2018年4月21日土曜日

精神分析新時代 推敲 61


スペクトラムという考え
そこで私は精神療法の強度のスペクトラムという考えを提示したいと思います。要するに精神療法には、密度の濃いものから、薄いものまで様々なものがありますが、どれも精神療法には違いないという考え方です。私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの気持ちも代弁しているつもりです。
 このスペクトラムには、一方の極に、フロイトが行っていた「週6回」があり、他方の極に、おそらく私が精神療法と呼べるであろうと考える最も頻度の低いケース、つまり3ヶ月に一度15分が来ます。大部分はこの両極の間のどこかに属するのです。その横軸を、仮に精神療法の「強度」とでも呼びましょう。一番左端はフロイトの週650分の強度10の精神分析です。通常の450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいになるでしょう。左端には、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。(フロイトは、なぜ週6回会うのかと問われて「だって日曜日はさすがに教会に行く日だから会えないだろう」と答えたと言います。つまりフロイトにしてみれば週7回が本来の在り方だったのかもしれません。それを強度10とするならば、週4回は強度8くらいにしておかなくてはなりません。)
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人のせいとは言えないでしょうし、二週に一度なら意味がないから来なくていいです、というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持っていますし、週5回の分析を受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを実際に受けたり、行ったりしないで、何が言えるのだ!」と言われてしまうでしょう。私はもともとバリバリの精神分析志向の人間ですし、分析のトレーニング中に、特別発注の、当時2000ドルしたカウチも所有しているくらいですから。
このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておきます。おそらくその強度に関しては、一般的な意味では時間的な頻度が低下するにつれて弱まって行きます。ただしそれはあくまでもなだらかな弱まり方です。つまり、私はたとえば週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、それこそ越えられないような敷居があるとは思えません。私のメンタリティーに変わりないし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、それだけ治療は、ほかの条件が同じなら効果が薄れていく。やっていて物足りないと思う。そして俗にいうところの深いかかわりは起きる頻度も少なくなっていくでしょう。それはそうです。何しろ四輪駆動が軽になるわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行けるたびはあるわけです。
 このスペクトラムのもう一つの特徴としては、これがあくまでも治療構造上のものであり、実際には週回でも弱い治療もあれば、二週に一度でも非常に強い治療もありうるということです。週回でも6回でも、非常に退屈で代わり映えのないセッションの連続でありえます。藤山直樹先生はその退屈さに耐えることが大事だと言っていますが、それは少しぜいたくな話かな、とも思います。頻回に会う関係は、しかしその親密さを必ずしも保証しません。一部夫婦の関係を見ればわかるでしょう。毎日数時間顔を合わせることで、逆にコミュニケーションそのものが死んでしまうこともあるわけです。逆に二週に一度30分でも強烈で、リカバリーに二週間かかるということはありうるでしょう。そのセッションで探索的、あるいは一種の暴露療法的なことが行われた時にはありうることです。治療者のアクが強い場合もそうかもしれませんね。
あるいは極端な話、一度きりの出会い、このスペクトラムで言えば0.01くらいの強度に位置するはずの体験が、一生を左右したりします。そのようなことが生じるからこそ精神療法の体験は醍醐味があるわけで、週一度50分以外は分析ではない、という議論は極端なのです。私の知っているラカン派の治療を受けている人は、20分くらいのセッションが終わってから「あとで戻ってきてください。もう一セッションやりましょう」などと言われそうです。一日2度、一回二十分という構造など、このスペクトラムのどこにも書き入れる事が出来ません。それでもある社会では治療として成立しているということが、このスペクトラム的な考えを持たざるを得ない根拠となります。
このスペクトラムのもう一つの特徴についてついでに申せば、これには幾つかの座標があり、その意味では一次元的ではないということです。一つはこれまでに話した頻度の問題があります。そしてもう一つは、セッション一回当たりの時間の問題です。これもはてはダブルセッションの90分から5分まで広がっています。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもあります。これもご存知の方はいらっしゃると思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間ファクターがあります。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいます。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターがあります。たとえば医師が心理面接の開始5分前に、例えば心理面接の始まる35分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ3時までには心理士さんにバトンタッチできるという算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類を持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても5分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして構造を守るためには起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。3時~3時半の予定のセッションが310分に始まった場合、それを3時半で切り上げるわけにはいかなくなります。こうなるとと開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。こうして患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込む必要があることになり得ます。そしてこの不確定さ(治療枠の「緩さ」)れもまたスペクトラムの一つの軸です。さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそこに含まれます。
それ以外にもたとえば料金の問題があります。一回2万円のセッションから、保険を使った通院精神療法まで。あるいは一回1000円のコントロールケース(精神分析のトレーニング中のだってあり得るでしょう。治療者がどの程度自己開示を厳密に控えるか、だってスペクトラムがあり得ます。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついて患者を迎い入れましたが、その理由を一切聞かれなかったといいます。しかし少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくてごめんなさい」という治療者だっているかもしれません。この様に治療におけるスペクトラムは多次元的ですが、大体どこかに収まっていてそれが一定であることで、治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るでしょう。