2023年12月28日木曜日

連載エッセイ 11の1

脳とトラウマシリーズと微妙にかぶっている内容だ。


 今回は第11回目である。全12回の予定のこの連載エッセイも、いよいよ終わりに近づいている。今回のテーマは「脳科学とトラウマ」だ。トラウマは現代の精神医学において非常に大きな位置を占めている。精神分析学と共にトラウマ関連疾患や解離性障害は私が臨床で最も多くかかわるテーマである。そこでこの連載を終える前に、このトラウマの問題について広く脳科学的に論じてみたい。ちなみに本稿は「トラウマ」を身体ではなく、心、精神がこうむる外傷、という意味で用いることをお断りしておく。

 考えてみれば、私たちの生きる世界はトラウマの連続である。ロシア―ウクライナ戦争やパレスチナでの紛争を見る限り、毎日のように無辜の犠牲者が生まれている。改めて過去を振り返れば人類の歴史は戦争や殺戮、略奪、虐待の連続であった。しかしトラウマに関連する精神医学が注目を浴びるようになったのは1970年代ごろからである。今ではトラウマ関連障害としてPTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害、ないしは愛着障害が挙げらえているが、それまではトラウマが脳や心に深刻な障害を引き起こすという考え自体が関心を向けられていなかったという事情があるのである。

 前置きはそこそこにして「脳科学とトラウマ」である。まず問うてみよう。脳科学の進歩によりトラウマの精神医学はどのように変化したのであろうか? それは実に大きな変化をもたらした、というのがその答えである。そして結果的にトラウマという現象やそれを負った人々を救う手段も大きく進歩したと言っていいだろう。

  現代の精神医学では、トラウマとは脳における変化であると言いきっていいであろう。先ほどトラウマを「心がこうむる外傷」と述べたが、トラウマのありかは脳である。そしてそれが心の在り方に影響を与えるというわけだ。

 ところで脳の変化がトラウマを引き起こすという発想自体は、かなり前にさかのぼることが出来る。トラウマによる精神障害として初めて登場するのは、第一次世界大戦におけるいわゆる「シェルショック」という概念であったというのが定説だ。戦場の前線で砲弾や爆撃を間近に体験し、いつ命を奪われるかもしれない体験をした兵士たちが、全身の震え、パニックや逃避行動、不眠や歩行障害などの様々な心身の症状を示した。彼らの多くは頭部に直接外傷を負っていたというわけではない。これに対してチャールズマイヤーズという医学者がこのシェルショックという名前を付けた。シェル shell とは砲弾のことであるが、マイヤーズは砲弾が近くで炸裂した際にその衝撃波が脳を襲ったせいだと考えた。しかしこの説もやがて棄却される運命にあった。なぜなら症状を示す兵士の多くは近くでの砲弾の炸裂事態を経験していなかったからである。

 このシェルショックの原因の究明の仕方は、原因を脳の病変に求めるという意味では、いかにも「脳科学的」と言えるが、当時は精神の病そのものが必ず脳のどこかに病変があるものと考えられていた。19世紀にはじまる精神医学は生物学的であり、精神の病とは神経と脳の病気であるというグリージンガーの説を代表とするものであった。そう、今から二世紀前に精神医学者たちは脳に着目していたことになる。ただしその頃は脳の仕組みはほとんど知られていず、せいぜい解剖をして肉眼的にわかるような所見を想定する程度であったという点が現代的な脳科学的な見方とは大きく異なるものであった。

 ちなみにこの脳の衝撃波説は、2015年になりその信憑性を再発見する研究がなされている。(“Combat Veterans' Brains Reveal Hidden Damage from IED Blasts” (2015年1月14日). 2016年8月12日閲覧。)このように一度葬り去られた理論が生き返るのが科学の醍醐味である。