揺らぎの欠如と発達障害について考えると、発達障害的な心の在り方とは反対側に位置すると考えられるような人々のことが浮かんでくる。それは私たちがテレビで毎日目にしているお笑い芸人と呼ばれる人たちである。
私は個人的には彼らに非常に感謝している。いつもとても笑わせてもらっている。それに彼らは人間観察の絶好の機会を与えてくれる。お笑い芸人がなぜ観察対象として素晴らしいかと言えば、職業上、彼らが内面をさらけ出すことは、半ば必然になるからだ。彼らは笑いを取るためには自分のプライドを捨て、自分にとっての恥部をもギリギリまでさらけ出す。恥ずかしいことをさらけ出すことによる恥辱は、笑いを取れないで立ち尽くす(スベる)恥辱よりは、はるかにましだからだ。そこで彼らは表舞台でのパフォーマンスの時でさえも、私が日常出会う人々よりも一歩も二歩も内側を見せてくれるのだ。
私がここで提案したいのは、揺らぎが時には過剰なまでに豊富な状態、私たちが発達障害で見た状態とはちょうど反対に位置する心の状態が彼らに見て取れるということだ。あるいはもう少し簡略化していうならば、笑いは意味や情緒の揺らぎを前提として成り立つのである。そして自分が意味の揺らぎを体験しながら、そして揺らぎを作り上げて聴衆の心の中に送り込むことで、笑いを生み出していくのが彼らお笑い芸人の仕事なのである。
私がここで提案したいのは、揺らぎが時には過剰なまでに豊富な状態、私たちが発達障害で見た状態とはちょうど反対に位置する心の状態が彼らに見て取れるということだ。あるいはもう少し簡略化していうならば、笑いは意味や情緒の揺らぎを前提として成り立つのである。そして自分が意味の揺らぎを体験しながら、そして揺らぎを作り上げて聴衆の心の中に送り込むことで、笑いを生み出していくのが彼らお笑い芸人の仕事なのである。
TEDトークで、あるブラックジョークを聞いた。
「病でもう余命いくばくもない男が、我が家のベッドに臥せっている。ふと隣のキッチンから漂ってくるクッキーの香りに惹かれる。もうほとんど食欲などというものとは無縁だった彼が死を前にして嗅いだ焼きたてのクッキーの香り。男は最後の力を振り絞ってベッドからはい出し、キッチンにたどり着いた。そして妻がオーブンから出して皿に盛ったばかりのクッキーの一つに手を伸ばす。すると妻は夫の手をピシッと叩く。「あんた、何やってんの! これはお葬式に出すものよ!」
私はこれを普通に笑うことが出来たが、不思議なのは理屈で考えても、このジョークがどうしておかしいのかがよく分からないことだ。それはおそらく笑うということの裏にある心のメカニズムがかなり込み入ったもので、そこに起きていることを理屈で考えても、つまりそこにシステム化的な、論理的分析的な思考を当てはめても、笑いの鍵は見当たらないということなのだろうか。それでも少し頑張ってみる。
このジョークが面白いのは、当然ながらこの奥さんの振る舞いが場違いだからだ。夫の手をピシッと叩くのは、子供のいたずらを叱る母親のシーンを呼び起こすが、妻が夫の子供っぽい仕草をたしなめるシーンも連想させる。これはこれでよくある状況であろうし、自然なことだ。例えば家で誰かのお葬式を挙げることになっている場合に、そのために焼いたクッキーを旦那が一つ失敬しようとして奥さんからピシッとたしなめられられるとしたら、そこには何の意外性もなく、それで笑いを誘うことはないだろう。そこでもう一つの仕掛けがいる。それは何だろうか。
この五行ばかりのジョークを読んだ読者は、死を前にして最後にクッキーを一口味わって、昔のおふくろの顔でも思い出し、穏やかで幸せな気持ちで死に向かっていく男を思い浮かべているはずだ。そしてそのクッキーの皿に手を伸ばす・・・・。そこまではいい。そして最後の行でのどんでん返し、あるいはギャップ。そう、このギャップが笑いを起こすのだ・・・・。たいていはここで笑いの説明は終わるのだろう。しかしもう少しその先を探ることは出来ないだろうか。
その手がかりとして、このジョークを台無しにしてしまう、いわゆる「スポイラー」を考えてみよう。例えばジョークがこんな感じだったらどうだろう。
「妻は夫の手をそっと優しく止めて、言う。『ごめんなさいね。あなたが食欲を取り戻してクッキーを食べてみたくなった、というのはすごくうれしいわ。ただこれはあなたのお葬式のためにお客様に出すものなの。』」
まあ多少笑いは取れるかもしれないが、パンチはほとんど失せてしまっている。(ちなみに英語では、ジョークの最後の一言は punch line という。)しかしこれがどうしてジョークを殺してしまうのだろうか。この妻の言葉がジョークを聞いた人の心の中で体験するべきギャップを埋めてしまうからだろう、ということくらいは言えるだろう。
スポイラーをもう一つ考えた。ジョークをこう書き換えてみる。
「しかしベッドからはい出してキッチンに向かった男は、妻のキツイ性格も知っていた。そしておずおずとクッキーに手を伸ばした…」これもすっかりパンチを殺してしまうだろう。これも男の言葉がギャップを予想させてしまうので、実際の妻のセリフは全く効果を発揮しない。
うーん。スポイラーは思いつくが、ギャップ仮説を除いては、どうしてジョークがこれらにより殺されてしまうかまだよくわからない。ただしジョークを聞いている人の頭の中で、夫の病状を当然心配しているはずの妻、夫の最後の望みなら当然喜んで聞いてあげるはずの妻のイメージが一方にあり、他方に実に無慈悲に夫の願望をはねつける妻のイメージがあり、その両方が真正面からぶつかる、そしてそのことに妻自身が気が付いていない、という状況が笑いを誘う、ということくらいは言えそうだ。(もはやこれを書いていてもこのジョークは全く面白くも何ともない。)あるいは妻に手をはたかれて唖然としている夫の気持ちを想像する部分に可笑しさがあるのかもしれない。
ただしここで大事なのは、ジョークがなぜ面白いかということよりはむしろジョークがわかる、ジョークを考え出すことが出来るという能力とは何かということだ。そしてそこには様々な立場にある人が心に浮かべることを、同時にないしは時間差で想像し、そこに生まれるギャップを頭の中で疑似体験し、聞き手に成り代わって感じ取り、あるいはそのようなギャップを作り出すという能力である。それにお笑い芸人が優れているとしたら、それは様々な立場にある人々の心を自分の中に置いてみる、あるいはそれらの人々の心に入って共感してみる、ということであろう。そしてこれは、意味の多義性、揺らぎにつながることなのだ。クッキーに手を伸ばすということ、あるいはそれをはねつけるということが持つ意味が、人により全く異なるということの理解を前提として初めてギャップを体験することが出来るから、というわけだ。