すでに述べたとおり、いい加減さは興味のなさ、そして緊張感や不安感のなさに関係している。そしてもう一つは強迫的な傾向や、~しないと気がすまない、という完璧主義とも深い関係がある。例えば仕事上のメールで、ある事柄について検討して意見を伝えなくてはならないとする。それが私が非常に関心を寄せていることであれば、おそらくいい加減には済まさないし、そうしようとも思わない。私は場合によってはすぐにメールを返信し、むしろそれに対する相手の反応を今や遅しと心待ちにするかもしれない。
またその検討すべき内容が私の個人的な興味を惹かなくても、その返信を行わないことが重大な結果を招いたり、大きな損失を生んだりするなら、多少億劫でもすぐに返信をするだろう。さらにある種のメールに関しては、すぐにきちんと返信しないと気が済まない、という一種の拘りがあるとすれば、おそらくすぐに返信をするはずだ。この場合に私が「するはずだ」という言い方しかできないのは、私にはあまりそのような体験がないからである。
このように考えると、いい加減さというのは、かなり私たち人間が持っている本来的な在り方と関係しているような気がしてくる。人は強迫的で、~しないと気がすまないという部分を除いては、あるいは何かの不安や義務感に駆られることがなければ、その仕事が特別好きだったり関心を持ったりしないことには、結構いい加減なものなのではないか。おそらく私たちは本質的には省エネ傾向を持ち、出来るだけいい加減で居続け、あまったエネルギーを自分が興味を持つことに注ごうとしているのだろう。それは精神衛生上決して悪いことではない。
さて北山の「いい加減さ」の理論であるが、かなり多岐にわたった奥深いものである。そこで彼の用いるいい加減さ」という言葉の定義についてである。彼は「いい加減さ」として、「あれかこれか」の二者択一でも「あれもこれも」という欲張りでもない状態と述べているのが興味深い(2019)。ここで「あれかこれか」、という姿勢を「AかBか」と、「あれもこれも」を「AもBも」と言い直してみよう。いい加減さはこの二つの間を揺れ動く状態ということが出来る。しかしこれは具体的にはどういうことなのだろうか?
一つ言えるのは、この北山氏のいう「いい加減さ」は、どちらにも決めかねて、いわばどっちつかずで揺らいでいるという消極的なあり方ではない、ということだ。むしろ積極的に、両者の間を漂っている状態と言えるだろう。その時のタイミングや、その時に置かれた文脈によってはAかBのどちらかの選択をするという準備性を持ちつつ、ユラユラ揺らいでいる状態なのだ。私がそう考える根拠を示そう。
そもそも私たち人間の生きた体験とは、各瞬間に小さな二者択一を常に迫られているようなものだ。将来を決定するような重大な決断ではないとしても、小さな選択は始終行っている。生きるというのはそういうことなのだ。毎日朝電車に乗り通勤するときのことを考えよう。目の前に三つある改札口のどれかを選んで通っていかなければならない。ホームに下りる階段では、急いで駆け下りて発車間際の電車に飛び乗るか、それともあきらめて次の電車を待つかの選択があるかもしれない。いざ電車に乗っても、今度は目の前に微妙な感じで空いている席に座るかどうかの選択がある。
その際空いた席から同じくらいの距離に立っている別の乗客の動きを判断し、その人に譲るのか、それとも自分が積極的に座りにいくかを決めなくてはならない。そんなことを常にやり続けてようやく職場にたどり着くというわけである。それらの選択は実に些末なものに思えるが、結局はそれら一つ一つをこなして仕事場に至るのだ。
その際空いた席から同じくらいの距離に立っている別の乗客の動きを判断し、その人に譲るのか、それとも自分が積極的に座りにいくかを決めなくてはならない。そんなことを常にやり続けてようやく職場にたどり着くというわけである。それらの選択は実に些末なものに思えるが、結局はそれら一つ一つをこなして仕事場に至るのだ。
しかしこのような小さな選択をくり返している私たちはさほどそれを苦痛に感じたり、頭を悩ませたりしないはずだ。というのも私たちの祖先である単純な生命体は、常にAかBかを選択することで生命を維持し、種を保存してきたからだ。その際にそれぞれの選択肢を前にして深く悩んだり、考えすぎたりせず、適当に気軽に選択することこそが大事であるような機会がたくさんあったはずなのだ。つまり次のことが言えるのではないか。「いい加減さとは、深く悩まずに選択できるという貴重な能力なのである。」
実際私たちが生きる中で、選択の機会は無限に存在すると言っていい。そしてその多くはいま選択しなくてもいいものである。どうしても選択を回避せざるを得ない時にはAかBかを決めることが出来ることが大切なのだ。どうやらいい加減さとはそういう深い意味を有しているらしい。その意味では、これは決してイイカゲンで生半可な話ではないという事だ。