トラウマで脳が変わるか?
PTSDの登場により精神医学が活気づいている1980年代は私がアメリカで精神科医として働きだした時期であり、その時の雰囲気をよく覚えている。そこでリーダーシップを取っていたのは私が専門としていた精神分析の専門家ではなかった。臨床の現場に立ちながら、PTSDの病態を脳生理学的に説明する精神科医たちであった。それがベッセル・ヴァンデアコーク van der Kolk とその盟友であるジュディ・ハーマン Judith Herman であった。特にバンデアコークはそのオランダ語なまりの英語で精力的に米国各地講演をして回り、論文を書き、そのカリスマ性とともに大きな影響力を持っていた。
私が精神科のレジデントをしていたメニンガークリニックにも訪れた彼は、PTSDにおいてどの様にフラッシュバックが起きるのか、トラウマ記憶とはどのようにしてつくられるかを、脳の海馬や扁桃核といった部位を使って説明することで、最初は戸惑った。それまで私は精神科医として数年ほど日、米で働き、脳に効くはずのお薬を処方しながらも、脳の中の具体的な部位について考えることはほとんどなかった。そこで彼の話も最初ははるかにわかりやすく解き明かしたのが印象的だ。精神科医ではあっての脳の中の細かい構造には関心を向けなかった私が明確に、人間の脳の内部の貴重な部位に注意を払うようになったのはこの1990年のころである。
この時バンデアコークが書いた論文 ( van der Kolk, B. A., & Fisler, R. (1995). Dissociation and the fragmentary nature of traumatic memories: Review and experimental confirmation.Joumal of I'raumatic Strass, 8(4), 505-525.) に掲載されている図に私は惹かれた。それは脳の主要な部位である前頭前野、視床、海馬、扁桃核等の部位の間が矢印で結ばれ、トラウマに関する記憶が作られる様子が示されていた。様々な感覚器から入力されて視床で統合された情報が、恐ろしいもの、強烈な不安を呼び起こすものであった場合、扁桃核を強く刺激し、それが海馬の機能を低下させることで、その体験は通常とは異なる記憶(トラウマ記憶)を形成する。もちろんこれはかなり単純化したものであったかもしれないが、PTSDの際に脳で生じることのエッセンスである。