2023年4月5日水曜日

地獄は他者か 推敲 3

 羞恥から恥辱への変化について

次に羞恥から恥辱への変遷について書いておかなくてはならない。もともと内沼幸雄先生の「対人恐怖の人間学」で述べられていた恥についての「公理」とも言えるのは、羞恥→恥辱→罪悪感→パラノイアという変遷現象であった。羞恥は誰にでもあってしかるべきものであるが、それが対人恐怖に変わるのは、恥辱のレベルにまで達した際である。としてここには何となく、「恥辱はすごい、羞恥はそれに比べて大したことがない」という差別化があったのだ。ただ私は最近になって羞恥こそ厄介だと思うようになってきているのである。私自身あまり恥辱の念はないが、羞恥心の塊であり、案外これで困っているのである(もちろんそれを利用しているという所もある)。

では改めて、両者の違いは何か。内沼先生によると(そしてもちろん私もそれに同意しているのだが)以下のような違いになる。

羞恥: 自分を見られることへの抵抗感、不快感。ただし自己価値の低下はない。

恥辱: 自分を見られることへの抵抗感、不快感。そこには自己価値の低下が伴う。

 私は1998年に著した「恥と自己愛の精神分析理論」に、私はこの両方の概念の違いについてしっかり書いているつもりであったが、今から読み返すとほとんど触れていない。ただ同書の p.199ではこの羞恥から恥辱への変化に関連して、こんなことを書いている。

  「私達は『見せる/見てもらう』と『隠そうとする/見られてしまう』という体験を常に持っている。」

乳幼児に関しては、母親に見てもらうことがすなわち生きることである。「私が見られているから、私は存在する」(ウィニコット(1971)「遊びと現実」)。ところが子供はそのうち秘密を持つようになり、様々な心の内容を抑圧するようになる。「~を表現したら~(という良くないこと)が起きてしまう」という因果律的な思考をデフォルトで備えるようになった幼児は、自分のすべてを隠すことなく見せてしまったらよからぬことが起きるかもしれない、という思考が常に生じることで「隠そうとする/見られてしまう」の割合が増えてくるのだ。

この様な論を展開したわけであるが、今から考えると、羞恥体験が恥辱体験の萌芽であるとしても、その基本は「見られたくない自分」が増大していくプロセスと同じだと言える。仮に「恥ずべき自分」ではなく「罪深い自分」を考えよう。罪を犯した自分のモンタージュ写真が世間に出回っていて、顔を見られると警察に通報されてしまう可能性がある。その犯人は顔を隠し、見られてしまうことにおびえるだろう。これもふるまいとしては対人恐怖と同じようなものだ。隠したい自分は「恥多き自分」ばかりではないのだ。

 ここで恥は人にとってなぜ重要なのかという論点について整理しておくべきであろう。恥は防衛となっているのだ。たとえば衣服を考えよう。動物は裸ん坊のままだ。毛皮で多少はカバーされるのであろうが、どうしてそれに耐えられるのだろう?羞恥心がないからか。あるいは対自存在たりえないからか。(即自存在は自分が自分であることを意識しない。対自存在とは自分を客観視できる存在である。)動物はいわばみられる自分の身体を意識しなくていいわけで、こちらからは相手が見えるが、向こうからは見えない、一種の透明人間のような気持で生活を送っているのだろう。だから恥ずかしいということがないのだ。また「見せる/見てもらう」だけの赤ちゃんは裸ん坊でも全く問題がない。

ところが「隠そうとする/見られてしまう」という部分が出来てくると服を着る必要が生じる。その機能は当然「見せるところは見せ、隠すところは隠す」ということだ。

その意味で被服はまさに防衛なのだと思う。それは暴力的、侵入的な他者の視線から守ってくれるのだ。そしてもちろん「見せたい部分だけみせ、隠したい部分は隠す」という被服の機能は極めて重要なのだ。羞恥の感覚が服を着るという行動に向かわせるという意味では、羞恥はまさに防衛であると言えるだろう。では一体どの時点で恥が私たちにとっての敵としてふるまいだすのか。その答えは一応次のようになろう。

恥が恥辱の段階、すなわち対人恐怖のレベルになった時に、恥は私たちにとっての敵となるのである。しかし最近は少し違ってきたことは先に触れた。

 羞恥も敵となり得る

 変な例だが思いついたので挙げてみよう。病院で血液査をするとき、採血された試験管が私の名前や番号を書かれて試験管立てに立てられていたとしても、それを恥じることはない。「え、前京大教授の岡野先生、実は甲殻類だったって!」ってことはないのだ。(この部分前回から加筆修正した。)

 でも自分の血液が人目にさらされることはどちらかと言えば嫌だ。よく考えれば私は特に恥じ入ることではなくても人目に晒されるのが億劫になることがある。その感覚自体がうっとうしいのだ。これは知覚過敏が関係しているのだろうか?