生物の進化自体が、実は必然ではなく、多くの偶然により生じていたことは、最近では主流を占める考えになりつつある。そもそも突然変異自体も適者生存とはとても言えない形で保持されていくからだ。皆さんはイッカク(一角)という奇妙なクジラをご存じだろうか。口の先から一本の長い槍をはやした、実に奇妙な海獣である。イッカクが生まれたのは環境に適していたからだろうか?
イッカクは角のような、しかし実は切歯が異常に長くなったような棒を使い、魚(タラなど)の群れに向かって振り回す、という得意技を持つ。群れに向かってやみくもに振り回した棒は不幸にもそれにあたった数匹のタラを打ち落とす。それをイッカクは捕食するわけだが、これは適者生存だろうか。それが生存に役に立つのであれば、どうしてほかのクジラや魚たちも異様なまでに伸びた切歯を持たなかったのか? 結局イッカクの角(というか歯)は、ほんのたまたま突然変異である雄に生じ、それが優先遺伝として受け継がれていっただけではないか? 適者生存というよりはたまたまの要素がかなり入っているのではないか、と考えざるを得ないのだが、大脳皮質における六角タイル軍の勢力争いも、どこかそういうところがあるのだ。ダーウィン的な進化にもこのような気まぐれな、出来心のような現象がみられるのである。
どのような思考にせよ発話にせよ、楽器の演奏にせよ、時間軸上に展開する(つまりダイナミックな)活動は、間断なき大脳皮質のテリトリーの奪い合いだ、ということをカルヴィンの本から思い至った時、私はすごく合点がいったのを覚えている。それらのプロセスは概ね無意識的に行われ、意識はそのプロセスを開始する指令を出したり、その結果を受け取ったりするときだけに働くというのが真相なのだ。そして無意識的な活動からどうして文法にかなった文章が出てきたり、あるいは楽譜通りのメロディーが紡ぎ出されたりするかは、そのダーウィン的な精神活動の進行が、かなりパターン化されていることを意味するのだ。