じゃれ合うことの意味
ところで私にとってどうしても不思議なことがある。私の考えでは、この笑いの問題は遊びやじゃれ合いと深く結びついている。ところが遊びやじゃれ合いは、動物の世界ではごく当たり前に起きていることなのだ。心というものが存在するのは霊長類からか否か、などという問題が真剣に語られる一方では、ワンちゃんだって生まれてすぐから一緒に生まれたきょうだいとじゃれ合い始める。しかも彼らのやることはとても手が込んでいる。相手を攻撃するようで爪は決して立てない。ギリギリのところで本格的な攻撃を回避する。それをお互いに際限なく繰り返すのだ。もちろん動物学者はもっともらしく説明するだろう。これは狩りの練習をするためだ、など。しかしそれにしてもどうしてこんな芸当が可能なのだろうか、と私は不思議になる。
系統発生的に考えてみよう。爬虫類や両生類にじゃれ合いは可能か? 卵からかえった子ガエルがじゃれ合っている、という話など聞いたことはない。ワニの子供たちがお互いに甘噛みをして遊んでいる、という光景は想像できない。どう考えても哺乳類からである。試みにグーグルで「じゃれ合い、動物」で動画を検索してみる。やはり出てくるのは猫、犬、馬、パンダ・・・。おそらく海の中ではイルカやクジラだったら可能だろう。しかしサメ同士の追っかけっこなど想像できない。frolicking, animals と Youtube で英語で入れてみても同じようなものだ。
ちなみにポリベーガル理論についての大著を書いた津田先生によると、「爬虫類でも鳥類でも、遊びらしき行動はあるが、一時的、偶発的で、持続的な社会行動としての遊びは、哺乳類に特徴的なものであるという(津田、p344)。」 としっかり文献を引いて解説している。
揺らぎとの関連で言えば、これは心の中に攻撃と愛情表現という二つの体験の間の揺らぎやギャップを生み出しているのだ。例えば仲間の動物に、あたかも本気で襲い掛かり、攻撃をするようなふりをすることで、逃走・逃避反応の発動寸前まで起こさせ、その寸前でその手を緩めて、「ナーんちゃって」といってそれを中止し、ギャップを楽しむのが遊びということになる。その前提は、相手の心に浮かんだ一瞬の恐怖を推し量ることができる能力だ。なぜなら相手がそれを真の攻撃と体験することで逆に反撃される危険を冒すことは許されないからである。そしてこれは意味の揺らぎや自他の揺らぎを体験できないと成立しないのである。
ここで少し視野を広げてみよう。子供が親にお乳をねだる様子や、オスとメスの交尾の様子を考えよう。すると昆虫のレベルでもオスとメスが体を合わせる、イチャイチャする、という一見じゃれ合い風の様子が見られる。ところが昆虫のレベルでは、実はこれはいちゃつきや遊びとは全く異なるものになる。というのも彼らにとって交尾とは一歩間違えれば相手に殺されかねない危険な賭けでもある。サソリのオスは一歩間違えばメスに尾の先の針で一刺しされそうなリスクを負いながらメスに近づき、相手に刺されないようにその鋏をガッチリつかんで距離を保ちつつ目的を遂げようとする。というのもメスはオスが気に食わなければ本気で襲い掛かってきかねないからだ。このような姿を哺乳類のカップルと比べよう。健康的なカップル同志のいちゃつきはどこか子供のじゃれ合いに似た、平和で幸せに満ちた関わり合いのように見えるだろう。ところが遊ぶことのできない下等動物にとっては、交尾はまさに命をかけた真剣勝負なのだ。