2020年4月11日土曜日
揺らぎ 推敲 41
いい加減さと快楽
読者の中には次のように思う方もいるかもしれない。いい加減であることが人の心の基本的な性質である場合、そのいい加減さについて、当人はどのように体験しているのであろうか。本来いい加減な性格であればそれでもいいかもしれないが、きちんとしたことの好きな、几帳面な方にとっては、いい加減であることは耐え難いことかもしれない。しかし前者の人々は、いい加減であることでかなり生きにくい人生を歩まなくてはならないであろう。と言っても生きにくいと感じるのは当人だけとは限らない。その周囲の人たちが苦労をすることになるかもしれないのである。この点は後にもう少し詳しく述べるとして、いい加減さはまずは本人の体験する快適さにつながるのだということを述べてみたい。
大分昔、おそらく20年以上も前のことであるが、田口ランディ氏のエッセイに書かれていたことがいまだに思い出される。もととなったネットの文章はもはやどこにも探せないが、彼女は次のようなことを書いていた。
「いい小説とは、それを読んだ後に、分からないという世界に放り出されるような小説だ」。
当時はどういう意味か分からなかったが、常に思い出されていて、だんだんその通りのように思えるようになってきた。その小説が人間を描いたものであれば、それを読んで人間がますますわからなくなる。しかしそれは不快さや混乱を招くのではなく、強烈な好奇心を刺激するようなものでなくてはならないのだ。逆に「人間とはこういうものだ」という結論を提示しただけでは、何も余韻が残らず、読者にそこから先を考えさせてくれないだろう。
「事実は小説よりも奇なり」という。イギリスの詩人バイロンの言葉というが、現実は小説が描くようなストーリーと違って多くの混ざりものや意味の不明さやいい加減さを含む捉えどころのないものである。その要素をいっさい排した小説は嘘っぽい作り物という印象を与えてしまうだろう。
私は心についても宇宙についても、進化についても、ゲノムについても、脳についてもとてもとても惹かれているが、それらに共通していることは、少し調べていくとどんどん分からなくなっていくところだ。そしてそこが魅力的なのである。いい加減さや揺らぎも自分の人生の予測不可能さを常に思い起こさせ、それが好奇心や期待感を抱かせてくれるのであれば、人生の上での生産性につながるのだろう。
私たちは「~すべきだ」という義務感に駆られるだけの人生を楽しむことはできないものである。それよりは自分の好きなことに注意を向け、エネルギーを注ぐことで生じる多少の手抜きや不注意については許容される方が居心地がいい。もちろん「~すべきだ」という行動ばかり行うことに耐えられる人たちもいる。しかしその場合は、ある種の不安や恐怖に駆られた結果として、そのような人生を歩んでいることが多い。その場合は「~すべきだ」に従うことはつらくても、その代わりに安全が確保されるのだ。ただしそのような人生にはおそらく創造的活動や探求や新奇さへの興味を追求することの喜びは望めないであろう。