2020年5月8日金曜日

揺らぎ 推敲の推敲 1

パターン重視と曖昧さの許容は共存しうるのか ―天才岡潔の例を見る

以上、私たちが日常他人と交流を行う時の曖昧さの許容ということが持つ意味について論じたが、それは曖昧さを排除する傾向と両立しうるのであろうか、という疑問が生じてもおかしくない。もちろんバロン=コーエンが考えたような極端なシステム化脳を持った人の場合、曖昧さに対する耐性は少なくなる傾向にあるだろう。しかし私たちは大抵はシステム化脳と共感的脳の両方の脳の性質をある程度ずつ持ち、それらをうまく使いこなしているのであろう。そしていざとなったら使うことが出来る共感脳を備えていることが、発達障害の人の人生をそれだけ豊かにするのだ。

岡潔先生(1901~1978)
ただものではない雰囲気だ
この問題について考えるうえで日本が生んだ不世出の数学者岡潔先生(1901-1978)の例を挙げたい。岡潔は数学の天才であっただけでなく、「春宵十話」、「日本的情緒」などで情緒の大切さを説いている。彼の人生は決してサヴァン的な面、システム化的な部分だけでなく、共感能力も長けていたのではないだろうか? 文化や感情の問題など、幅広いテーマについてのエッセイでも知られる岡先生は、私の頭の中では、人の気持ちもわかる素晴らしい人物として思い描かれる。バロン=コーエンの言うシステム化脳のモードと、共感脳のモードをスイッチできる能力を持っていたのではないか。
こちらも、やはりただもので
はないオーラを発している
2018年に読売テレビで「天才を育てた女房」というドラマが公開されたが、主人公は、この岡潔がモデルとなっている。天才であり、確かに変わり者であった岡潔(以下、敬称略)は、今でいうアスペルガー障害の傾向を十分に備えていたかもしれないが、きっとそれだけではなかったはずである。
私は頭の中で次のようなシーンを思い描いた。
「そんな岡潔であったが、時々しみじみと奥さんに言ったという。『君には僕のことでいろいろ迷惑をかけているね。済まないと思っているよ。』これで奥方(みちさん)はこれまでの苦労が報われた気がしたという。」
つまりはコンピューターのような働きを見せる先生の頭脳の内奥には、おそらく人間的な面がきっと備わっていて、それが研究の手を休めた際にはふと垣間見られるのではないか、という期待を岡は持たせるのである。