2020年11月28日土曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲の推敲 1

 心のフラクタル性について

                    

フラクタルとは?

この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しばらく「揺らぎ」について考え続けていたせいで余韻が残っている。特に、この本に書いたフラクタルというテーマが最近は気になってきた。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらは若いころはどれも気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでに理解しえないのか。

一つ気が付いたことがある。私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」なのである。つまりきわめて複雑な入れ子状になっているのだ。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、さらに深い森に迷い込んだ気になる。そしてそのまた一部について調べると、そこからも新たな森が広がっている。どの方向のどのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真をネットでダウンロードして見ることが出来る。するとその一部の何もなさそうな空間を拡大していくと、星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。(もちろん画像である限りは最後には無機的で単純な四角いピクセルに行きついてしまうが。)そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。

フラクタル性は美的感覚とも関係する。巧みな画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い味わいがある。これらも「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じ、だからこそ一枚の作品を長い時間をかけて鑑賞するのだ。逆に素人の描写は細部に味わいがないので表面的で浅薄なものと感じられてしまう(ただし、我が子の描いた絵なら違って見えるのであろうが。)

では心のフラクタル性についてはどうか。それを最初に唱えたのは、精神分析を作ったシグムント・フロイトだったと私は考える。彼は夢や連想の詳細にまで注目し、その象徴的な意味を論じた。フロイトの「夢判断」(1900)に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかという事である。精神分析では心の細部の意味を追求し得ることを前提として生まれた学問なのだ。

ある高名な分析家は、患者の最初の一言で、その日のセッション全体の行方を知ることが出来ると主張した。また分析的なアプローチをとる心理学者は、ロールシャッハテストで患者が見せるある図版の微細な部分への反応について、その人全体の病理を表しているといった。これらもフラクタル的な発想と言える。

心の生産物の細部を分析することは全体を知る上での決め手になるのだろうか。もうしそうだとしたら画期的なことだ。「神は細部に宿る」というが、精神分析はまさにその神を知る手段ではないか? 私はそれを確かめたくて40年前に精神分析の世界に入った。でも残念ながらその確信に至っていない。むしろ臨床状況でこの意味でのフラクタル的な考え方を持ち込むことには注意が必要だと考えるようになっている。例えばある母親がわが子を虐待する夢を見たと報告するとしよう。彼女自身はその様なことをしたこともないし、考えもしないという。その母親にとってこの夢の持つ意味は何だろう? 多少なりとも注意深い分析家が、「それはあなたの抑圧された願望かも知れませんね?」と解釈を与えることにどれほどの信憑性があるだろうか? それは正解かも知れないし全くの誤りかも知れないのである。そして普通の考え方をする人間ならば、少なくとも心の問題に関しては、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」としか言いようがないことを理解し、途方に暮れるのである。