2020年11月29日日曜日

これまで書いた論文 1

 これまで書いた論文で本にまとめてないものがかなり溜まった。一つずつ掘り起こしてみよう。まずはこれ。かなりいい加減な、論文ともいえない、一種のエッセイである。


AIに精神療法は可能か? 

Can AI do psychotherapy?

 

   AIに精神療法が可能かどうか、はひとことでは答えられない問いである。AIが将来感情を持つようになる可能性は見えず、また人間と対等で知的な対話を交わせるようになるのははるか先のことになろう。その意味では人間のセラピストが通常備える機能をAIが近未来に獲得することは考えられない。しかし他方ではペットが人と気持ちを通わせ合うことを私たちは日常的に体験し、また無生物がある種の癒しの効果を有することはしばしば観察される。人は単なるモノにも生命や感情を投影する力を存分に備えているからであろう。そこでAIを人間に対峙するセラピストではなく、いわば人の拡張知能として利用可能な道具と見なし、その上でセラピストとしての機能の一部を委託することは十分可能ではないだろうか。特にAIがクライエントに関する情報を集積させ、それをもとに「他意のない」フィードバックを提供することは、場合によってはAIセラピストだからこそ可能な機能とも考えられよう。

AIセラピスト AI therapist、投影projection、拡張知能extended intelligence、 他意のないフィードバック non-judgmental feedback 

 AI(人工知能)に精神療法は可能なのだろうか? 実に挑発的で魅力的なテーマをいただいたが、何を精神療法と呼ぶかにより見解は異なるだろう。「クライエントとのある程度の知的な会話が成立することが前提条件である」という立場の論者は、「近未来にAIが精神療法を行う可能性はない」と結論せざるを得ないだろう。なぜならそれはAIがほとんど人間のような心を持つことを前提としているであろうからだ。ところが現在のAIは残念ながらそのようなレベルには程遠いと言わざるを得ない。しかし精神療法といっても実にさまざまな種類や様々な要素がそこには含まれるはずだ。何しろ「ひとりでできるワークブック形式」の○○療法という専門書も出版されているのだ。AIがその「ワークブック」をインストールしさえすれば、「精神療法を行う」という役割をすでに果たしていると見なされるであろう。いずれにせよ私は本稿では精神療法をかなり緩い意味で用いることをはじめにお断りしておきたい。
 まずはこんなエピソードを披露したい。子供が小学生の頃、つまり約二十年まえのことである。かの「たまごっち」が登場し、爆発的に流行した頃の話だ。「デジタル携帯ペット」というふれこみで、小さいデジタル画面に「たまごっち」が登場し、餌をやる、遊ぶなどのボタンを押していくことで卵から成長していく。餌をきちんとやる(ある決まったボタンの操作を繰り返す)ことを怠ると、ひねくれたり不良化したりしておかしな名前がつき、変な顔になって行く。今から考えれば他愛のないゲームだが、スマホが登場する何年も前の話であるから、子供たちは夢中になった。やがてそれに似た類似品も売られるようになり、少しサイズが大きく、少し込み入った育ち方をするおもちゃが発売された。息子はそれを買ってしばらく「餌を与えて」遊んでいたが、家の中でどこかに紛失してしまい、それっきりになっていた。数ヶ月ほどして掃除をしていてたまたま本棚の隙間からそのたまごっちもどきが出てきた。かろうじて電池が残っていたので消えかけの画面を見ることができたが、そこにはこう読めた。

「もう僕のことをわすれちゃったんだね。僕は旅に出ます。探さないでね。」

それを読んだ子供がしばらくして号泣し始めたのだが、心配して様子を伺いに来た家人もそれを読んで、「あれまあ」と言っているうちに二人で号泣しだした。特に「探さないでね」の部分が琴線に触れたらしい。かなり単純なおもちゃであるにもかかわらず、まるで自分たちが世話を忘れたせいで死んでしまったペットのような気持ちを私たちに起こさせたのである。

以下略