フロイトと「儚さ」
この様に少なくとも理論においては揺らぎの少ないフロイトであったが、彼が1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイはむしろ例外的といえるだろう。このエッセイはフロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。特に揺らぎや死生観に関して彼が考えていたことが示されている。
この「儚さについて」のエッセイでは、フロイトと美しい田舎町を一緒に散歩をしていてにある友人の詩人たち(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメとされる)が登場する。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「あーあ、この美しい景色もやがて消えていてしまうのよね。寂しいわ。」(ちなみに言い方は私が少し脚色してある。一応ザロメの発言という事にしよう。)それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」また彼はこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそ、なおさら美しいのだ。」
フロイトの着眼点のするどいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。そして彼はそれを「Transience (儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。本書の読者には、これが臨界領域の問題と重なって見えるかもしれない。
ところで、フロイトの言う「消えていくから価値がある」とか「希少だから美しい」という主張は納得できるだろうか? フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。でもそんなに割り切って考えることなどできるのだろうか、と思いたくなるのだ。私は全く分からないというのではないにしても、すんなり分かったとはとても言えない。むしろリルケやザロメの感覚の方がよくわかる。ただフロイトはここである種の二重視の問題を扱っているようだという事は分かる。
話を桜の花に喩えてみよう。「桜の花は散っていくからこそ美しい」。これは感覚的に頷ける人が多いかもしれない。その時、私たちは桜の花の向こう側の不在を同時に愛でているという事になる。「美しい」と共に「数日後には消えて行ってしまう」という感覚。このことから台北の故宮博物院に飾られていた「白菜」のことが思い出される。といってももちろん本物ではなく、翠玉白菜(すいぎょくはくさい、虫がとまったハクサイの形に彫刻した高さ19センチメートルの美術品。← WIKI pedia)この展示の周りに人が群がり、「スゴーイ」となるわけだが、見る人によってはプラスチック製の安物の白菜に見えてしまうかもしれない。ところがこれがきわめて固い鉱物であるヒスイでできており、葉の部分にあたる緑色も実は原石の色をそのまま用いていることなどを同時に聞いていると、「ホホー!」感が増すことになる。あの硬い石をこれだけよく加工したものだという感動が加わるのだ。そしてもちろんそれは実際の白菜の美しさ(?)とは別物である。しかしそこには感動が伴うのだ。桜だってそうである。今見ておかないと消えてしまう、と思うとより注意を払ってみるだろう。あれだけ硬いものをよくぞこんなに削った、と思うとより注意深く眺める、というのと似ているのだ。これを私は二重視といういい方で表しているのである。
フロイトはこのエッセイの中で、一つ問題発言をしている。それは「失われるものを嘆く人は、ちゃんと心の中で供養を済ませていないからだ」という様な主張だ。この言葉の意味は決して容易ではないが、より正確にはフロイトはこれをリルケに対して「それはあなたの喪の作業に対する抵抗のせいだ revolt against mourning」という言い方をしている。喪の作業とは、あるものを失った時に、それを十分に受け入れ、外で失ったものを心の中のイメージにして(内在化して)ずっととっておくという意味だ。その作業をきちんとすれば問題ないよ、と言うのがフロイトの立場である。