの逆の例と言えるのだろうか?

身体の変化が及ぼすもの

分析家が分析設定の体現化された形として身体を概念化する際、転移解釈に意味を与えることが出来たはずの「かのような as if」空間は存在しなかったという事を、レマはDさんという人の治療例を振り返りつつ論じている。(どういう意味かよくわからなかった。)

トイレの使い方(実に身近なテーマ)

以下の二つの用い方があるとレマは論じる。

①性愛化され敵対的で侵入的な力動を実行するための倒錯的な使用。

②自己の受け入れがたい厄介な部分をさらけ出すときに、対象の受けるダメージを気遣うが、そのような患者はトイレットブレストとして使えない。 

おわりに

レマが本書の中でも繰り返し取り上げている「まなざし」は特別な意味を持つようである。体現化が意味を持つのは、それがまなざしの対象となるからであり、体現化の相互作用はそのまままなざしの相互作用でもある。

以上がキャンベルによる要約の要約。これではまだ全然わからない。という事でいよいよ本文に入っていくことになる。

序章 身体が語るとき

“The body always speaks” で始まる序章は、本書の日本語の題名にも選ばれている。この序章では、レマの本書の主張が端的に描かれている。体現化が心を形作る embodiment shapes the mind ので、分析家は身体をいつも心に留めておく必要があるというのだ。実はこれが本来の原題として扱うべきであろう。原題であるMinding the body は著者たちが訳している通り、「身体をいつも心に留める」が正確なのだ。

この序章のテーマは何と言っても、「体現化がこころをかたちづくる embodiment shapes the mind」という仮説である。これは身体化が心を「作る」ということではない。心に形を与える shape ということだ。これはどういうことか。例えば私は男性の、それも69歳という老年の体を持っている。日本人特有の顔つき、頭髪は薄くなり真っ白だ。このことは私のこれまでの来歴や作品や業績と共に私を規定する。そしてそれが少なくとも人前では常に私の心に反映される。つまり私の身体的な在り方はその重要な構成要素となってはいるものの、そのすべてを形成してはいない。
さて私たちはこのことを普段忘れがちである。他方私を見た他者はおそらく私の外見から私という人間や、私の心を規定することになる。そのことを忘れてはならないということを言っているのだろうか。確かに私の外見は、人前で振る舞うときにとても大きな制限となることは確かだ。そしてそれが社会的な関係を有するときに極めて重要だということである。それは私が着ぐるみを着たり、女装をしたときに体験する著しい違和感からもわかる。そして私が精神的にある程度安定しているとしたら、それは私のそのような身体を周囲が受け入れてくれる(と少なくとも思っている)からであり、私自身もそれを安心して受け入れることが出来るからであろう。そしてそれがさかのぼって両親との体験に根差している、というのが分析家レマの主張の大きな部分なのである。それがフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」(14)という言葉に反映されているというわけだ。

このことを考えるうえでレマが言及するのが例のミラーニューロンの話である。私たちが他者の姿や振る舞いを見るとき、直接身体に訴えかけてくるものがある。人がバナナを食べているのを見るとき、私たち自身がバナナを食べているときに活動を行う運動前野の神経が同時に活動している。私たちは他者の在り方をこうして体で直接感じる。これはメンタライゼーションの概念をさらに磨き上げる助けとなる。それが体現化されたメンタライジング embodied mentalizing という概念である。そしてそれがおそらく損なわれているのがASDなのであるというのが私(岡野)の見解だ。

ともかくも私たちは、特に言語的なコミュニケーションを重んじるという立場をとりがちであり、そこにいかに身体が絡んでいるかを軽視し、ないし忘れがちであるという事は本章におけるとても重要なメッセージだと言えよう。現実には私たちは無意識レベルで自分の、そして相手の身体性に大きな影響を受けつつ、それを否認しているというのだ。


2026年1月25日日曜日

ジャネ書評 ③

 第3章 ジャネとフロイト

フロイトにとってジャネがいわば仮想敵であったことはとても興味深い。彼は敵を見つけることで奮起をしていたというところがある。それをフロイト自身が明言していたわけだ。

(77)「親密な友人と憎むべき敵は、私にとってはいつも感情生活の必要な要件である‥‥」(フロイト)

結局フロイトはジャネの見出したものを拒否し続けたことになるが、いわば反対のための反対というニュアンスもあったという事だろう。フロイトはジャネはブロイアーの発見と一致し、しかもブロイアーの方が早かったということでのみ敬意を払っている(78)。この章では、フロイトはジャネとは違うということを示すために、ブロイアーを見捨てた、とまで書ているのが興味深い(81)。フェレンチを見捨てたのも同様の理由だとすると、フロイトの野心は空恐ろしいものがあると考えざるを得ない。彼にとっては学問的な価値は彼の自己愛を高めるものではあっても、真実への追及の結果見出されたものとは必ずしも言えないという事か。

しかし(89)でフロイトとジャネの重要な理論的な関りが指摘される。フロイトの否認 Verleugnung と現実機能の喪失 fonction du reel との密接な結びつきであるという。それがフロイトの「防衛過程における自我分裂」に結実しているという。つまりこれが精いっぱいフロイトがジャネを認めた証、という事になるのだろうか?

第4章 ジャネとユング

ユングはフロイトと精神分析を離れてからは、年上であるジャネから大きな影響を受けたという内容が書かれている。ユング自身ジャネを高く買っていて、母親コンプレックス、ペルソナなどの概念はユングの下位人格(同時に存在する心理的実体群)(92)の概念の影響を受けているという。要するに心を一つと見なさないところがユングの思考に自由度を与えていたということが出来るだろうか。何しろ(91)ブルグヘルツリでユングはジャネの指導のもと連想実験をやっているというのだからその影響は大きかったのであろう。

第5章 あちらを立てればこちらが立たず (対象関係論への影響)

(107)ブロンバーグは、「100年前にフロイトにより城から追放されたピエールジャネの亡霊が、現代のフロイトの子孫たちに、のべつまくなしに憑依し続ける姿を想像するに難くない」と書いている。(108)よく知られていないことではあるが、フェレンチはジャネにかなり影響を受けていたという。しかしそれに言及する論文が英文では手に入らないという事情があったという。(109)フェレンチは、ジャネは精神分析に必要不可欠とまで書いていた。(111)実はフェアバーンもジャネに興味を持ったが、不幸なことに彼は解離の代わりにスプリッティングという言葉を使用した。

(112)実はジャネは分裂病理論を説いたブロイラーに直接影響を与えていたという話!

(114)フェアバーンは、解離と抑圧の決定的な違いに触れているという。彼の両者の分類の仕方はネミアの区別に近い。(ショア(2010,p.233)によれば、ネミアの見解は、ジャネによれば、解離は自我があまりに弱いために意識を保持できないが、フロイトは、自我が十分に強いために、積極的に抑圧するという違いを強調している。)


2026年1月24日土曜日

ショア書評 ③

 第2章 関係外傷と発達途上の右脳 精神分析的自己心理学と神経科学の接面

 この章も驚きだ。ショアはなんとコフート理論も自分の体系に引き付けようとしている。フロイトと同時にコフートにもエールを送るわけだ。まさに全方位外交である。そしてコフートのもっとも独創的で傑出した知的貢献は、自己対象という発達的構成概念であるとする。この自己対象の概念も当時の精神分析のエスタブシッシュメント達には非常に受けが悪かったが、ショアはこちらにも理があるとする。そしてまさにショアの言うとおりである。子供と親、患者と治療者、あるいはいかなる二者に関してそれが相互に自己対象として機能し合う関係とは、まさに右脳同士の交流に置き換えることが出来るではないか!! (78)ショアはコフートの理論を次のようにまとめる。「成熟した心理的組織を持つ親は、未熟で不完全な心理的組織を持つ乳児にとって重要な調整機能を実行する自己対象として機能する。」(強調岡野)。親の調整機能、という考えはフロイトにはなかった。コフートの治療論の出発点が幼少時の幼児と養育者の関係性に注がれている点を改めて認識する。87では、右脳の興奮が神経細胞のアポトーシス(自然死)を生むために、それに対するブレーキが作動するというメカニズムについて言及されているのが興味深い。つまり交感神経系の興奮が高じるといずれは背側迷走神経優位の状態に取って代わるのは、神経系の自衛手段としておそらく系統発達の早期に備わったはずなのだ。(迷走神経系によりクールダウンできなかった神経系は生き延びれなかっただろう。)


第3章 右脳の感情調整 発達、外傷、解離、精神療法の本質的メカニズム


この章でショアは改めて全盛期から今世紀初めにかけて生じたパラダイムシフトについて論じる。その最新のものは、認知的アプローチの次に来た動機付けと情動であるという。(100)そして無意識の感情は抑圧ではなく解離された感情として最もよく理解できること、またその後に形成される抑圧は、右脳によって生成された感情の左半球による抑制なのだ、という。ここは重要である。つまりショアは無意識を重視しているが、それは解離が働く領域であるというわけである。ショアは彼の言う無意識がフロイトの無意識とはかなり異なっているという事を、あまり強調していないが、もちろん彼はそれをわかっていて、敢えて反フロイト的なスタンスをとることを避けているのであろう。

ところで(99)のリヒテンバーグの引用内容が面白い。要するに精神療法においては、治療目標が意識の外にある、という事だ。すなわち言語的なコミュニケーションにより目標や動機を明らかにしていくプロセスには限界があることを、早くから動機付けに注目していたリヒテンバーグは述べているのである。

 

2026年1月23日金曜日

ジャネ書評 ②

 はじめに

先ずは1970年のエランベルジェの「無意識の発見」が極めて大きな意味を持っていたこと、そして本書が半世紀を記念するものであるということが述べられる。そしてその影響を受けた多くの論者による本書の各章のモチーフが簡単に紹介されている。


1章 PJ入門

この章を読むと、実は私たちは今やジャネ(以下、PJ)という、フロイトとの双璧をなす人物と対峙していることがわかる。PJはシャルコーの早い死の後、サルペトリエールで催眠を用いる唯一の研究者となったが、やがて催眠を毛嫌いするデジュリーヌがサルペトリエールの院長になるとともに、そこを去らなければならなかったのだ。そしてその後コレージュ・ド・フランスの心理学教授に就任した。

PJの心的自動症の基本概念は、①過去の活動の自動的な再現 ②綜合 synthesis と創造による統合integration. の二つの組み合わせが私たちの活動であるとする。そして解離は②がうまくいかなくなっている状態であるとした。そして①においても意識は介在しているが、下意識であるとした(35).


PJはある意味ではフロイトにより日陰者の存在になったが、実は時代を先取りしていたということが提案されている。そしてフロイトはジャネを否定しつつも、随所に影響を受けていたという主張もなされる。これを単なるジャネびいきの妄言と取るか真実と取るかは別として、最近の解離にまつわる議論はPJ,そしてフェレンツィの主張の信憑性を示しているともいえる。


第2章 意識から下意識へ


(61)解離で起きているのはしてこれは意識の不在(=無意識)ではなく、意識の分割であるとした)。(61)ジャネは例によって次のように説明する。現象を絶えず統合へと集める活動、創造活動。もう一つは過去に存在理由があった古い総合を再活性化させる反復運動。この両方のバランスの破綻が自動症となるとした。(62)「解離は自動症活動と総合の活動の平衡の喪失」。これは心的緊張の低下によりもたらされ、それを引き起こすのが情動であり,トラウマであるというのだ。これはよくわかる。

(69)ジャネは古くから研究のある無意識を意識とは異なる知性の可能性であり、形而上学的な研究である一方、下意識は極めて臨床的であるとした。それは通常の意識とは独立して存在し、「意識野の狭窄」「人格の解離」と同等であるとした(70)。


2026年1月22日木曜日

ショア書評 ②

 私にとってのショアの理論の有用性

①フロイトの立場に立ち、Freud-friendly な議論であり、安心である。(右脳による)無意識的な関係が(左脳による)意識的な関係に先立つという考え方がフロイトの正しさの表れであるという主張。この脳科学の立場に立ち、かつフロイト寄りの発言をする立場としては、神経精神分析 neuropsychoanalysis のスタンスに近い。ただしこのショアの全方位外交的な立場ははフロイトに対してにとどまらない。彼は精神分析のエスタブリッシュメントたちから敬遠されたボウルビイにもコフートにも向けられている。さらには関係精神分析のブロンバーグなどに熱烈なエールを送っている。しかしこれらの人物たちはいずれもフロイトとはかなり異なる主張をしている。それらの理論が含んでいた先駆性を積極的に取り入れつつ、フロイトをも立てるという姿勢がショアの持ち味なのである。というかなんでも取り入れるショアの姿勢が一種のパラダイムシフトを可能にしているのである。そしてそれは認知的アプローチの次に来た動機付けと情動であるという。

②ショアのパッションが直接的に伝わってくる。もう19年も前、2007年のことだが、ショアをシカゴで生で見たことがある。ISSTD(トラウマと解離国際学会)に、自分の発表がないのでジーパンで参加していた。小柄な好々爺と言った感じだが、全身からエネルギーがほとばしっていた(記憶の中で多少盛っているかもしれない)。とにかく書く量が尋常ではない。

以下に各章について少しまとめてみる。こうなると書評のためではなくて、自分の勉強のためだ。


改題

ショアが情動調節の議論から始めてそれを治療に応用し、それをaffect regulation therapy (ART) (後に「右脳精神療法」となる)とした経緯が語られる(9)。


序文

序文だけで22ページ、しかも文献が4ページ。もうこれだけでお腹がいっぱいだ。

でも大事なメッセージが盛られている。(18)いかなる発達論も、心理学と生物学を統合しなくてはならない。序文でショアはパラダイムシフトについて訴えているが、この「左脳の意識的認知から右脳の無意識的感情へ」は2009年のAPA(アメリカ心理学会)の基調講演「パラダイムシフトー右脳と関係的無意識」として発表されている。という事はお墨付きと言えるのだ。



第1章 現代アタッチメント理論


本章は改めてショアのアメリカのボウルビィたる所以を物語っている。メラニー・クラインの時代にロンドンでボウルビイが試みたように、ショアはデカルト的な心身二元論を廃し、母子間で行われていることは、双方向的な調整であり、そこではCNS(中枢神経系)とANS(自律神経系)の両方が共同で調整されると主張する。これをショアは「双方向的精神生物学的調整」と呼ぶ。これは言葉を交わすことで意識的な省察を介した交流よりは、かなり迅速な交流となる(57)。これはASD者であるかどうかを知る上で一番の決め手となるやりとりの自然さ、流暢さに関係しているのだろう。そしてショアは、治療場面でも「経験に近い主観的なレベルで、意識的に気が付かないところで瞬間瞬間の社会情動的情報を暗黙の裡に処理している。」(58)とする。結局は一次過程も、無意識のコミュニケーションも右脳を中心に行っているのだ。


2026年1月21日水曜日

レマ書評 ②

 引き続きキャンベルのまとめから。ちなみに( )内は私の考え。

美容整形願望の動機となる三つの空想

レマは分析家であり、当然のことながらその考察も緻密でかつ「分析的」である。美容整形願望の動機となる三つの空想として、レマは「自己製-空想」「再生空想」「完全一致空想」をあげ、それらが母親とのかかわりの中でいかに醸成され、彼女たちに美容整形に向かわせたかの緻密な記述がある。(これらの空想が美容整形を求める人たちにどの程度偏在するのかは分からないが、少なくとも精神分析的な作業を行うことでこれらの空想が扱われ、その結果として美容整形とは別の手段を選ぶことになる人たちもいるのであろう。)


向けられたまなざしの反転

レマの身体への関心は、まなざしというテーマにも向けられる。他者の視線も、自己の視線もその向けられる先は身体を含む。他者の視線が自分を飲み込む性質のものならば、それは去勢してくる存在とも形容されるだろう。提示されているBさんという男性のクライエントは、屍姦幻想により、つまり他者を死者とみなすことで女性に入っていくことが出来たという。(確かに他者の視線と、その目に映る私とはセットになっている。だからたとえば仮装をしたり、着ぐるみに入ったりすると、他者の視線は全く違ったものになるだろう。)

無力感から万能感へ

この章のテーマは最近のSNSの世界に生きる若者へと視線が向けられる。そこで登場する二人の思春期の患者のテーマは「いかにサイバースペースが身体や心から逃避する手段を提供するか」である。彼らは分析の作業により、仮想現実に没頭する彼らがいかに自らの身体に宿る恐るべき他者性をコントロールできるようになったかを語る。(このテーマは「まなざし問題」と対になっているとみていいだろう)。


「正しい」身体を探して


トランスセクシュアルについての章。トランスセクシュアルの人たちは、「受容的な心を与えてもらえなかったから」という事である。(これにはちょっと異議ありである。この解釈は余りに分析的すぎ、責任を養育者に帰することになってしまうのではないか。そして治療によりそれがあたかも治癒する可能性を示唆しているようである。)


2026年1月20日火曜日

「甘え」の関係の双方向性について ― 精神分析的視点から ― 一応完成

     「甘え」の関係の双方向性について

             ― 精神分析的視点から ―           本発表では、土居健郎による「甘え」理論について、再考を加える。

 土居の甘え理論と相互性

甘え理論は、土居健郎が1950年代に確立したものであり、日本文化を説明する鍵概念であると同時に、精神分析の文脈において早期の対象関係を論じるうえでも高い学問的価値を持つ。土居は「甘えの心理は人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである」と抽象的に表現したが、また本来は誰もが甘えの意味を体験的に知っているとした。そしてそれを「相手の愛をあてにして、それによりかかる」とわかり易く定義し、その「甘えの構造」(1971)で、その発想のきっかけとして自身の米国での異文化体験を具体的にあげている。ただし後の報告によると、土居の甘えに対する関心は、実は自身の幼児体験に関わる根本的な疑問に根差していたこともまた推察される。
 甘えの概念に関して特に土居が注意を払ったのが、それがもっぱら「受け身的」であるとの竹友安彦からの批判への対応であった。そして「甘える」という言葉は愛されたいという受動性を含むが、それが本来自動詞であることから、そこに積極性や主体性が含まれると指摘する。そして土居はそれが「甘えることで子どもがそれを楽しんでいる」ことに表れるとした。
 私はこの甘えの性質に注目して「能動的な受動性」と表現し、甘える側が同時に相手の「甘えてほしい」という願望を満たしていることを重視する。すなわち本来の甘えの関係は決して一方向的なものではなく、二人の人間が互いに「甘え、甘えてあげる」⇔「甘えさせ、甘えてもらう」という双方向性の関係を築く心理現象として捉えることが出来る。そしてこの双方向性が成立している際は、そこに相互の愛他性を含む「素直な甘え」が成立しているものとしてとらえることができると考える。

ちなみにこの甘えの双方向性を知る上で私が参考にしたのが、土居の論じる夏目漱石の「坊っちゃん」における「清の甘え願望」についての考察である。

 M.バリントの primary love との関連

土居は甘えの理論を考案して後に、自らの理論が、ロンドンの分析家M.バリントが提示した早期の対象関係を表す ‘primary love’ の概念に極めて近いことを発見した。バリントのこの概念は、S.Ferenczi の「受け身的対象愛」を継承し、言い換えたものであった。土居はこの ‘primary love’ を「最初の愛」ないし「根本愛」と訳し、甘えがそれと同等のものであり、ともに「対象関係を作る原動力」であるとした。これは、英国の対象関係論による捉え方、例えば「人間は出生直後からすでに対象を希求している」とする R.Fairbairn の理論と符合する一方では、S. Freud の一次ナルシシズムやM. Mahler の「正常な自閉期」など、初期の対象不在を前提とする立場とは対照的であった。その意味で土居の甘えの理論は図らずも精神分析における一つの大きな流れ(対象関係論)の源流と軌を一にしていたと言える。

ところで母子関係においてどの段階で甘えが兆し始めるかは単純な問題ではない。乳児は対象表象を持たない段階から、生理的なケアを求めて泣き声をあげ、母親は本能的にそれに応じる。私はこの時期を「甘え前駆期」と呼ぶが、この時期には、乳児に「愛されたい」という明確な願望はまだ存在せず、母親の側からの「甘えさせる」という一方向的な関係(上下関係、北山)が中心となる。土居も「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長であり、母子未分化の状態にある。・・・次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し・・・母親に密着することを求めることが甘えである」(1971、p.81 )としている。
 私は、母子関係において本来の甘えの関係が成立するのは、乳児が初めて母親に微笑みかけ、母親がそこに子供からの能動的な愛情表現を感じ取ってからではないかと考える。つまり母親の本能的な母性愛は子供の微笑みを受けて具体的な慈しみや「甘えさせ」の感情という形をとり、ようやく「甘える」「甘えさせる」の相互性の形成が開始されるのである。そしてもしこの乳児からの微笑みの母子との授受に何らかの原因で遅延や齟齬が生じた場合、それは相互性に基づく「素直な甘え」の成立が阻害される。そしてこれは後のいわゆる「屈折した甘え」につながる可能性があろうと考える。

 甘え理論と精神療法の行方

土居は、アメリカでの異文化体験から、甘えの概念のヒントを得たが、「甘えの構造」(1971)におけるその表現は直接的でかつ批判的であった。彼はアメリカ社会において「分析的教育を受けた者でさえも、相手の甘えの願望を汲み取れない」ことに驚いたという体験を記述している。そしてこの甘えの願望は実は文化を超えて人々にあまねく見られ、精神分析においても深く関与しそこでは患者と治療者の間の転移関係が常に甘えを基盤に含むという独自の理論を展開した。このように土居の視点は、性的・攻撃的欲動を重視したS.Freudよりも、「対象関係論的」であり、またDW.Winnicott や H. Kohut らによる愛着や共感に基づく理論と強い親和性を持ち、さらには J.Bowlby の示した愛着の視点と深い概念的なつながりがあったとみることが出来る

 ちなみにこの愛着の問題は現在の精神分析においても非常に注目されているトピックと言える。近年、P.Fonagy, A.Schore, J.Holms によって提唱されている「愛着に基づく精神療法」では、治療者と患者との間の心の同期化(synchronization)の重要性が強調されている。特に Schore は妊娠後期から生後1,2年の間の母子の間の愛着関係が、のちの精神の健康やストレスの対処の仕方に関して大きな影響を及ぼすことを示した。そしてその時期の愛着不全がのちの深刻な精神病理を生むとしたのである。そしてこの流れは米国における関係精神分析とも深いつながりを持つことになる。なぜなら関係精神分析においては、治療者と患者の人間同士の情緒的なつながりと、そこで生じる意図されざる行動(エナクトメント)への注目が重んじられ、その治療論には愛着理論や脳科学的な知見などが学際的に関与しているからである。
 このような前提を踏まえた場合は、精神療法における治療関係はある種の愛着関係の再構築としてのニュアンスを持つことが示唆される。これは従来の精神分析における解釈を中心とした認知的なプロセスをその治癒機序として考える流れとは大きく異なることになるが、土居の甘えに基づく治療論は、その流れに先駆する理論であったことが改めて理解される。

 

甘え理論と北山修の上下関係の理論に触れて

以上の考察を踏まえ、北山修(1999)が提起した「甘えの上下関係」について触れておきたい。このシンポジウムの討論者である北山は、甘えに関するモノグラフの中で、土居の甘え理論においては、甘えは「子どもからの愛の求め」に対する「親から与える愛」という形をとるが、それは愛は目上から与えられるという「愛の上下関係」の観察・解釈に陥りやすいと指摘した。これに対し土居は、北山の議論は「甘え」よりもキリスト教的な平等の愛を重視していると批判した。

私の発表の立場からは、「甘え前駆期」には北山のいうような一方向性が存在すると考えられるが、本格的な甘え期に入れば、甘えは双方向的に展開されるのではないかと考える。しかしそこで十分な甘えの関係が醸成されない場合は、その甘えは「屈折した甘え」の形をとる事になるであろう。この「屈折した甘え」においては、そこでの感情は甘えに類似してはいるものの、真の相互性や愛他性の裏付けを持たないものであり、甘えの一方向性もその一つの表れではないかと考える。