2016年2月26日金曜日

ある書評 2 so-called SP (27)

9,10章については私の専門性をやや外れるために割愛させていただくが、最終章である第11章の岸本氏による「コンシャス・イド」については少し詳しく述べたい。というのも本章はソームズおよびニューロサイコアナリシスの向かう先がフロイト理論の単なる脳科学的な追試ではなく、その先に広大に広がる心の世界の探求を進めるうえで大きな意味を持っていると考えられるからである。言うまでもなく「コンシャス・イド」、すなわち「意識的なイド(エス)」、とはそれ自身が矛盾した概念だ。フロイトはイドをリビドーの貯蔵庫と考え、無意識的なものと捉えたからだ。フロイトはまた、自我は大脳皮質で生じることに概ね対応するものと考えたが、自我機能の中には、前意識的、ないしは無意識的な部分もあるとした。しかし心を脳科学的にとらえなおし、そこにフロイト理論を重ねた場合、彼の考えたイドには意識化された部分がある、と考えたのがソームズであった。彼はまたイド概念をそのようにとらえなおすことにより、精神分析的な概念は身体性をも含めた心の理論として復権させることもできるというニュアンスをそこに込めている。そしてそれはフロイトの理論を踏み台の一つにはしていても、それを超えた理論の発展を目指したものである。岸本氏自身が「ソームズはフロイトの信奉者ではない」という節を設けている通り、最終法廷はあくまでも臨床実践の場であり、フロイトの復権ではない。
無論「コンシャス・イド」という概念自体が挑発的であり、さまざまな議論を呼んでいるのも事実である。伝統的な分析の立場からのみならず、ニューロサイコアナリシスからも批判を浴びる可能性がある。しかしそれはニューロサイコアナリシス、あるいはひいては心に関する理論そのものをいい意味で活性化させるという意図が込められているのであろう。
コンシャス・イドの概念が特に意義深いのは、すでに述べたパンクセップの情動脳科学の議論はそのままこの範疇に収まる点である。

以上本書についての概説を行ったが、もちろん評者としては多くの読者が本書を直接手に取り、実際に読んでいただきたい。決して平易な内容とはいえないが、現代の脳科学が到達しているレベルを知ることが出来、またフロイト理論がなぜいまだにこれほどの影響を持つかの理由を知ることにもなるであろう。


So called SP (27)
  
Clinical Exaple

I would like to discuss a case A that I treated long time ago in the US, ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・early teens.