2023年4月4日火曜日

地獄は他者か 推敲 2

 そもそも人間は社会的な動物のはずなのに、人はどうしてこれほどまでに対人恐怖的になり得るのだろうか? それが社会適応上望ましいのだろうか? 恐らくそうだろう。他者とは恐れてしかるべきものだ。私達が日常生活ではあまり他者を怖がらないのは、他人は怖くないだろうとたかをくくっているからだ。親しい友人Aさんと会う時はあまり緊張しないとしよう。それは「あの温厚なAさん」という内的イメージを持っていて、それを投影しているからである。ところが道で知らない人に急に話しかけられると、私たちはそれだけで一瞬身構えるものである。

実際野生動物が他の動物に遭遇した時の反応は似たようなものだ。実際には私たちが遭遇する誰もがいつどのような形でこちらに危害を加えてこないとも限らない。しかしそれでは社会生活をやっていけないから、私達はこの警戒モードを一時的に「オフ」にして人と会っているのだ。そして私たちは時にはこのオフモードに入ることが出来なくなってしまう様な病態を知っている。例えばPTSDなどの場合には、誰と会っても警戒心を解くこと(警戒オフモードをオンにすること)が出来なくなり、家を出ることそのものが恐ろしいことになってしまう場合がある。この様に考えると、先ほどの漫画の作者である当事者さんの気持ちもそれなりに分かるではないか。

警戒モードをオフに出来るのが愛着

実際には多くの危険性をはらむ対人関係において、私達が警戒モードをオフにすることが出来るのはなぜだろうか? そこで問題となるのが幼少時の愛着のプロセスである。母親ないしは主たるケアテーカーとの密接な関係の中で、基本的な人間関係の安全性が保障される必要がある。もちろんその安全性は完全なものではなく、それが突然崩される可能性はある。他者はいつ攻撃をしてくるかわからない。しかしそれに対する警戒を続けるならば対人体験自体が成立しないことになりかねない。ウィニコットはそれを侵入impingement や脱錯覚 disillusionment という言葉を用いて、乳幼児が徐々に必ずしも安全でない外的世界へ徐々に適応していくプロセスを描いた。こうして私たちは、他者は、そして世界は安全だという想定を行うことで毎日を生き延びていく。

例えるならば私たちは頻繁に乗る飛行機が極めて低い確率で墜落する可能性があっても、そのことについて「考えないようにする」という自己欺瞞を一つの能力として獲得することで飛行機を利用できるのだ。

対人恐怖の観点からのこの愛着関係についてもう少し具体的に見てみよう。最初の対人体験は母親(あるいは主たるケアテーカー)である。いわゆる愛着が形成されるプロセスで母親と乳幼児は視線を合わせ、接触し合い、声を出し合ってやり取りを行っていく。それは上述の無限反射構造を取る。これ自体は複雑極まりない体験であるが、これをマスターし、自然と行えるようになるのだ。すると同じことを母親以外の他者とも行えるようになる。それは父親にも同胞にも、そして親しい友達とも行えるようになる。すると見知らぬ大人に向かっても、同じようなことが出来ると考えて微笑みかけるだろう。そしてそれは大抵上手く行く。その見知らぬ他人は母親の両親だったりするから喜んで付き合ってくれるだろう。

ちなみに母親との対人体験のマスターは乳幼児にとってはとても快楽的で喜びを伴ったものであることは推察される。アラン・ショアなどの研究では、母親と乳幼児は右脳同士を互いに同期化し合って関係を続けていく。すると母親が用いて乳幼児とのかかわりを行っている眼窩前頭部、頭頂側頭連合野脳の種々の部位は、乳幼児の同様の部位を賦活し、後者の神経ネットワークが形成され、鍛えられていく。この神経ネットワークの形成は基本的には快楽的である。というかそれを快楽的と感じ、むさぼるようにして行うような性質を持った生命体が今日まで生き残ってきたのだ。

 羞恥体験の原型としての感覚過敏

 この様に考えると、羞恥体験の原型は、この対人体験における無限反射と共にごく自然に起きるべき反応とみることが出来るだろう。乳幼児はそれまでは自分を見せればよかった。それを見ている母親の照り返しの視線で自分を確認することが出来たのである。

羞恥を対人体験の複雑さと情報過多に対する反応としてとらえることで、それがASDにおいて生じているという可能性に対する理解が広まるであろう。ASDの患者がが人と目を合わせないのは人の視線に興味がないというわけではない。現在ではASDでは視線を一瞬合わせてから逸らすという傾向(視線回避)が知られている。それは人と目を合わせるという体験が有する膨大な情報に圧倒され混乱し、パニックを引き起こすから出る。

同様の視点は最近のHSP Highly Sensitive Person)につながるらしい。本当にそうだろうか。今や人口の1530%に見られるとも言われるHSP.それらの人は恥ずかしがりやで、そしておそらく共感性が高いことから共感的羞恥を覚えやすいということらしい。HSPの定義を読み直すと、他者への感情移入については確かに書いてある。しかし羞恥心、恥ずかしがりやということは特に記載がない。