2020年11月26日木曜日

揺らぎのエッセイ 推敲の推敲の推敲 

 心のフラクタル性と神経ダーウィニズム

フロイトが考えたような意味でのフラクタル性を実際の心は有してはいないこと、しかしそれとは別の意味でのフラクタル性を有していること、それが心の問題を考える醍醐味であり、また難解さにもつながり、また私がそこに心の問題の面白さを感じるのだという事を、この短いエッセイの中で伝える自信はない。しかしその概要だけは示しておきたい。そこでのキーワードは「ボトムアップ」システムという概念である。

フラクタルと聞けば、細かく見て行っても同じ複雑な構造が保たれる、入れ子状の構造をと想像しやすい。ロシアの民芸品のマトリョーシカのように最初に大きな人形を作り、中をくりぬいて小さい人形が次々と入れ子状に作られていくとなると、これはトップダウン的な見方と言っていい。あるいは一枚の絵を描くときはまず全体の輪郭を下書きし、そのあと細部を書いていく。これも同じだ。

しかし心を宿す生命体は最初にどこからか全体の見取り図を与えられるわけではない。分子の集合体から始まって徐々にボトムアップ的に形成されている。最初に原子の大気があり、そこに雷や金属が媒介することで有機物質が生まれ、それが集合して複雑な分子を自己触媒的に形成する過程で、物体と生命体の中間にあたるようなむき出しのRNAのような構造が出来上がり、自己分裂を行い始め、そこから細胞壁をもった単細胞生物が生まれ・・・・、という風に。あるいは個体発生の際には最初に受精卵があり、それが分裂して幾つかの細胞の単位が自分自身を包み込むようなさらに大きな集合体を誘導していく。これもボトムアップだ。最終的に出来上がる生命体のひな型が与えられて、そこに向かって組みあがっていくようでいて、実はそうではない。

このようにして形成される生命体の中の神経系を基盤にして心が生み出されるわけであるが、これもボトムアップ式なのだ。細胞の中でも電気信号を伝達する性質を持つ特殊な細胞が神経細胞として分化する。そしてそれがいくつか組み合わさってネットワークを形成していく。最初は数個の神経細胞からなるネットワークで、ごく基本的な情報を貯めることが出来る。そのうち数百個の神経細胞からなるC・エレガンス(線虫の一種、以下「Cエレ君」)のようなレベルになる。すでに不快を回避し、特殊な臭いには向かっていくという能力を有している。それを極めて基本的な「心」とするならば、人間の大脳皮質のように数千億の細胞を有するネットワークも、その中間ぐらいに位置するネズミの脳も、昆虫の脳も、そしてCエレ君のような小さなネットワークも、いずれも心があり、その意味ではフラクタル的な関係と言えるのだ。

このようなボトムアップ的でフラクタル的な心という考え方として、前野隆司先生の「受動意識仮説」が参考になる。前野先生は脳の働きは基本的にモジュール的(つまりいくつかの単位が集まったもの)であるとし、より小さな部分を「脳の中の小人たち」と呼ぶ。あるいは数多くのCエレ君と考えてもいい。ただし彼らは実は手が生えていて互いにつながり合って影響し合っているCエレ君である。心とは結局小人たちが勝手に動いて生み出した情報が集合し、それが心という幻を生み出すという。小人たちは与えられた断片的な情報に突き動かされてかなりランダム性を備えつつアウトプットを生み出す。それが隣の小人たちとの集団のアウトプットと競合し合いながら、上位の集団(モジュール)としてのアウトプットを生み出す。それがまたほかの小人の集団たちのアウトプットと競合して・・・・、そして最後に大脳皮質全体で競合に勝ったものが、私によって「考え」として自覚される。その意味では心とはボトムアップ的に成り立っているものなのだ。

それに比べるとフロイトの想定した心は多分にコンピューター的ということになる。それはトップダウン方式を採用していることになる。フロイトが自我として想定した働き、すなわち思い出すと不快なことを防衛し、抑圧するために、それが無意識に送り込まれ…というのは上意下達のトップダウンであり、パソコンと同じだ。そしてそこにはそのパソコンの電源を入れ、プログラムを起動するという人間の意志によるトップダウンの決定が反映されるのだ。そしてその心臓部であるCPUに分け入ると最小単位はオン、オフの回路でしかない。いわばピクセルになってしまう。

ところが人間の中枢神経の最小単位である神経細胞一つ一つはそれが単体で生きていて、遊離すれば理想的な環境においては独り歩きしかねないのだ。心や人間を神が作り出した、という考え方、いわゆるインテリジェント・デザインという考え方もその意味では完全なトップダウンの考え方で現実の心の在り方を反映していない。

心のフラクタル性をある程度説明したつもりだが、だからどうした、と言われれば何も言えない。心とは実に複雑で、人間の行動に一つの決まった説明などない。それでも自分は生きていて、自由意志を持ったつもりになっている。いったいどうしてだろう? こんなことを考えながらこれからもしばらくは生きていくことになりそうだ。