2020年5月9日土曜日

揺らぎ 推敲の推敲 2


本章は少し長いのでまとめを述べておこう。ここでは揺らぎの欠乏としての発達障害というテーマで論じた。心の揺らぎという現象の本質は、それが不足していた場合にどうなるかを考えることでより明確になったのではないだろうか。
揺らぎの欠如ないしは減少は、それがその人にある程度定着した傾向ならば、その人の脳の一つの特性と言えるだろう。そしてそれが極端になった場合に発達障害、特に自閉症スペクトラム障害と呼ばれるのだ。しかしそれはある種の障害と決めつけることは決してできないような何かでもある。自閉症スペクトラム障害の症状を明確に示していたキャベンディッシュにしても岡潔にしても、掛け値なしの天才なのだ。そして彼らの業績は確かに揺らがない脳の持つ切れ味の鮮やかな論理的思考や突破力に関係している。ただしそれらの揺らぎのなさは強いこだわりや相手の気持の読めなさといった問題も伴なっていた。
本章を終える前に、バロン=コーエンの唱えたシステム化脳と共感的脳の関係性についてもう一度俯瞰しておこう。両者は排他的な関係にあるというのが彼の仮説であった。これは揺らぎとの関連で言えば、揺らぎの欠如と、揺らぎの豊富さとの違いと言い換えることが出来るのだ。そしてその意味ではこの両者は互いが互いを抑制しあう関係性にあるのである。
システム化脳は意味の揺らぎをできるだけ排することで本領を発揮するというところがある。しかもそれが発揮されている間はその人は他人から見られているかということに無頓着になる。授業そっちのけで黒板の前で思索にふけっていた時、岡先生はもはや教師としての姿を外側から、あるいは生徒の側から見る方向には心は揺らがない状態になってしまったのであり、そのことにより数学脳をフル回転させることが出来たのだ。その意味で彼らの脳は意味の揺らぎと自他の揺らぎの両方の低下を見せていた。
他方では共感のためには心は自他の間の揺らぎを最大限に発揮することになる。自分に対する対自的な視点は結局は相手の心を感じ取ることと同様のことである。そしてそれは遡れば母親が赤ちゃんの心をいかに察することが出来るか、という問題に行き着く。母親にとって子供の感じていることはかなり直接的に伝わってくる。新生児が泣いている姿を見て、デビューしたばかりの母親は一緒に目を潤ませる。その時母親はすでに子供と一緒になっている。自分の子供への声掛けは、子供が聞く母親からの声掛けと重複している。そしておそらくここに男女差は顕著に表れているのだ。しかしこれらのシステム化と共感は、対立するだけでなく、それ等自身が共存し、あるいは揺らぎつつ発揮されることがあってもいいのではないか。やはり私はそう願う。しかしおそらくはシステム化脳がある程度以上に突出、ないしは純化しないことが原則なのかもしれない。
本来人間のオスは外で狩猟をし、獲物を持ち帰ることを生業としていた。その時追い詰めたウサギに共感していたら仕留めることなどできない。相手はその瞬間には完全に感情を持たないモノでなくてはならないのだ。他方では人間のメスは子供を守り、養育し、その生存率を高めなくてはならない。そのためには子供の様々な感覚のセンサーとなり、そこでの異常やニーズを敏感に察知することが必要だった。
でも緻密な作戦を立てることのできるウサギ狩りの名人も、家に戻ったらシステム化脳をオフにして、心の揺らぎを取り戻し、良き父親ぶりを発揮できるかもしれない。そもそも人類は一夫一婦制により長い子供の養育期間を過ごしつつ繁栄を遂げてきたのではないか。そこでは特に男性がそのシステム化脳のオンオフ機能を有することが重要なのではないだろうか?
このように考えると、揺らぎ(+)と揺らぎ(-)との間の揺らぎこそが人間により多くの価値を与えるのである。発達障害の病理は、これらのことを考えるうえで極めて多くの示唆を私たちに与えてくれるのである。