2026年1月20日火曜日

「甘え」の関係の双方向性について ― 精神分析的視点から ― 一応完成

     「甘え」の関係の双方向性について

             ― 精神分析的視点から ―           本発表では、土居健郎による「甘え」理論について、再考を加える。

 土居の甘え理論と相互性

甘え理論は、土居健郎が1950年代に確立したものであり、日本文化を説明する鍵概念であると同時に、精神分析の文脈において早期の対象関係を論じるうえでも高い学問的価値を持つ。土居は「甘えの心理は人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである」と抽象的に表現したが、また本来は誰もが甘えの意味を体験的に知っているとした。そしてそれを「相手の愛をあてにして、それによりかかる」とわかり易く定義し、その「甘えの構造」(1971)で、その発想のきっかけとして自身の米国での異文化体験を具体的にあげている。ただし後の報告によると、土居の甘えに対する関心は、実は自身の幼児体験に関わる根本的な疑問に根差していたこともまた推察される。
 甘えの概念に関して特に土居が注意を払ったのが、それがもっぱら「受け身的」であるとの竹友安彦からの批判への対応であった。そして「甘える」という言葉は愛されたいという受動性を含むが、それが本来自動詞であることから、そこに積極性や主体性が含まれると指摘する。そして土居はそれが「甘えることで子どもがそれを楽しんでいる」ことに表れるとした。
 私はこの甘えの性質に注目して「能動的な受動性」と表現し、甘える側が同時に相手の「甘えてほしい」という願望を満たしていることを重視する。すなわち本来の甘えの関係は決して一方向的なものではなく、二人の人間が互いに「甘え、甘えてあげる」⇔「甘えさせ、甘えてもらう」という双方向性の関係を築く心理現象として捉えることが出来る。そしてこの双方向性が成立している際は、そこに相互の愛他性を含む「素直な甘え」が成立しているものとしてとらえることができると考える。

ちなみにこの甘えの双方向性を知る上で私が参考にしたのが、土居の論じる夏目漱石の「坊っちゃん」における「清の甘え願望」についての考察である。

 M.バリントの primary love との関連

土居は甘えの理論を考案して後に、自らの理論が、ロンドンの分析家M.バリントが提示した早期の対象関係を表す ‘primary love’ の概念に極めて近いことを発見した。バリントのこの概念は、S.Ferenczi の「受け身的対象愛」を継承し、言い換えたものであった。土居はこの ‘primary love’ を「最初の愛」ないし「根本愛」と訳し、甘えがそれと同等のものであり、ともに「対象関係を作る原動力」であるとした。これは、英国の対象関係論による捉え方、例えば「人間は出生直後からすでに対象を希求している」とする R.Fairbairn の理論と符合する一方では、S. Freud の一次ナルシシズムやM. Mahler の「正常な自閉期」など、初期の対象不在を前提とする立場とは対照的であった。その意味で土居の甘えの理論は図らずも精神分析における一つの大きな流れ(対象関係論)の源流と軌を一にしていたと言える。

ところで母子関係においてどの段階で甘えが兆し始めるかは単純な問題ではない。乳児は対象表象を持たない段階から、生理的なケアを求めて泣き声をあげ、母親は本能的にそれに応じる。私はこの時期を「甘え前駆期」と呼ぶが、この時期には、乳児に「愛されたい」という明確な願望はまだ存在せず、母親の側からの「甘えさせる」という一方向的な関係(上下関係、北山)が中心となる。土居も「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長であり、母子未分化の状態にある。・・・次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し・・・母親に密着することを求めることが甘えである」(1971、p.81 )としている。
 私は、母子関係において本来の甘えの関係が成立するのは、乳児が初めて母親に微笑みかけ、母親がそこに子供からの能動的な愛情表現を感じ取ってからではないかと考える。つまり母親の本能的な母性愛は子供の微笑みを受けて具体的な慈しみや「甘えさせ」の感情という形をとり、ようやく「甘える」「甘えさせる」の相互性の形成が開始されるのである。そしてもしこの乳児からの微笑みの母子との授受に何らかの原因で遅延や齟齬が生じた場合、それは相互性に基づく「素直な甘え」の成立が阻害される。そしてこれは後のいわゆる「屈折した甘え」につながる可能性があろうと考える。

 甘え理論と精神療法の行方

土居は、アメリカでの異文化体験から、甘えの概念のヒントを得たが、「甘えの構造」(1971)におけるその表現は直接的でかつ批判的であった。彼はアメリカ社会において「分析的教育を受けた者でさえも、相手の甘えの願望を汲み取れない」ことに驚いたという体験を記述している。そしてこの甘えの願望は実は文化を超えて人々にあまねく見られ、精神分析においても深く関与しそこでは患者と治療者の間の転移関係が常に甘えを基盤に含むという独自の理論を展開した。このように土居の視点は、性的・攻撃的欲動を重視したS.Freudよりも、「対象関係論的」であり、またDW.Winnicott や H. Kohut らによる愛着や共感に基づく理論と強い親和性を持ち、さらには J.Bowlby の示した愛着の視点と深い概念的なつながりがあったとみることが出来る

 ちなみにこの愛着の問題は現在の精神分析においても非常に注目されているトピックと言える。近年、P.Fonagy, A.Schore, J.Holms によって提唱されている「愛着に基づく精神療法」では、治療者と患者との間の心の同期化(synchronization)の重要性が強調されている。特に Schore は妊娠後期から生後1,2年の間の母子の間の愛着関係が、のちの精神の健康やストレスの対処の仕方に関して大きな影響を及ぼすことを示した。そしてその時期の愛着不全がのちの深刻な精神病理を生むとしたのである。そしてこの流れは米国における関係精神分析とも深いつながりを持つことになる。なぜなら関係精神分析においては、治療者と患者の人間同士の情緒的なつながりと、そこで生じる意図されざる行動(エナクトメント)への注目が重んじられ、その治療論には愛着理論や脳科学的な知見などが学際的に関与しているからである。
 このような前提を踏まえた場合は、精神療法における治療関係はある種の愛着関係の再構築としてのニュアンスを持つことが示唆される。これは従来の精神分析における解釈を中心とした認知的なプロセスをその治癒機序として考える流れとは大きく異なることになるが、土居の甘えに基づく治療論は、その流れに先駆する理論であったことが改めて理解される。

 

甘え理論と北山修の上下関係の理論に触れて

以上の考察を踏まえ、北山修(1999)が提起した「甘えの上下関係」について触れておきたい。このシンポジウムの討論者である北山は、甘えに関するモノグラフの中で、土居の甘え理論においては、甘えは「子どもからの愛の求め」に対する「親から与える愛」という形をとるが、それは愛は目上から与えられるという「愛の上下関係」の観察・解釈に陥りやすいと指摘した。これに対し土居は、北山の議論は「甘え」よりもキリスト教的な平等の愛を重視していると批判した。

私の発表の立場からは、「甘え前駆期」には北山のいうような一方向性が存在すると考えられるが、本格的な甘え期に入れば、甘えは双方向的に展開されるのではないかと考える。しかしそこで十分な甘えの関係が醸成されない場合は、その甘えは「屈折した甘え」の形をとる事になるであろう。この「屈折した甘え」においては、そこでの感情は甘えに類似してはいるものの、真の相互性や愛他性の裏付けを持たないものであり、甘えの一方向性もその一つの表れではないかと考える。