第9章 遊ぶことと揺らぎ
遊ぶことと揺らぎはきわめて深い関係を持つのだが、そのことのとっかかりとしては、まずはフロイトの「糸巻遊び」を論じなくてはならない。精神分析関係の方でなくてもよく知られているこのテーマは、フロイトが1920年に書いた「快楽原則の彼岸」という論文に収められている。フロイトの一歳半の孫が、ひものついた糸巻きと遊ぶ。彼は糸巻をベッドの下に投げ入れ、「Fort(いない)」を意味する「オー」という発声をし、それからひもを手繰って糸巻きをベッドの下から引っ張り出して、姿を見せた糸巻きをみて「Da(
あった)」を意味する「アー」という発声をする。彼はそれを延々と繰り返して、母親がいなくなった時の苦痛を劇化していると解釈する。そしてそうすることで「欲動満足に対する断念」が行われるというのだ。そしてフロイトは、「苦痛な体験を遊びの劇として反復することは、どのようにして快原則と整合性が付くのだろうか?」と問い、そこから死の欲動を発想したことになっている。
このように遊びがある種の心の苦痛を和らげ、それに一方的に苦しめられる立場から、それをコントロールする立場になるという理論は、その後かなり分析の世界では一般化する。否、精神分析だけではない。一般的に遊びが外傷体験の克服として用いられるという考え方は、むしろ私たちにとってなじみ深いもののようだ。
より最近では「地震ごっこ」「津波ごっこ」のことが思い出される。そういえばそんなテーマで論文を書いたなあ。「岡野憲一郎2001「災害とPTSD-津波ごっこは癒しとなるか?-」『現代思想』39-12、青土社、pp.89- 97」そこで強調したのは、「津波が来たぞー」といって興じる子供たちの多くは自らの外傷体験を克服することにそれを役に立てるとしても、一部にはそれを津波の悪夢を蘇らせるものとして極力回避することになるかもしれない。遊び
= コントロール論はそれほど簡単なものではないかもしれないのだ。
さて、糸巻の出し入れの反復は糸巻が「隠れる⇔姿を現す」の揺らぎ、ということになる。ただし「ほらね、糸巻遊びは揺らぎでしょう。だから遊びとは揺らぎなのです。」などという単純な議論をしようと思うのではない。問題はこの種の揺らぎがある種の快感を呼ぶために繰り返され、それがたまたま適応的に働くらしいということだ。すなわちその種の仕組みを私たちの神経系が持っているということだろうか。
私がむしろ健全で、精神発達にとって促進的である遊びの典型として取り上げたいのは、「イナイイナイ・バァー」である。それは明確に対人関係に根差し、しかもしれの確立はある発達上の一ステージへの到達とみなすことができるからだ。それに比べてフロイトの例は、実は自閉的なにおいがする。糸巻遊びに興じる1歳半の孫は、健全に育ったのであろうが、もし彼が5歳になっても10歳になってもこの「Fort-Da」の遊びを繰り返していたら、かなり心配になる。それはむしろ回転いすを延々と回し続けたり、砂場の砂を掬っては手の間から漏れるのを一心不乱に眺める自閉症児の姿により近いであろう。それに比べて「イナイイナイバァー」を延々と繰り返す子供には少なくとも発達障害の臭いはしてこない。
ともあれこの種の遊びの決め手になるのは快、スリルであることに間違いない。イナイイナイバァを子供のころ体験したことを生々しく覚えている人は多くないかもしれないが、子供を相手に繰り返した経験を持つ人は多いだろう。子どもを持った人ならほとんどが体験しているだろう。もちろん子供に付き合わされて繰り返す場合もあるだろうが、やっていて実際面白い。スリルが伴う。なぜだろう? 子供はつらい体験を克服するためにやっているとは思えない。フロイトには悪いけれど。楽しいからやっているのである。それにエルンストが糸巻遊びをしているとき、彼はおそらく母親のことなど考えていないのだ。ただ楽しいからやっているはずだ。だからもっと言えば、フロイトが「なぜこれが快原則と整合的なのだろう?」と考えるとき、彼は勘違いをしていることになるだろう。フロイトはどちらかといえば遊びを知らない人といえないだろうか。あるいはとてつもなく頭がいいといえるのか。だから孫の糸巻遊びを見て深い洞察を得て論文が一本出来てしまうのだ。