2026年1月26日月曜日

レマ書評 ③

 身体としてあらわれる空想

身体が無意識のコミュニケーションの主要な手段となる患者さんに対して、分析家の身体が変化しない(あるいは安定した)体現化として設定の一部となるという主張。そしてその分析家のプレゼンスは、患者の不安や空想を体現化し、コンテインするという。この体現化とは一体どういうことか。私(岡野)にとっては「受肉」と言った方がわかり易い。受肉しているとは、心が体と一体になっていることで、心の苦痛は体の苦痛と不可分に体験されるという事だ。受肉しているとは、見られる身体を持っているという事だ。確かにそうだろう。私の肉体というプレゼンスは大きな意味を持つ。自分がどんな顔をしてどんな表情で他者と関わるかは患者にとって大きな意味を持つ。しかし身体はまた極めて偶発的な因子により変化し、時には人を幻惑して欺く。たとえば性的な魅力という事一つをとってもどうだろう?自分を本当にわかってくれると思えた人が同時に性的な魅力を備えていたとしたら。一気に多次元方程式並の複雑さが出現する。しかしSNSを通して本当に深く知り合った人たちは、実際に会う前からもう恋愛関係に陥る場合があるという例は、それの逆の例と言えるのだろうか?

身体の変化が及ぼすもの

分析家が分析設定の体現化された形として身体を概念化する際、転移解釈に意味を与えることが出来たはずの「かのような as if」空間は存在しなかったという事を、レマはDさんという人の治療例を振り返りつつ論じている。(どういう意味かよくわからなかった。)

トイレの使い方(実に身近なテーマ)

以下の二つの用い方があるとレマは論じる。

①性愛化され敵対的で侵入的な力動を実行するための倒錯的な使用。

②自己の受け入れがたい厄介な部分をさらけ出すときに、対象の受けるダメージを気遣うが、そのような患者はトイレットブレストとして使えない。 

おわりに

レマが本書の中でも繰り返し取り上げている「まなざし」は特別な意味を持つようである。体現化が意味を持つのは、それがまなざしの対象となるからであり、体現化の相互作用はそのまままなざしの相互作用でもある。

以上がキャンベルによる要約の要約。これではまだ全然わからない。という事でいよいよ本文に入っていくことになる。

序章 身体が語るとき

“The body always speaks” で始まる序章は、本書の日本語の題名にも選ばれている。この序章では、レマの本書の主張が端的に描かれている。体現化が心を形作る embodiment shapes the mind ので、分析家は身体をいつも心に留めておく必要があるというのだ。実はこれが本来の原題として扱うべきであろう。原題であるMinding the body は著者たちが訳している通り、「身体をいつも心に留める」が正確なのだ。

この序章のテーマは何と言っても、「体現化がこころをかたちづくる embodiment shapes the mind」という仮説である。これは身体化が心を「作る」ということではない。心に形を与える shape ということだ。これはどういうことか。例えば私は男性の、それも69歳という老年の体を持っている。日本人特有の顔つき、頭髪は薄くなり真っ白だ。このことは私のこれまでの来歴や作品や業績と共に私を規定する。そしてそれが少なくとも人前では常に私の心に反映される。つまり私の身体的な在り方はその重要な構成要素となってはいるものの、そのすべてを形成してはいない。
さて私たちはこのことを普段忘れがちである。他方私を見た他者はおそらく私の外見から私という人間や、私の心を規定することになる。そのことを忘れてはならないということを言っているのだろうか。確かに私の外見は、人前で振る舞うときにとても大きな制限となることは確かだ。そしてそれが社会的な関係を有するときに極めて重要だということである。それは私が着ぐるみを着たり、女装をしたときに体験する著しい違和感からもわかる。そして私が精神的にある程度安定しているとしたら、それは私のそのような身体を周囲が受け入れてくれる(と少なくとも思っている)からであり、私自身もそれを安心して受け入れることが出来るからであろう。そしてそれがさかのぼって両親との体験に根差している、というのが分析家レマの主張の大きな部分なのである。それがフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」(14)という言葉に反映されているというわけだ。

このことを考えるうえでレマが言及するのが例のミラーニューロンの話である。私たちが他者の姿や振る舞いを見るとき、直接身体に訴えかけてくるものがある。人がバナナを食べているのを見るとき、私たち自身がバナナを食べているときに活動を行う運動前野の神経が同時に活動している。私たちは他者の在り方をこうして体で直接感じる。これはメンタライゼーションの概念をさらに磨き上げる助けとなる。それが体現化されたメンタライジング embodied mentalizing という概念である。そしてそれがおそらく損なわれているのがASDなのであるというのが私(岡野)の見解だ。

ともかくも私たちは、特に言語的なコミュニケーションを重んじるという立場をとりがちであり、そこにいかに身体が絡んでいるかを軽視し、ないし忘れがちであるという事は本章におけるとても重要なメッセージだと言えよう。現実には私たちは無意識レベルで自分の、そして相手の身体性に大きな影響を受けつつ、それを否認しているというのだ。