昨日述べたフロイトの立場をもう少しわかりやすく言おう。「きれいな桜の花を見ることは嬉しい。でもやがて花は散ってしまうこともわかっている。しかしそれを嘆くのはなんと愚かな事だ。散ってしまう事への覚悟を持ち、心の中に桜の花をおけばよいではないか。」そして同時にフロイトの嘆息まじりのつぶやきは聞こえないだろうか? 「それに …。いつもそこにいると思うと逆に愛でることが出来なくなるではないか。」
まさにしかり、である。一年中桜が満開であるとしよう。人はおそらく目が慣れてしまって桜の木を見ようともしなくなるだろう。桜はそこにあっても、それは常にそこに立っている建物や街路樹と同じようにすぐに背景化してしまう。時々出てくるからこそ新鮮さが保たれる。美にはそこに新鮮さ、斬新さ、驚きが不可欠なのである。そしてそれはおそらく人間、あるいは動物の感覚器が持っている宿命と関わっている。
感覚器と言えば、皆さんはこんな実験をご存知だろうか。医学的に眼球を完全に固定することが出来るという。そのような状態で、被験者にあるものを眺めてみる。するとその輪郭はすぐに消えてしまうそうだ。なぜなら通常の眼球は常に「固視微動」という運動を行っているからだ。つまり目は何かを凝視している際に、実は細かく揺らいでいて、それで初めて輪郭を捉え続けることが出来るのだ。もし仮に私たちの目の網膜にある映像を投影して一切動かさずにいると、目は早ければ数秒でその輪郭を失ってしまう。この固視微動はこれまた「1/f揺らぎ」であり,振幅の回転角は約 0.25度であるという。(NTT技術ジャーナル 2004.10 、P60~ 61)。
この目の網膜と同様のことを、触覚を司る手のひらに当てはめればわかりやすいだろう。紙の上に打たれた点字を触ってみる。その意味を分からないとしても、その字をなぞることで、幾つかの点の配置を知るだろう。しかしその指を点字の上から一切動かさないでいると、たちまち何を触っているのか分からなくなる。つまり字の輪郭を触って知るときも、実際にはその点の上をなぞる指が動いていることで感覚を受け続けることが出来る。(もちろん一瞬触ってすぐに分かったのであれば、それでも構わないであろうが。)
あるいはふわふわの触り心地のいいタオルの感触を確かめる時を考えてもいい。ふわふわの感覚は、絶えず手のひらを動かすことで得られるのであり、タオルの上の手を静止させてしまえば、もうフワフワの感覚は得られない。つまり網膜の視神経細胞と全く同じなのだ。
このことからわかることは、ある対象に関して私たちの得る感覚とは、感覚器の側が固定されてしまえば、つまり揺らぎを失ってしまえばもう感覚情報として取り入れることが出来なくなる。もちろん対象の側で代わりにゆらゆら動いてくれたらいいのだろうが、現実の物事はそのように都合よく揺らいではくれないであろうから、私たちは視覚や触覚などを得る、眼球や指などの感覚器の方に揺らぎを与えることで、ようやく感覚情報を取り込むことが出来る。